外典 1-6 背筋に冷たい汗が流れ落ちていった

「如何でしたか」


 はっと気付けば、目の前には香坂医師の顔が在った。


 被っていたVRマスクのような仮面を引き上げて、期待度一二〇パーセントの表情であたしの顔を覗き込んでいる。


 動悸が激しかった。


 気付かぬ内に肩で息をしていた。


 咄嗟とっさに周囲を見回した。其処は確かに香坂医師の研究室で、試験開始の時と何も変わらず、カウンセリング用のリクライニングシートに同じ場所同じ格好で横たわって居るだけだった。


 頭がくらくらする。何だか自分自身が非道く現実味がなかった。

 確かなリアルという感触が在るのにリアルじゃない。先程までの鮮烈さが強烈に過ぎて、この身体が薄らボンヤリした別の何かのような気がしてならなかった。


 ちょうど長編の映画を見終わった後に、暗い映画館の中から明るい外界に出たときの違和感にも似ていた。あんな破天荒な経験をした直後で、まだ気持ちが乱れているのかも知れなかった。


「何やらうなされていた様ですが、どの様な体験をしていらっしゃったのでしょうか」


 興味深げに黒縁眼鏡を掛けた丸々とした顔が声を掛けて来る。普段だったら間違いなくいらついていただろうが、今はむしろあの世界の住人じゃない事にほっとしている自分が居た。


 夢、アレは夢だったのか?・・・・あまりにも生々しいというか、非常識というか何と云うか。


 あたしは上体を起こしてヘルメットを脱ぐと、額を押さえて溜息を漏らした。何度か深呼吸を繰り返したが、気持ちがまだ落ち着かなかった。

 じっとりと脂汗で髪まで濡れていて気持ち悪かった。


 仕事でもアソコまで焦ったコトは無かった。正にアレは、心身共に絶対の危機だったと云って良かった。


「落ち着きましたか。早速ですが直ぐにリスニングに移りたいと思います。

 やはりこういうモノは直後の新鮮な感想というものが重要でしてね。ああ、そのまま寝ていてもらって結構ですよ。体験した内容と幾つかの質問に答えてもらうだけですから」


 あたしは香坂医師の物言いを無視して、そのままリクライニングシートから起き上がって靴を履いた。


「あ、あの、邑﨑さん?」


 戸惑う丸々と肥えた白衣の男を無視し、あたしはテーブルの上に置きっぱなしにしていた自分の大鉈おおなたを掴んだ。そしてソレを鞘から抜き、不機嫌そうな郵便ポストまで歩み寄ると振り上げた。


「ちょっと!」


 狼狽する声をガン無視して躊躇無く叩き付ければ、耳障りな音共にポストは一瞬で二分割。火花を放ってスクラップと化した。

 とたん香坂医師は両頬を押さえ、まるでバターを塗って目玉焼きを乗せたトーストが、掌からくるりとひっくり返って床に落ちたときのような悲痛な悲鳴を上げた。


「なんてコトするんです邑﨑さん。これを造り上げるのにどれだけ苦労したことか!」


「やかましい、こんなガラクタ百害あって一利無しだ。この人類の敵っ」


「人類の敵って、そんな。イイですか邑﨑さん。コレはヒトの潜在的暗部を払拭出来るかも知れない画期的な」


「あたしはやかましいって言ったんだよっ!」


 一喝して得物を突き付けたら、肥え過ぎの未来から来たネコ型ロボットのような御仁は、はみ出した言葉を引っ込めて硬直した。


「それとも今度はここに焼夷剤ぶちまけて、全てをキレイさっぱり灰にしてやろうか」


「じょ、冗談でも止めて下さいよ。まだ此処にはデジタル化されてない貴重な資料が山ほど在るんですから」


「あたしが冗談で言ってると思って居るの?」


「・・・・」


「こんどこんなゲスなもの作り出したら承知しないからね」


 香坂医師はまだ何か言いたそうだったが、あたしはそのまま知ったことかと部屋を出た。

 まったく、あの膨れた肉団子に関わると本当にろくな事がない。




 新しい現場に赴くと、いつものように高校一年生の振りをして教室のドアを開け、当たり障りの無い挨拶を交し、既に暗唱すら出来る教科書を開いて退屈極まりない授業を受けた。


 やれやれ。あのコロコロとした精神科医の相手をする事を思えば、この欠伸の出そうな日常風景は日だまりの中で昼寝をするような呑気さだ。


 いつものように、教科書やノートを開いて居ないあたしを目の敵にする教師を軽くヘコませてやると、隣に居た女生徒が親しげに声を掛けて来て「邑﨑さんは頭良いのね」と言われた。

 別に良くはない、たまたま知っていた所を指摘されたダケだと言ったが、「しかも謙虚、格好いい」などとのたまう。


「大げさよ」


「ううん、全然大げさじゃ無いわ」


 妙にキラキラとした眼差しで見つめてくるものだからちょっと引いた。


「邑﨑さん、わたしと仲良くしてくれる?」


「え、あ、うん。まぁ、クラスメイトだし」


「ありがとう。わたしは一ノ瀬あさ子。あさ子って呼んでくれると嬉しい。邑﨑さんの事もキコカちゃんって呼んでもいいかしら」


「う、うん。はい、分かりました。良いですよ」


「ありがとうキコカちゃん」


 まるで花が咲いたかのように笑顔が綻んだ。


 あれ?このやり取り、前に一度交したような気が・・・・


 花が綻んだような彼女の笑顔を見つめながら、何故か背筋に冷たい汗が流れ落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

えげつない夜のために 外典1 邑﨑キコカ危機一髪 九木十郎 @kuki10ro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画