妖精郷の守護女神(ゴールキーパー)

カジカガエル

霧のむこう

 ロンドンの深い霧が晴れると、そこは異世界だった。


 私は二木撫子。


 十七歳で一九八センチという、だいぶ身長に恵まれすぎた女子高校生で、女子サッカーU17日本代表チームの正ゴールキーパーを務めている。


 某漫画にちなんでスーパーグレート女子高生ゴールキーパー、略してSGJKGKなどという、言いにくい異名を持ち、ここロンドンで開催中のU17女子ワールドカップの予選、そして準決勝までの全試合を無失点で乗り越えてきた。


 U17のみならず女子サッカー全体でも最強のゴールキーパーなどと言われている。


 決勝の相手は地元イングランド代表チームで、やはり予選、準決勝までの全試合でハットトリックを決めた天才ミッドフィルダー、イーディス・ハーグリーブズと私の矛盾ホコタテ対決が注目を集めていた。


 決戦を翌日に控えて緊張し、マインドフルネス、などといって霧深いホテルの庭園で瞑想の真似事をしたのだが、それがダメだったらしい。


 真っ白の霧が薄れると、ホテルも庭もなくなっていた。


 ロンドンの市街そのものも完全に消えうせて、見渡す限りの草原に森林や河川、湖沼が散らばる緑の世界が広がっている。

 それと、空もおかしい。

 霧の中で瞑想を始めたのは夜だったのに、頭上には青空が広がってしまっていた。

 結跏趺坐をしていた足をほどいて立ちあがり、周囲を見回す。


「……なに?」


 無意識に漏れた呟きに応えるように、足元から声が聞こえた。


「バカメゾ」


 日本語でなく、英語のバカメ、である。

 足元に視線を落とすと、トカゲに似た生き物たちが私を取り囲むように集まっていた。

 鉄鉱石のような色合いの皮膚、尻尾を含めた体長は六〇センチほど。直立した頭の高さは三〇センチほどあった。

 数は七匹。

 見たことのない種類のトカゲだった。


「クルゾ」

「ケルピーゾ」

「エジキゾ」

「ハラワタヲクワレルゾ」

「ノウミソヲススラレルゾ」


 不気味な言葉を繰り返すトカゲたち。

 だいたいの意味はわかったが、ケルピーという単語ははじめて聞いた。

 

「ニゲロゾ」

「イソゲゾ」

「シヌゾ」


 さらにそんな言葉を投げるとトカゲたちはさっと散らばり姿を消す。

 それと入れ替わりに、生臭い匂いが漂って来る。

 振り向くと、異様な生き物の姿が見えた。

 体長十メートルにも及ぶ、肉食恐竜めいた大きさの巨大馬。

 体のあちこちから長いヒレが垂れ下がり、眼窩には魚のような目玉が収まっていた。

 あとで知ったことだが、イギリスのスコットランド地方の伝承に語られるケルピーと呼ばれる水妖だった。

 長く裂けた口には、獰猛な肉食魚を思わせる牙がノコギリのように並んでいる。

 悪い冗談のような造形だ。

 私も色々な方面から『化物』『怪物』『巨人』『絶壁』などと呼ばれてきた女だが、文字通りに本物の怪物だった。


 刺激しないようゆっくり後退ろうとしたが、手遅れだった。

 怪物馬は加速し、突っ込んで来る。

 咄嗟に横に動いてやり過ごそうとしたが、それでもギリギリだった。

 最後は地面にダイブして、なんとか身をかわす。

 シュートストップの為に磨いたダイビング技術が思わぬところで助けになった。

 怪物馬は異様な柔軟性と筋力を見せつけて体勢を立て直し、再び突進してくる。

 生物としての本能が逃げろと叫ぶが、ゴールキーパーとしての状況判断能力は無理だと告げた。

 敢えてその場に踏みとどまる。

 怪物馬のワニのような顎が直角に開き、私の頭を噛み潰すように迫って来る。

 今度も真横に身体をずらして逃れ、そこから右足を繰り出す。

 怪物馬の大きな膝を、思い切り蹴りつけた。

 最初に言ったが、私の身長は一九八センチ、体脂肪率は一〇%未満のフィジカルモンスター。

 前足を蹴り折るのはさすがに無理だったが、怪物馬はバランスを崩し膝をつく。

 逃げるなら今だ。

 今度こそ本能に従って、死に物狂いで走り出す。

 目標は遠くに見えた森。

 体長十メートルの怪物馬ならば身動きがとりにくいはずだ。

 怪物馬も追ってきたが、膝へのダメージのせいかスピードに乗り切れていない。

 どうにか振り切って森の中に飛び込んだ。

 狙い通りいったのか、怪物馬は森に近づいたところで足を止め、それ以上は追ってこなかった。


 あとで知ったことだが、私が飛び込んだ森は迷いの森と呼ばれる、侵入者の五感や方向感覚を狂わせる特殊な森だった。

 怪物馬はそれを嫌ったのだが、この時点の私には想像のしようもない話だった。

 呼吸を整え、再び動き出す。

 怪物馬を警戒つつ森の外に出ようと思ったのだが、私は森の魔力で方向感覚を失っていた。

 来た道を戻っていっても、森の外には出られなかった。

 そもそもまっすぐ引き返すこともできていなかった。

 どちらに歩いても、どこまで歩いても出られない。

 そうしているうちに、太陽が傾き始めた。

 このままでは、わけのわからない土地の、わけのわからない森の中で明かりもなしに夜を過ごすことになる。

 また霧に巻き込まれてから、ここまでずっと飲まず食わずだ。

 完全な危機的状況である。


 どうなっているのかわからない。

 どうすればいいかわからない。

 このままでは試合にも出られない。


 パニックを起こしそうになる自分を自分で叱咤し、落ち着かせながら歩いてゆくと、不意に視界がひらけた。

 そこにあったのは、コンパスで切り抜いたように丸く、黒い鏡のように光る沼。

 直径でいうと一〇〇メートルくらいはありそうだ。

 周囲を警戒しつつ水際まで歩いてみたが、それでも不用意だった。

 踏みつけた地面が、突然ずるりと崩れた。

 沼周辺の地盤が弱く、私の体重を支えきれなかったらしい。

 足元の泥濘ごと転がり落ちた私は、そのまま黒い水面をすり抜けていた。

 泥沼の中に突っ込むことを覚悟したが、衝撃や冷たさがやってこない。抵抗も、浮力も、湿り気も感じなかった。

 自然落下の速度のまま、水面を通り抜けていく。

 地上から見えた水面は幻影。

 実際は沼というより大穴だったらしい。

 偽の水面の数十メートル下には、澄んだ水をたたえた本当の水面があり、黒いタールの塊のような物体が浮いていた。

 蛇のような胴体に短い四肢と大きな羽を備えた巨大な生き物の骸。

 ほぼ完全に腐り果て、あちこちから骨が露出していた。


 竜。


 そんな単語が脳裏に浮かんだ瞬間、私は水面に叩きつけられ、気を失っていた。

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