第2話 Free lost:0


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 大好きなお母さんが、いつからか変わってしまった。

 お母さんは、毎日泣いていた。

 わんわん泣いた。

 飼い犬のマメよりも泣くから、僕はただただ心配だった。

 そのうち、お母さんは毎日泣きながら僕を叩くようになった。

 お母さんは、「貴方のせいよ」と叫びながら、僕を叩いた。

 お父さんは、見て見ぬふりをしていたけれど、いつの間にか家から出て行った。

 僕とお母さんと、マメが残された。

 お母さんは、お父さんがいなくなったのが悲しいのか、更に僕を叩くようになって、殴るようになった。

 マメが毎日、僕を慰めるように舐めてくれた。

 僕は、お母さんに殴られるのをじっと我慢して耐えた。

 お母さんは、殴った後はいつも謝ってくれた。

 お母さんは、僕のせいで僕を仕方なく殴っているのに、毎回僕に謝ってくれた。

 それがなんだか悲しかった。

 大好きな水泳教室もやめちゃったけれど、それもお母さんと一緒にいるためだから仕方なかった。


 僕には何もないけれど。

 それでも、いつかまた貴女と一緒に笑い合える日があるのだと信じた。

 僕には何も出来ないけれど。

 それでも、大好きな貴女が僕を見てくれるなら、どんな努力だってしようと決めた。

 でもきっと、貴女も、僕も、答えを間違えていたのだ。

 


1:直川由貴


 中学1年生に上がったばかりの4月、まだ道に雪が残っていて桜も咲く気配を感じさせないこの季節に、僕は児童養護施設「そだち学園」に引き取られた。

 どうやら、小学生の頃からの母の暴力が原因だったらしい。小学校の卒業式も中学校の入学式も欠席した僕を心配した小学校5、6年生の頃の担任教師が、わざわざ僕の家に来たのが原因で発覚した。

 その時は母が外出中で、うっかり僕は母の言いつけを破って教師の押すインターフォンに応じてドアを開けてしまった。そこで、教師に半ば強引に長袖を捲られた。

 それから児童相談所の人が来て、僕の一時保護が流れるように決まった。しばらくは児童相談所にいたが、1週間で児童養護施設に移されたのだ。

 そだち学園に連れて来られた当初は、母の元に戻りたくて仕方がなかった。自分が殴られていたのは自分のせいだ。母のせいではない。だから、どうか彼女を責めないでほしかった。僕がもっとしっかりするから、はやく母の元に帰してほしかった。

 しかし、簡単に戻ることは出来ないらしい。僕は残念ながら2か月もここにいる。

 今は施設に来た当初に比べては、はやく帰りたいとは思わなくなっていた。むしろ、もう少しここで僕が成長してから母の元に帰った方がいいと思っている。母の迷惑にならないような立派な息子になって家に帰るのが、僕の目標だ。

 それに、僕は存外この空間に馴染むのがはやかった。僕自身が驚くくらいはやかった。そだち学園の先生――職員は全員「先生」と呼ぶことになっている――は優しい人が多いし、年の近い子どもたちが多く、話しやすかったというのが大きい。

 家に帰りたい気持ちはあるものの、どうしようもないのもわかっているし、まだまだ僕は成長しなくてはいけない。

 だから僕はとりあえずここでの生活を続けていた。

 

 「……僕が、海瑠子に声かけるの?」

 昼ご飯を食べた後、小学低学年の連中が楽しそうに走り回るのを部屋の端っこに突っ立って見つめていた僕に、同い年の景色という少女が話しかけてきた。

 「そ。これ、由貴の仕事だから」

 景色は短い色素の薄い髪を払う。無造作に跳ねる髪はあまり手入れがなされていないようだった。

 景色は、包帯の巻かれた両足をきっちりとくっつけて体育座りをしている。僕も彼女の視線に合わせるべく、隣に正座した。

 「仕事と言われても……。景色はずっとここにいるんだし、景色が声かけてきたらいいでしょ」

 「私はいつもしてる」

 彼女の真っ黒な瞳が僕を捉えて、少し細められた。

 「ミルは、私とはまあ話をしてくれている。でも、他の子どもとは一切会話をしない。だから、由貴にもアイツの話し相手になってほしいんだ」

 「……」

 景色はそう言ってゆっくりと目を閉じた。ふさふさな睫毛が微かに揺れる。

 僕には断る理由がなかった。その、件の海瑠子とは小学校も同じだし、行ったことはないが恐らく中学校も同じはずなのだ。小学生の頃に少し話したことがある。表情が硬い女の子だったが、特に苦手意識もなかった。

 「嫌なら嫌でもいいけど」

 「……大丈夫」

 黙っていたから、景色は僕が海瑠子と話すのが嫌なのかと思ったらしい。僕はそんなことはないと首を横に振った。

 不思議なことに、ここは嫌なことはしなくていいらしい。先生方も、学校に行きたくないと言えば無理矢理行かせようともしない。ご飯を食べたくないというのは流石に粘って「食べてほしい」と言われるが、家にいた時みたいに皿を投げつけられたりはしない。

 「じゃあ、頼んだ」

 「……ああ、うん」

 景色は少し口元を緩める。足は包帯だらけで、聞けば全身傷だらけだと、誰かが言っていた。そんな彼女は僕の前では、いや誰の前でもいつも気丈にも笑っている。

 ――あんなに傷だらけなのに、よく笑っていられるものだ。

 きっと、彼女は体じゃないどこかも傷ついている。何となく、そんな感じは伝わる。

 それでも笑う彼女が、ほんの少し羨ましかった。


2:直川由貴


 海瑠子は女の子の部屋にいるため、男である僕は彼女の部屋に行くことは許されていなかった。

 だから、僕は女子の部屋が並ぶ廊下の少し手前の広場でブラブラするしかなかった。

 海瑠子は滅多に部屋から出ないのだと景色から聞いている。だから、部屋から出てくる時を待つしかない。

 海瑠子を待っていると、家にいた頃を思い出す。お母さんが帰ってくるのを待って、家の前で立ち尽くしていた日々。一緒にご飯を食べたくて、お母さんが仕事から帰ってくるまでマメとお腹を鳴らしながら待っていた日々。

 懐かしさに、少し目頭が熱くなった頃、後ろから「あ」と少女の声がした。

 振り向くと、やたらと露出の多い女の子がいた。ノースリーブの服は胸元までだらしなく開いており、彼女の健康的な色の鎖骨や胸元がよく見えた。しかも、その服はへそを隠す長さがなく、へそがばっちり見える。スカートも、下着を隠すギリギリの長さだ。下手に動いたら、スカートの下が見えてしまうだろう。

 そんな露出の多い女の子の顔には見覚えがあった。目にかかるかかからないかギリギリの長さの前髪も、ふわふわとカールした胸元まで伸びる黒髪にも見覚えがあった。

 「ああ、新人の由貴くん」

 「……小学も中学も一緒なのに、なんで他人行儀なの」

 こちらから名前を呼ぶ前に、女の子――仁井本海瑠子がつまらなそうに僕の名前を言った。

 僕は彼女に他人行儀であることを突っ込んだが、実際学校が同じだっただけで他人であることに変わりはなかった。だから、こんなことを言っても仕方がなかったのだと反省する。

 それにしても。

 「随分学校と印象違うんだね」

 僕は服について気になって仕方がなかった。海瑠子は、どちらかというと地味なタイプの女の子だった。スカートなんて履いているのは初めて見た気がする。それに、学校ではどんなに暑くても長袖ばかり着ていた。

 ……僕も母に言われて、傷を隠すためにいつも長袖のパーカーを着ていたが。

 海瑠子は僕をマジマジと見つめて、小さくため息を吐いた。

 「違って当たり前ですよ。ここは家ですから」

 家。

 海瑠子がいつからここにいるのかはわからないが、きっと彼女にとってはここが既に帰るべき家なのだろう。僕は到底思えないが、少なくとも長年施設で暮らす子どもの中にはそういう考えの人達もいると景色から教えてもらった。

 「……」

 「……」

 二人して見つめ合って無言になってしまう。残念ながら苦手意識がなかったのは、彼女を知らなかったが故だったらしい。

 表情が硬いのは知っていたし、暗い印象もあった。あまり積極的に話したことがなかったけれど、話し出したら何とかなるだろうと思っていた。それは大きな誤解だったらしい。

 調子が狂うな……。

 どうしたらいいのかと、完全にフリーズしてしまった僕を海瑠子はまだ見つめていた。大きな瞳は光を灯さず、どことなく辛そうだ。

 「み」

 「由貴くん」

 とりあえず何か話そうと声をかけようとしたとき、丁度彼女の声が僕の声を遮る。

 そして、何故か彼女は僕に抱き付いた。

 「え」

 あまりに唐突な行動に、僕は間抜けな声を出す。

 しかし、海瑠子は僕のことなどお構いなしに、体を密着させる。中学1年生にしては大きい……と思う胸が想像以上に柔らかくて、余計に戸惑いが増す。

 「ねえ、由貴くん。私ね、おっぱい大きいし、……おしりも、大きいの。きっと、気持ちいいですよ」

 「は?」

 更に僕の阿保みたいな声が漏れた。

 何を唐突に言い出すのだろうと、首を傾げたのは一瞬だった。海瑠子の右足が僕の両足の間に入れられる。

 ……君の足、僕の股間に当たってますけど。

 そう思ったら、彼女が何を言いたいのかガキの僕にもきちんと伝わった。何となく誘われているのだとわかってしまったわけだ。

 でも、え? 何で!?

 ただ、誘われているのだとわかっても、何故そうなったのかは全然わからない。そういう雰囲気ではなかったのは確かだし……。

 困惑をし続ける僕なんて、海瑠子にとってはどうでもいいらしい。彼女は、本人も僕も認める大きい胸を僕の大して筋肉もついていない残念な胸に当てつけながら、喋る。

 「先生たちはやってくれないけれど。でも、由貴くんは私に興味持ってくれる?」

 興味?

 胸のサイズにですか?

 「そこまでよ、ミル」

 僕の戸惑いが頂点に行きそうになった頃、突然、頭上から声がした。

 皆花先生が、ミルの頭に手を置いている。彼女の職業名を僕は知らないが、とりあえず、彼女は施設の職員だ。

 海瑠子は先生に見つかり、罰が悪そうに僕から離れた。彼女が動くと胸が揺れる。もしかして、ブラジャーつけてない……のか?

 海瑠子が離れても別の意味で困惑してしまう僕を、皆花先生は鼻で笑う。それが何だかむかついた。

 「止めない方がよかったかしら?」

 「……皆花先生、からかわないでください」

 「からかってないわよ。年頃の男の子だもの、仕方ないわ」

 僕は皆花先生が苦手だった。ここの職員は優しい人が多いと先に述べてはいたが、この先生は僕の中では例外だ。優しくない。僕を馬鹿にしている……気がする。

 「……何ですか、何なんですか」

 「海瑠子?」

 僕が皆花先生を睨んでいると、海瑠子が震えた声を出しながら皆花先生を見上げた。

 「私の邪魔ばかり……ひどいです……」

 海瑠子の目には涙が溜まっている。どうやら、僕への誘いを強制終了させられたことが応えたらしい。

 海瑠子が肩を震わせて、涙を流さないように頑張っているのを他所に、皆花先生はふき出した。

 嘲笑したのだ。

 皆花先生は、何がそんなにおかしいのか、海瑠子を否定するように、見下すように笑う。嗤う。

 「あははは!! 偉そうによく言うわ!!」

 海瑠子がビクッと肩を上げた。俺も、彼女があまりに笑うので驚いて一歩下がる。

 皆花先生はただただ笑ってから、ようやく海瑠子をニコニコと見た。お世辞にも優しい笑みとは言えなかった。

 「邪魔されたくなかったら、とりあえずおねしょどうにかしてくれない? もう中1でしょー?」

 「っ!!」

 おねしょ……。

 皆花先生が何を言っているのか、俺が頭の中で整理するよりも、海瑠子の反応はずっとはやかった。

 海瑠子はすぐに赤面した。顔を真っ赤にして、

 「あっ」

 抱き付かれてはいないとはいえ、まだ近くにいた僕を突き飛ばすように両手で押した。

 僕は、その行為でようやく海瑠子が今、「彼女にとってとても恥ずかしいこと」を言われているのだと気付いた。

 「や、あの、海瑠子、僕、」

 今の話聞いていないよ、というのか? どう考えても嘘だろ。

 そう思い、何を言えばいいのか言葉に詰まっていると、海瑠子の頬を伝うものが目に入った。

 せっかくあんなに肩を震わしながら頑張って耐えていた涙が、溢れるように流れていた。

 「……あのね、違うの、由貴くん」

 何が違うのだ。

 そんなに泣いているのに、何を否定するのだ。

 「私、そんな」

 悪くないよ。お前は悪くない。だから否定しなくていい。

 でも、僕は彼女にそんな偉そうなことを言える立場じゃない。だから、何も言ってあげられない。

 皆花先生が笑って去っていくのが見える。追いかけて殴ってやりたかった。でも、そんなことをすればお母さんの元に帰る期間が延びてしまうから、それは出来ないのだ。

 きっと皆花先生もそうやって僕たちを縛っているものをわかっているから、ああやって簡単に人を馬鹿に出来るのだ。

 「私には、これしか……」

 何となく、わかる気がした。

 きっと、彼女はわからないのだ。

 接触以外のコミュニケーションを知らないのだ。

 だから、触れる。触れてほしいという。

 それが拒絶されたら、もうどうしようもないのだろう。

 皆花先生に何も言えないのも、他の先生に相談できないのも、言葉での訴えを知らないからだ。

 でも、だから、どうしてやればいいのだ。

 僕だってわからないのだ。

 嫌なことを言われたときの対処法も。

 傷ついた人への励ましの言葉も。

 僕も彼女と同じで、何もないから――何も伝えられないのだ。

 海瑠子はただ泣いていた。僕は慰めることも出来ずに、立ち尽くした。


3:直川由貴


 「こち、ほんとにみなかセンセキライだよ」

自分一人ではどうしようもなく、だからと言って大人に言う勇気もない僕は、結局いつも話すメンバーに海瑠子のことを話していた。もちろん、彼女のおねしょの話は割愛だ。そこは海瑠子が嫌がることを言っていたと伝える。

「な! 何言ってたかは知らないけど、言われたくないこと言うとかサイテーだわ!」

「ね!! チョームカツク!!」

耳が殆ど聞こえない湖千が、指文字も手話も使えない僕のために自由帳に大きな文字を書いて怒りを表す。そんな彼女と一緒に利央も湖千に伝わるようにたどたどしく指文字か手話か僕にはわからないけれど手を動かしながら露骨に怒っていた。

そんな二人と僕を、景色は黙って見ている。

湖千と利央は、二人で指文字か手話を使って僕にはわからない会話を始めた。多分、景色はわかっている。僕だけがわからない会話を、僕はぼんやりと眺めた。

海瑠子も、多分誰かと話したいのだろう。でも、接触が彼女の会話だから、誰にも彼女の言語化できない言葉を理解できない。

僕も、そのうちの一人と言うことなのだろうか。

「多分、海瑠子って寂しいんだろうな」

誰にいう訳でもなく、僕は呟いた。声を発した僕に景色と利央が振り返り、それを見て湖千も僕を見た。

僕は、湖千にも伝わるように、言ったことをそのままノートに大きく書いた。

それを見て、湖千は常に抱きしめている兎のぬいぐるみを自分の膝の上に乗せ、僕との会話用のノートに大きな字を書き返してくれる。見せてくれた時、彼女は同い年の中学1年生には見えない幼い顔で笑った。

「でも、ゆうきのおかげで、こち、みるとの会話方法わかった!!」

湖千は自信満々というように歯を見せて笑う。しかし、残念ながら、僕には彼女の言っている意味がわからなかった。

「あー、確かに私もわかったわ」

「なるほどな」

「え!?」

僕が混乱しているのを他所に、利央と景色はこくこくと頷いた。

女の子たちの謎の納得に、一人追いていかれる。焦燥感ではないが、何だかもどかしくて悔しい。

「だいじょうぶ。ゆうきにもすぐわかるよ」

ニコニコと、湖千が字を書いた。そして、僕には教える気がないらしい。髪を左耳にかけて隣にいる利央と、僕にはわからない会話を始める。

「景色。今度、僕にも指文字? 手話? 教えてくれない?」

「ああ、かまわない。そっちはぼちぼち覚えてもらうとして、とりあえずは、ミルの方だな」

やっぱり景色も俺に教える気はないらしい。

僕が海瑠子と話してきた功績なら、僕にも教えてくれていいじゃないか……。

楽しそうに笑う女子3人に隠れて、僕は大きくため息を吐いた。


4:直川由貴


僕の話を聞いて女子3人が閃いた海瑠子との会話方法は、実に単純であった。

夕飯時になり自室から出てきた海瑠子に対し、湖千は突然抱き付いた。

「え?」

「いう、おあんいっとにあえお!!」

突然抱き付いてきた湖千に困惑する海瑠子。湖千はそんな彼女に必死に声を出す。海瑠子はそんな彼女の声を聞き洩らさないように耳を立てているようだったが、残念ながら、湖千の言った言葉を理解できないようだった。かく言う僕も、残念ながらわからなかった。

「え、えっと、湖千ちゃん?」

「ご飯、一緒に食べようだってさ」

「あ、利央ちゃん」

困ってしまった海瑠子に助け舟を出したのは利央だった。利央は顎くらいの長さの自分の横髪を弄りながら海瑠子に笑いかける。

「よかった。ミル、私たちの名前は覚えててくれてたんだ」

「あ……えっと」

 海瑠子は恥ずかしそうに顔を伏せる。そんな彼女を利央はお姉さんのように優しい顔して見守った。

 湖千が海瑠子の体から離れる。そして、ゆっくりと、海瑠子に伝わるように「ありがとう」とゆっくり口を動かした。

 海瑠子は恥ずかしそうに顔を赤らめていた。どうやら、僕よりも先に入園した彼女は、本当に景色以外の子どもとはコミュニケーションを取っていなかったようだ。

 「まあ、ああやって言語以外にもコミュニケーションはとれるものだな」

 「女子同士だから出来ることだけどね」

 満足げに海瑠子と湖千、利央を見守る景色に僕はため息交じりで返す。男にはああいったコミュニケーションは不可能だ。それは、先の体験で痛感している。抱きしめて、接触して会話をするには海瑠子の胸は大きすぎた。

 「……湖千も、あんなに笑ってるけど」

 僕が3人から目を逸らした時、景色が呟くように言った。

 「はじめて会ってから2年間……笑ったところ見たことなかった」

 それは初耳だった。

 僕は思わず景色を見る。景色は僕の方に向くことなく、抱き締め合っている3人から視線を逸らさない。

 「湖千と一緒に筆談して、指文字を一緒に覚えて、手話を覚えて、たくさん話せるようになったら、ようやく笑ってくれた」

 今は何もないように楽しそうに笑う湖千。それも、彼女たちの過去の努力によって築いてきたものの結果なのだろうか。

 「利央も、家に帰るっていつも泣いていたけど、いつの間にかしっかり者のお姉さんになって先生の手伝いとかしてくれる」

 お姉さんといっても僕と利央は1つしか違わない。しかし、確かに景色の言う通り、利央はしっかり者のお姉さんだ。でも、僕が来る前は違ったのだ。

 「由貴」

 ようやく景色は僕に目を合わせた。彼女の目は相変わらず真っ黒で何だか闇のようだったけれど、決して冷たいものではなく、むしろ温かい。

 「お前も時間をかけていい」

 何に、とは言わなかった。きっと言っている彼女も、どこを目指せばいいのかわからないのだ。

 「私たちは、お前の味方だから」

 きっと、彼女たちは僕の味方だ。たとえ、僕がどんなに醜い人間であっても。

 根拠もないのに、景色の言葉には何故か納得できた。

 僕が頷くと、景色も頷いてくれた。

 「ああ、それとミルのことなんだけど」

 そして、景色は思い出したかのように海瑠子の話をした。


5:直川由貴


 中学校の入学式、僕は学校には行かなかった。

 制服は着ていた。鞄も持っていた。家を出た時には学校に行く気だった。

 でも、僕は行かなかった。小学校も3年生から殆ど通っていなかった僕は、何だか学校に行く勇気が持てなかったのだ。

 そもそも母は行かなくていいと言っていた。学校は何も教えてなどくれないと言っていた。僕も、何となく子どもながらに母の考えに共感していた。

 学校なんて、弱者を蹴散らすための場所だ。家よりもよほど質が悪い。家ではお母さんが、僕が駄目だからとちゃんと理由を言って殴ってくるけれど、学校の先生は何故先生の言うことが正しいのか教えてくれずに人を馬鹿にする。

 だから学校には行かないで、夜まで町を歩いた。

 「イタイ」

 携帯電話も持たず、腕時計もない僕には何時なのかはわからなかった。ただ、街灯だけが頼りの暗い路だったのは確かだ。

 女の子の声がした。聞き覚えがあるような、ないような。誰なのかはわからないが、確かに近くで声がした。

 女の子はすぐに見つかった。僕が声のした方に歩けば、すぐに蹲る女の子がいたのだ。

 「イタイ……帰りたくない……痛い……イタイよぉ」

 僕に気付いていないのか、女の子は震えた声で言っている。

 薄暗いが、彼女の汚いジャージには微かに見覚えがあった。ふわふわな黒髪も辛うじて記憶にあった。

 「仁井本」

 僕が声をかけると、女の子は顔を上げた。

 名前は合っていたようだ。彼女は仁井本海瑠子。小学校が一緒だった女の子。多分、中学校も同じ女の子。

 仁井本は汗だくだった。お腹を押さえ、酷く苦しそうに息を吐く。

 僕は――放っておくにも出来なくて、彼女をおんぶって家に送った。

 帰りたくない、なんて呟く子になんて酷いことをするのだろうとは思ったが、だからと言って僕の家に連れ帰るとか、他の所に連れて行くとかは考えられなかった。

 仁井本は僕の背中で、ただただ黙っていた。家に着いた時も礼のひとつしなかったように思える。それもそうだ。彼女は帰りたくなかったのだから。

 「じゃあ」

 僕はぶっきらぼうにそう言った。

 「さようなら」

 またね、とは言わなかった。

 僕も、彼女も、お互い会話はほとんどしていないが、お互いの環境を少しは想像できた。

 だから、僕たちはまた会う気もなく、現状から変わる気もなく、お互い干渉せずに別れたのだ。


 「その時、おんぶして家まで送ってもらって、私、本当は凄く嬉しかったんです」

 そだち学園から抜け出すのは簡単だった。夜勤者に皆花先生がいる時を狙えば、僕たちは案外簡単に外に出られるのだった。いかに皆花先生にとって僕たちが眼中にないかがわかる。

 海瑠子に連れられて来た場所は、ボロボロなマンションの一室だった。誰の家なのかを尋ねたが、海瑠子は答えてくれなかった。

 部屋の中は、黒いカーテンがされていて、あとは白いベッドが無造作に置かれているのみだった。他にテーブルさえない。あまりに生活感のない空間に、少し寒気がした。

 そんな空間に連れて来られて、何をやらされるのかは明白だったのだが、僕には断る理由がなくなっていた。いや、受け入れる理由を見つけてしまったというのが正しい。

 行為を終えて、僕が景色から聞いた話をすると、海瑠子は照れくさそうに冒頭の言葉を言ったのだった。

 「おんぶなんて、凄く夢のあることです。あ、本当はお姫様抱っこの方がされてみたいですけど。でも、まだ身長差もあまりないですし、難しいですよね」

 「……そう」

 すっかり饒舌になった海瑠子に適当に相槌を返しつつ、僕は景色に話を聞くまで海瑠子をおんぶした夜のことを忘れていたことは黙っておこうと決めた。

 景色は、僕たちにこういう関係になってほしくて言ったわけではなかった。ただ、「どうして由貴に海瑠子と話してほしいと思ったか」という点について教えてくれたに過ぎない。

 海瑠子は唯一の話し相手である景色に、男の子におんぶされて物凄く嬉しかったのだと僕のことを話したらしかった。だから、たまたま施設に入所してきた僕に、景色は目を付けたのだという。

 「私、少女漫画みたいな恋愛に憧れるんです。たとえば、朝遅刻しそうになって走っているところにぶつかった男の子と恋をするとか」

 「で、たまたまおんぶしてくれた男の子と恋したいと思ったわけ?」

 「皆花先生に邪魔されちゃいましたけどね。でも、私から声をかけなくても、由貴くんは私の元に来てくれました」

 それは景色に頼まれたからだけどな。

 そう思っても、やはり海瑠子には言えなかった。海瑠子は昼間の無表情とは一変してニコニコと笑っていた。ニコニコ笑えば、海瑠子はとても可愛かった。

 「こうやって、殿方と施設を抜け出すのもロマンですね」

 「……海瑠子って夜は饒舌なんだ」

 あまりに昼間と状況が違いすぎて困惑する僕に、海瑠子はにっこりと微笑んだ。やはり、海瑠子は可愛い。短くて少し太い眉毛も、パッチリとして大きな垂れ目も、何も変わっていないはずなのに昼間の彼女とは別人に見えた。

 「私の、唯一の楽しみですから」

 性行為が?

 そんなものを唯一の楽しみと言われると、なるほど道理で昼間は死んだような目をしていたわけだと納得しつつ……いや、しかし、頼むから唯一だなんて言わないでほしいとも思ってしまう。

 まあ、僕には偉そうにそんなことを言うことも出来ないけど。だって、「じゃあ由貴くんの楽しみは?」と聞かれても、今は何もないからだ。それならば、こんなことであっても唯一の楽しみがあった方がいいのかもしれない。

 海瑠子は何故かブラウスを着る手が止まっていた。ちなみに、彼女は予想通りノーブラだった。胸が大きいのだから、どうかブラジャーをつけてほしい。日中はお願いします。

 「嫌じゃないんですか? 私と、こんなことして」

 「別に」

 唯一の楽しみ、とか言いつつ、彼女は自分のしたことを「こんなこと」と称した。「こんなこと」などと言うなら最初からするなと怒ってやりたい気もしたが、海瑠子にとっては多分そういう問題ではないのだろうから言っても無駄だ。

 彼女の性行為は、きっと接触という会話の延長線上にある。それだけだった。

 彼女は僕を好きらしい。おんぶしてくれたから。それだけの理由で。だから、好きな人と会話がしたくて――性行為をするといっただけのことだ。

 つまり、海瑠子にとってはこの行為は「好きです、付き合って下さい」と言う言葉の代わりだ。

 正直、僕は海瑠子のことが好きではない。可愛いとは思う。でも、好きではないのだ。

 でも、そう言わない。

 「海瑠子と、こんなことして、嫌じゃない」

 「由貴くん……」

 僕は、彼女の表現を繰り返す。海瑠子は顔を少し赤くした。

 「海瑠子と話せるなら、これでいい。これがいい」

 「……由貴、くん」

 海瑠子の声が震える。彼女は「好きです、付き合って下さい」の返事を「いいですよ」と受け取ったようだ。

 もちろん、僕には酷いことをしている自覚はある。だって、好きじゃないのだ。それは事実なのだ。

 でも、景色が言っていた。海瑠子は僕におんぶってもらったことを励みにしているのだと。

 つまり、海瑠子は、「僕」が必要なのだ。たまたまおんぶしてくれただけの存在が必要なのだ。正確には「僕」ではない。「僕に恋している仁井本海瑠子」という状態が必要なのだろう。そうでなくては、彼女は自分の存在を感じられないのだと思う。

 僕も、同じなのだ。僕も海瑠子が必要なのだ。たまたま僕に恋していると言い出した彼女の存在が必要だ。「僕を必要としている人がいる」という状態が、必要なのだ。

 そうでなければ、僕たちは生きていけないのだ。笑えないのだ。

 海瑠子に、触れるだけのキスをした。海瑠子は目を瞑って、黙って受け入れた。

 依存する相手が欲しかった。

 僕は、お母さんの代わりが欲しかった。


 ――僕たちは、ただ依存し合うだけの関係になった。

6:直川由貴


 お互い声に出して付き合うことを確認したのは、中学3年生の時だった。

 言い出したのは、ミルだった。彼女は俺たちの関係に満足できなくなったのだと言った。

 「由ちゃん、私ね、あの頃は誰でもよかったんです。由ちゃんじゃなくてもよかった。私はただ、普通に人を好きになる自分を演じていたかっただけなんです」

 言われなくても知っていた。

 「でも、今は違います」

 いつからだろう。こうなってしまったのは。

 「私は、由ちゃんが好きです。本当に、好きです。恋をしたいわけじゃない。依存したいわけじゃない。貴方と一緒にいたいんです」

 ミルはあの日と変わらず、誰の部屋かわからないマンションの一室で、ベッドしかない空間で言葉を紡ぐ。もう、彼女は突然脱ぎだしたりしない。抱き付いてこない。

 「由ちゃん」

 俺は、どうしたらいいというのか。

 本当は、彼女と別れなければならないとわかっている。俺はミルとは違い、彼女を好きではないのだ。

 ミルは変わった。でも、俺は変わらなかった。ミルはもう俺を必要としていないけれど、俺はまだ彼女が必要だった。

 ミルの為を想うなら、振ればいいのだ。俺はお前が好きじゃない。あの日から変わっていないと、素直に伝えてやればいいのだ。そうすれば、彼女は普通に失恋して、普通にまた新しく恋が出来る。

 でも、それが出来ないのは、俺はすっかり彼女に依存しているからだ。離れたくない。まだ、好きだと言ってほしい。必要だと言ってほしい。

 もう、お母さんはいない。どこかに行ってしまった。もう、俺に依存させてくれるのは、ミルしかいない。

 「由ちゃん、一緒に」

 「ミル、一緒に」

 わざと、声を被せた。同じ気持ちなのだと嘘を吐いた。

 でも、きっとミルは俺の嘘を見抜いていた。それでも、気付かないフリをしてくれた。

 

 「「一緒に、死のうか」」


 二人の声が、また重なる。

 ミルは、本当は「生きよう」と言いたかったはずだ。でも、俺たちの約束は、死ぬことだった。

 依存する相手がいなくなったら、過去の俺たちは死ぬしかなかった。体は生きているだろう。ご飯は与えられるし、寝る場所も、着るものもある。でも、存在価値のない俺たちは、きっと自分という存在に耐えられずに死ぬのだ。

 だから、過去の俺たちは、一緒に死のうと約束をしていた。お互いが耐えられなくなった時、死のうと言っていた。

 俺の気持ちはその時と変わっていない。ミルも、そのことをわかっていて、だから俺と同じように言ってくれた。

 「ごめんな、ミル」

 「謝らないでください。元々、始めたのは私ですから」

 「乗ったのは俺だ」

 「由ちゃんは、変わらないですね」

 「ミルは変わったな」

 ミルは、俺の目をしっかりと見つめて笑う。そう、彼女はずっとそうやって俺を見てくれた。

 「大丈夫です。由ちゃん、自分が思っているより、私のこと好きですから」

 「凄い自信だな」

 「ええ、だってわかりますから」

 ミルが優しく笑う。ミルは綺麗だと思う。ふわふわな茶髪も、大きな垂れ目も、小さく微笑むピンクの唇も。

 「ありがとう」

 俺は、優しい彼女にすっかり甘えていて。そんな自分を情けないと思いつつも、直す気もなくて。

 触れるだけのキスをすれば、ミルは少し顔を赤くした。何度もしているのに、それ以上のこともしているのに、いつもミルは恥ずかしそうだった。

 「ありがとうございます」

 母の代わりだったはずのカノジョが、一体いつからこんなにも綺麗になったのか――俺にはわからなかった。

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かくれんぼ @azuma12

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