かくれんぼ
@azuma12
第1話 Free lost
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何もなかった。
自分には、何もなかった。
握った掌の中は空っぽで。
必死に貴方の腕にしがみつくのに、貴方は気付いてくれない。
何かは持っていたのかもしれない。
それでも。
気付いたら、下手くそな作り笑いすらも失って。
貴方との過去も忘れていた。
何もないけれど。
確かに生きているわけで。
叫ぶ言葉すら思いつかないけれど。
もしかしたら君なら俺に気づいてくれるのではと期待している。
きっと全て失うのだけれど。
それでも。
いつかは、君と同じような顔が出来るかもしれない。
だから、俺を見つけてほしい。
でも、きっと見つかりはしないのだ。
俺は、失うものも持ってはいない。
何もない。
君に何も与えられない。
だからきっと、君も、俺も、答えを間違えるのだ。
1:直川由貴
「冷たいのね、由貴くんの手は」
里衣の小さな手が俺の手に触れた。その手は少しばかり震えていて、彼女の緊張を伝えてくる。
9月の夕方。冷たい風が、スーツから出る手や顔をさらに冷たくする。自分の顔はわからないが、里衣の顔は真っ赤になっていた。
「本当に冷たい。こんなに冷たくて大丈夫なの?」
「いつものことだ」
公園のベンチで大学生二人が並んで座っている。女が男の手の上に自らの手を重ねている。知らない人がこれを見たら、きっと俺たちはカップルに見えるだろう。
公園では男の子が二人、キャッチボールをしていた。小学生くらいだと思う。二人は坊主頭に半袖、半ズボンで元気に笑い声を上げている。
騒がしい子どもたちを見ていると、何だか年を取った気がするのだった。自分には9月に半袖半ズボンで外に出ていた時期などなかったが、それでも子どもの頃は冷たい風にこんなにも苛立ったりはしなかった。
「どうかしたの?」
里衣が、俺の手を軽く握る。子どもから視線を里衣に移すと、彼女は穏やかに微笑んだ。
本当に穏やかとか、和やか、というような言葉が似合う女だった。垂れ目の瞳はいつだって優しく温かい色をしているし、笑う時も大きく口を開けたりはせず、小さく半円を描く。
「どうもしていない。それより、お前は随分と熱いな。熱でもあるんじゃないか?」
真っ直ぐに目線を合わせて、俺は彼女に問う。彼女はいつだって温かい。温かい瞳で、温かい体温で、いつだって居心地がいい。だから熱があるなんて思ってはいなかった。ただ、俺のことを冷たいなどと言うから、言ってやりたくなっただけなのだ。
「……」
里衣はほんの少しだけ目を細めた。そして、ゆっくりと重ねていた手を離す。
「熱、ね。今はあるかもしれないわね。だって、好きな人に触れていたんだもの」
好きな人――。この文脈で好きな人が俺を指していることはすぐにわかった。
さて、これは告白なのだろうか。流れるように告白をされてしまったのだろうか。対応に困ってしまう。
「由貴くん、いいの。何も答えなくていいのよ。私だって、わかってるから」
里衣はそう言って、俺には何も喋らせようとしない。一人で満足して、一人で頷いた。
面倒くさい、と正直思ってしまう。この女とは時折言葉のキャッチボールが出来ないことがあった。彼女は見当違いの方向にボールを投げては、自分でそのボールを追いかける。ボールの側にいる俺には「私が取るから待っていて」と言うように制止をかけるのだ。
自己完結する里衣に、お前は何もわかっていないなどと言うのも面倒くさくなってしまい、俺は再びキャッチボールをする少年二人に目線をやる。二人はたまにボールをこぼすものの、基本的にはお互いの取りやすい位置に向かって投げるようにしているようだった。俺も、あんな風にキャッチボールが出来ればいいのだが……。あいにく面倒くさがりである俺には出来そうにない。
「ねえ」
いつの間にかベンチから腰を上げた里衣が俺の前に立つ。そう立ちはだかられると、少年たちを見ることが出来ない。視界を支配され、少し苛立ったが、渋々彼女の声に応じる。
「どうした」
「あのね、やっぱり私は……駄目みたい」
「何を言っているんだ?」
そんなことない、と言ってやればいいのかもわからず、俺は首を傾げる。何を言っているんだ。意味が分からない、突然すぎる。
俺たちはちょうど、ボランティアの帰路だった。ボランティア先は俺が幼少期にお世話になった児童養護施設で、そこで子どもたちと遊ぶといった内容だった。
縁あって昔保護してもらった施設に顔を出したのだが、施設長が俺のスーツ姿を見たいなどと言いやがるから俺たちはこんな堅苦しい恰好を余儀なくされた。まあ、今は置いておこう。
ともかく、彼女は同級生以外の施設の子どもと関わるのは初めてで、かなり滅入ってしまったようだった。突然泣き叫ぶ子どもを見て、すっかり慌てふためいていた。また、攻撃的な態度をとる子を前にどうしたら良いのかわからず困惑していた。
はじめての体験で何も出来なくても当たり前なのだが、それでも里衣にとってはよっぽど気に病む出来事のようだった。ボランティアは三日間行われたが、ずっと泣いていたように思う。
だから、きっと駄目だとういうのはそういうことなのだと思った。「施設で子どもたちのために働きたい」と夢を語っていたにも関わらず、何も出来なかった事実に自分は情けないと思っているのだろう。
「あまり、気に病むな。俺だって何も出来てない」
自分が同じように施設にいたからといって、何か出来るかと言えば出来なかった。その点では彼女と同じなのだ。それをいちいち気に病んでいては大変だ。だから俺は感傷には浸る気にはなれなかった。
里衣は、俺をしばらく何も言わずに見つめていたが、やがて首を横に振った。凹んでいる時ですら、彼女は口元の半円を崩さない。
「ううん。違うの……ボランティアのことじゃなくて……。いや、それもあるんだけどね? ごめん、何でもないわ」
ほれ見ろ。また自己完結しやがった。何なのだ、この女は。自分から言っておいて、すぐこうやって自己完結する。幼少期からの付き合いであるにも関わらず、いい加減に慣れることが出来ない。
――でも。
思い返せば「もしも」なんて考えてしまう。
「好きだよ」
もしも、彼女のその言葉の真意にさえ、気付いていたならば……。
「さようなら……由貴くん」
――彼女は今もここにいたのかもしれない。
2:直川由貴
「お姉ちゃんがいなくなっちゃった!!」と、里衣の妹に泣きながら告げられたのは、翌日のことだった。
流郷里衣は、突然姿をくらましたのだ。
どうしよう、と泣きじゃくる里衣の妹の紀歌を慰めながら、彼女から話を聞いた。
里衣は、ボランティアに出かけたまま、帰って来なかったと言う。つまり俺と別れた後、そのまま姿をくらましたのだ。
「さようなら、由貴くん」
里衣の穏やかな笑みが脳裏に浮かぶ。
ただただ頭が痛くなった。彼女の「駄目みたい」は、人生に関わるような大きな事柄に対してだったらしい。「さようなら」だってそうだ。彼女はきっともう会わないという意味合いで言ったのだ。さようならの後には、いつだって「またね」があるのだと勝手に思い込んでいたのは、俺だった。駄目なのはむしろ俺だった。
「由貴くん!?」
無意識に体は動いて、里衣の失踪を教えてくれるために俺の家まで来てくれた紀歌を置いて、外に出た。スニーカーの踵が潰れてしまっていたが、そんなことはどうでもよくなって、無我夢中で走った。
人に失踪されるのは、はじめてではない。母も俺を置いてどこかに消えた。だから、これは二度目だった。
息を切らしながら、広い街を走った。目的地もなく、心当たりもなく、どうしようもないからどことなく走った。
頭が痛い。どうにかしてほしい。
これではまるで、俺が悪いみたいじゃないか。
母の時もそうだった。母の時は、間違いなく原因は俺だった。完璧な息子になれなかった。だから母に嫌われた。美味しいご飯が作れなかった。だから母は、ご飯を食べてくれなくなった。
はじめは怒って食器を投げつけて構ってくれた母も、いつの間にかそれすらしなくなってしまった。毎日毎日二人分のご飯を作るのだけど、彼女は一瞥もしてくれなかった。
テーブルの上には、毎日母のご飯が手つかずのまま置いてあった。
そして、ある時ふと気づいたのだ。
そう言えば、最近母の顔を見ていない。
気付いた時にはもう遅くて、母はどこにもいなかった。俺も母もすっかり掃除をしなくなって何日目だったのかはわからない。悪臭が漂うごみ屋敷化した我が家で、俺は母の姿を一日中探したが、どこにもいなかった。
母も何も言わなかった。そして、里衣も何も言ってくれなかった。
ああやって自己完結して、何を言いたかったのかさっぱりわからない。何が駄目だったと言うのか、全然わからない。
母の時と今を重ねながら、俺は苛立ちと困惑と虚しさと……よくわからない感情を抱きながら走ることしか出来ない。「さようなら」と言われた公園に行ったって里衣はいない。大学にだっていない。
無我夢中で走った最終地点は山奥だった。
紀歌が家を訪ねて来た時は昼間だったが、すっかり真夜中になっており、辺りは真っ暗で足元すら見えない状況である。
パーカーのポケットから携帯電話を取り出し、ライトを点ける。踵を踏んだスニーカーは新品で真っ白だったはずなのに、泥まみれになってすっかり土色だ。汚い。
「意味わかんねぇよ」
いるはずもない里衣に悪態をついて見る。いつもなら「ごめんね」なんておどおどして返事があるのだが、今日はそれがない。
「馬鹿だろ」
今度は返事があることに期待した自分に対して呟いた。本当に馬鹿馬鹿しかった。
風が木々を揺らす。ザアアと歯の揺れる音が頭上から聞こえるが、それ以外の音は無い。
さて、帰ろう。
宛てもなく走り、すっかり疲れてしまった。今日ははやく帰ってシャワーを浴びて寝よう。
そもそも俺個人が探しても、見つからないだろう。母だって見つからないのだ。生きているのか、死んでいるのかもわからない。もう数年経つが情報は一切ない。
そういうものなのだろう。だから、里衣もきっと見つからないのだ。
諦めがついて、ようやく俺は帰路に向かう気になった。ライトの小さな光を頼りに山道を進む。
さあ、はやく帰ろう。ただただそう思って、足を進めた。
「……」
はやく帰ろうと思っていたはずだった。しかし、俺の足は何故か山の更に奥に進んでいた。
上り坂に息を切らす。もう19歳だ。体力が有り余っている高校生とは違う。そんな意味のない言い訳を繰り返しながら、それでも歩を勧めた。汗が目に入り、視界が滲み、前髪はすっかり顔に張り付いている。
「着いた……」
宛てがなかったはずなのに、俺は無意識にそう言っていた。
着いたのは山頂でもなく、ただの木々が生い茂る山奥だ。何も目印もないこの場所が何の目的地になっていたのだろうか。
……いや、本当は知っているのだ。ここが何なのか。
俺は不安になっていたのだろう。紀歌が里衣の失踪を俺に言いに来たことが、不安だった。
疲れ果てた足を休めるために、俺はその場に座り込んだ。ザアアと響く音は、今度は葉の音ではなく、水の音だ。暗くて見えないがここには立ち入り禁止の看板があり、その看板の奥には崖と川がある。
立ち入り禁止の領域は、いわば自殺名所だった。毎年何人もの人が崖から身を投じるこの場所は地域住民から忌み嫌われている。
里衣の居場所は、間違いなくここだった。ここが最適だったのだ。
「由貴くん」
彼女の声が俺を呼んでいる気がした。ガクガクと震える足を無理やり動かして、崖のある方向へ進む。
少し進めば、崖が見えた。落ちないように携帯電話のライトで足元を照らしながら、ゆっくりと歩く。
崖から下を見下ろしても、暗くて何も見えやしない。ライトの光で照らしても、結局は暗闇だった。しかし、川があるはずの崖の下からは声が絶えない。
「由貴くん」
耳障りな声だと、はじめて思った。里衣の声は穏やかで、温かいものだったはずなのに、今日ばかりは彼女の声がやけに甲高く聞こえる。
「うるさい……」
耳を塞ぎたくとも、右手には携帯電話がある。里衣の声は止まず、俺の頭に響いては木霊した。
「由貴くん、貴方は」
「黙れ!!!!!」
何かを言われそうで、思わず叫んだ。頭が痛い。イタイ。
「忘れたなんて嘘でしょ、由貴くん。貴方は忘れてなんていない。私が助けてみせるから、だから認めてほしいの」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!!」
携帯電話が右手から落ちた。でも、それを気に留めることは出来そうになかった。とにかく頭が痛いのだ。立っていられないくらい、頭が痛くて汚い地面に座り込む。
里衣の声はいつの間にか頭上にあった。崖の下にいたはずなのに、彼女はもう俺の目の前にいて、似合わないスーツに身を包んで立っている。
助けてみせる、なんて簡単に言ってくれる。俺に一体何をしてくれるというのだ。
もう手遅れなのだと、わかってほしいのだ。もう、俺は助けてはもらえないのだ。だって、俺はもう助かったのだから。一人で助かってしまったのだから。
だから、そんな善人のような態度で接しないでほしかった。普通に、幼馴染で、友達で、そんな風に接してほしかった。割れ物に触れるような接し方をしてほしくなかった。俺だって普通の人間で、お前と「同じ」で、ありふれた人間だから。
「だから……だから、里衣……」
忘れようとした非日常の蓋を、開けないでほしかったのだ。俺の望みは、それだけだった。
「言わないでくれ……頼むから、それ以上……言わないでくれ」
特別扱いしないでほしい。せっかく手に入れた幸せな日々なのに、ありふれた日々なのに……。
耳を塞ぎながら、情けなく流れる涙を拭うことも叶わずに、地面に蹲る。頭がとにかくイタイ。痛くてイタクて、頭を取ってしまいたい。
情けない男を前に、里衣はさぞかし優越感を感じていたのだろう。今、俺は彼女の顔を見てはいないけれど、きっと優しさ溢れた和やかな表情をしているに違いなかった。
いつだって、そうだった。彼女の中で、「由貴くん」はいつだって「可哀想な子」だった。
「由貴くん、貴方は、お母さんを殺したんだよ」
彼女は、言ってしまった。
俺の、蓋を閉めたはずの記憶を告げる。
俺が顔を上げると彼女は優しく笑ってなどいなかった。悲しそうな、辛そうな、そんな顔をしていた。
それを見ると、なんだかおかしくて、俺はつい笑ってしまう。
嗚呼、そうだった。
「可哀想な子」である「由貴くん」を助けるために、彼女はいつも俺の側にいたのだ。
「ああ、お前の言う通りだ」
自分の母を殺したことを忘れたフリして過ごしていた俺を、彼女な咎めたりしないことは知っていた。だから、俺はあっさりと認める。いや、本当に認めていいのだろうか……。本当に殺したのだろうか、と少し悩んだが、もう言ってしまったのだからそうなのだろうということにした。
母は、失踪した。いや、違う。
母は、真っ赤な血の海に飲まれていた。詳しくは覚えていない。だが、確かに真っ赤な血を流して、死んでいた。その死体は未だに行方不明だけれども。
行方不明な母の真相を、里衣はどうやって知ったのか。俺にはそれを知る気はなかった。興味がなかった。俺が興味あるのは違うところだった。
「で、お前の言う通り俺が母さんを殺したわけだが、それで何なんだ? さっき俺を助けてくれるとか言っていたが、俺はもう自分で助かったんだ。あの女から解放されたんだ。何から助けてくれるんだ?」
どうせ、自首をして更生しようと言うのだろう。そうやって、社会的なことを言って自分が正義であるとでも言うのだろう。
里衣は、一度目を閉じて小さく息を吸った。緊張しているのだろう。それもそのはずだ。彼女の目の前にいるのは殺人犯だ。
「一緒に、逃げましょう? いずれ、お母さんのことは誰かには気づかれるわ。だから」
「……」
頭が痛い。何を言っているのだ、この女は。
「嫌だ」
「でも」
「違う……違うんだ」
頭が痛い。
「何が違うの? 殺してないって、言うの?」
もういいじゃないか。
「そうだ、殺してない……」
「だって、さっき貴方、認めたじゃない」
うるさい……。
「由貴く」
「違うって言ってんだろ!!!!!!!」
もはや、自分でも何もわからなかった。
気づけば彼女の首を絞めている。里衣の顔が蒼くなる。
「期待した俺が馬鹿だったんだ……俺が悪かったんだろ、そうなんだろ? お前も父さんと同じことを言う……俺が殺したって言う! 殺してない!! 殺してない!!! 何もしてない!!! 俺は、やっと、普通の生活に……やっと生きててもいいんだって!! そう思って!!! なのに……!!!」
さっきまで、自分が殺したのだと思っていたのに、今度は違うのだと思い込む。
自分でも、訳が分からないのだ。殺した気がする。でも、やっぱり殺していない気もする。
何度も包丁で母を刺した気がする。でも、俺が母を見た時には既に死んでいた気もする。そもそも、殺したとして、死んでいたのを見たとして、母の死体をどこにやったのか覚えていない。こんなこと、ありえるのだろうか……。
結局、俺は信頼していた幼馴染に「人殺し」と言われて、その気になっていたのだろうか。殺した気はするのだが、結局のところ確信はない。
いや、殺していない。殺していたとしても、そんな事実は要らない。要らないものは捨ててしまえばいいんだ。
里衣の首から手を離すと、解放された幼馴染は苦しそうに咳き込みながら、必死に酸素を求めていた。
「なあ、頼む、里衣」
咳き込む里衣を他所に、俺は一歩崖の方へ足を運ぶ。
「教えてくれ……」
「ちょ、由貴くん、大丈夫!?」
何に対して心配しているのか、わからない。もう、何もわからない。
「由貴くん、違うの!! 私、追い込むつもりなんてなくて!!」
里衣が青ざめた顔で近づいてくる。おかしい。暗闇のはずなのに、何故か彼女の顔が鮮明に見える。
でも、もうどうでもよかったのだ。彼女のことも、どうでもいい。母のことだってどうでもいい。
「教えてくれ、頼むから……。この先には、何があるっていうんだ?」
「由貴くん!!!!!」
落ちる――。
そう思った時には、何も感じなかった。
ただ、里衣の俺を呼ぶ声だけが、頭に響いた。
3:直川由貴
目が覚めると、そこは立ち入り禁止の看板の前だった。看板の前に仰向けになって寝ていたようだ。
「里衣……?」
木々の隙間から零れる光に目を細めながら周りを見る。寝そべる俺の隣には投げ出された携帯電話だけが落ちていた。
体を起こし、土や葉を払い、大きな溜息を吐いた。長い悪夢のおかげで頭痛がする。硬い地面で寝ていたせいで腰も痛かった。
「馬鹿みてぇ……」
何でこんなところで、あんな夢を見たのだろうか。汗と涙でぐちゃぐちゃな自分の顔を服で拭う。夢を見ただけなのに疲れがドッときて、歩き出せば眩暈がした。
携帯電話を拾い、時刻を見る。朝の5時半。いつも4時前には起きている俺にしては遅い目覚めだった。
看板に目を向ける。立ち入り禁止という汚い文字と大きなバツ印は、誰が書いたのかと何となく興味を抱かせた。
ふと、無邪気に笑う幼馴染の女の顔が頭に過る。夢の中では彼女は崖の下にいたのだ。もしかしたら、本当にいるのかもしれない。生きているのか、ただそこに落ちているのかはわからないが。
深呼吸をして、俺は夢で行った道を歩き出す。朝であることがよかった。足元が見えるだけで恐怖心は全くなく、自殺の名所へと進む足取りは軽い。このまま誤って崖の下に落ちてしまいそうだと、根拠もなく思うのだ。きっと、ここで死んだ人間の中にも、この道を通る時はこんな気分の奴もいたに違いない。散歩がてら死んでくるか、というようなよくわからない自殺念慮が芽生える。
木々の間を通って、川の音がする場所までくると、風が体を叩いた。風が、痛い。どうやら今日は強風なようだ。
ゆっくりと足を崖の方へ進める。残念なことに、夢ではないから里衣の声は聞こえなかった。
崖から下を見下ろすと、川の水が勢いよく流れているのが見えた。高い所は苦手ではないが、川の魚があまりに小さく見えることで崖の高さを認識すると、手が震えた。
「俺が悪かったのか?」
誰もいないのに、俺は無意識に呟いていた。
「どうすればよかったんだ、母さんも、里衣も……」
どうすれば、この難しい問題を解けたというのだろうか。
こんな方程式は知らなかった。数学は得意だけど、人間関係なんて方程式はとにかく苦手だった。
それでも俺が悪かったのだと、わかってはいる。いつもそうなのだ。結局うまくいかないのは俺が他人の気持ちをわからないからだ。そうだ、俺は国語のそういった問題が苦手なのだ。「登場人物の心情を応えよ」。わかるわけがない。だって、そんな感情、俺は知らないのだから。
感情が無いわけではない。麻痺もしていない。それでも他者との感覚のズレは幼少期から感じていたのだった。他の人と感性が違ったと言えば聞こえはいいのかもしれない。だが、俺にとっては深刻な問題だ。何故なら共感が出来ないからだ。
だから、母の気持ちにも応えられなかったのだ。母の期待に、応えられなかったのだ。だから……●●たのだ。
あれ? ●●って何だったか……。わからない。結局、自分のこともわからない。
「由貴!! 何してんだよ!!」
「由貴くん!!」
「!!」
風と葉のざわつきしかなかった空間に、突如人間の声が響いた。
俺の来た道から聞こえた声に振り返ると、そこには顔を青くしたよく知る人物が二人立っている。
「ナル……紀歌……」
どちらも里衣の兄弟だった。紀歌は昨日里衣がいなくなったことを教えてくれた里衣の妹だ。ナルは紀歌の兄で、里衣の双子の弟である。
ナルは顔を強張らせながら、早足で俺の元へ寄って来た。そして、素早く俺の右腕を取り、崖の先端から距離を取る。
どうやら彼らは俺が自殺するのではないかと勘違いしているようだった。ナルが俺の腕を引く力は強く、絶対に放さないとでも言うようであった。
「ナル、」
「お前さ、本当にどうして……なんかあったんなら俺に言ってよ!?」
「いや、俺は死のうと思っているわけじゃない」
声を荒げて心配してくれる幼馴染に、ほんの少し罪悪感を抱きながら、俺は彼らにここにいた理由を伝える。そう、俺がここにいたのは里衣がいるのではないかと思ったからだ。決して崖から落ちようと思っているわけではない。
それを伝えると、ナルはホッとしたようにため息を吐いて、俺の腕から手を放した。それと同時に紀歌が俺に抱き付く。年頃の女の子のはずなのに、よくも躊躇わずに俺に抱き付いたなと、感心する。
しかし、感心している場合ではなかった。紀歌は、大きな瞳から大粒の涙を溢れさせていた。
どうして泣いているのだろう……。困って隣にいるナルに「助けて」と視線を送るが、しかしナルも紀歌を慰めようとしない。しかも、困ったことに彼まで瞳を潤ませているのだ。
すっかり困り果てた俺は、とりあえず紀歌の頭を撫でた。腰よりも長い黒髪を頭の高い位置で結んでいる彼女の頭は、いつもよりも束ね方が雑だ。髪がまとまりきれていない。
「私たちね、お姉ちゃんがもしかしたらここで死んじゃったんじゃないかって思って……ここに来たの……。そしたら、由貴くんがいたから……怖くなっちゃって……由貴くんもいなくなっちゃうんじゃないかって……」
「……そうか。誤解させて悪かった。俺も里衣を探していただけだ」
なるべく優しい声を繕いながら俺の胸に顔を埋める紀歌の頭に告げると、彼女はゆっくりと顔を上げて、泣きながらではあるが笑ってくれた。
「ほんと、勘弁してよね、ヨシタカも。あんな所に立ってたら心配になるじゃん。その気がなくても落ちちゃうかもしれないし」
「悪い」
ナルは普段、俺のことを「ヨシタカ」と呼ぶ。俺の名前は自由の「由」に貴族の「貴」と書いて「ユウキ」と読むわけだが、ナルは高校生のある時期から「ヨシタカ」と呼ぶようになった。「ヨシタカ」という響きは何となく気に入っており、呼ばれても違和感がない。いや、正確には「ユウキ」と呼ばれることに抵抗感があるのだ。それが何故なのかはわからないが。とにかく、ナルはそれを知ってか知らずか、あだ名をつけてくれた。
それでもナルは時々「ユウキ」と呼ぶわけで、それは先程のように切羽詰まっている時だったりする。だから、今「ユウキ」から「ヨシタカ」に変わったことで彼の心に余裕が出来たからなのだろう。
「心配させて悪かった」
「ううん、もういいよ。やっぱり探しちゃうよねぇ、ここ」
「そうだな。行方不明になったらまずここを疑うな」
「自殺名所が近所にあるって何か複雑だなぁ」
「……そうだな」
交通機関を使わずとも来ることが出来る自殺名所は、ナルにとっては不快なものだったらしい。俺が先程まで立っていた、崖の下の川が見下ろせる位置を睨みながら小さくため息を吐く。紀歌もこの場所が嫌なのか、元来た道をちらちらと見ては、いつ帰るのだろうかと思っているようであった。
俺はというと、自殺名所が近所にあることはある意味で好都合であった。誰にでもあるとは思うが、時々ふと「死にたい」と思うことがある。その時に、「いつでもあの場所に行って死ぬことが出来る」と思えることは、ほんの少しの安心感になっているのだ。「いつでも死ねる」という安心感があるからこそ、嫌なことにも取り掛かれる。逃げ道があるということは俺にとってはとても重要なことに思えるのだ。
さて、そんな逃げ道を、本当の意味で里衣は使ってしまったのだろうか。本当に一線を越えたのだろうか。こんな風に心配してくれる家族がいたのに、死ぬまでして解放されたかった出来事とは何だったのだろうか。
考えても、意味はなかった。答えがないからだ。一般回答ならば何個か浮かぶが、それでもその回答が個別のケースのどこまでを捉えることが可能なのだろうか。
「お兄ちゃん、由貴くん、帰ろう……?」
俺に抱き付いたまま、1つ年下の紀歌がか細い声で提案する。その提案に反論する者はいなかった。
ここにいても、もはや意味がない。彼女はいなかったのだ。それだけだ。少なくとも、「生きて」ここにはいない。
俺たちは重い足取りで山を下った。
4:直川由貴
それから、7か月が経った。
新学期が始まる4月。半年を越えると、俺はすっかり里衣の声を忘れてしまっていた。
顔ははっきりと思い出せるのに、声は全く思い出せない。別に高い声ではなかったが、低くもないような気がする。保育所は別々だったが、習っていたスイミングスクールで4歳くらいから知り合った。それからずっと一緒にいたというのに、こんなにもあっさりと忘れている自分が少し情けなく、薄情な人間のように思えた。
「仕方ないですよ。人って先に声を忘れてしまうらしいですから」
俺の向かいに座る仁井本海瑠子がどこか投げやりに言葉を吐き捨てた。
新学期の授業が始まり、いよいよ本格的に学校に登校しなくてはならない時期となってしまった。履修登録を行う期間となれば多くの者がサボることなく学校へと出向き、授業の様子を調べている。学生にとって履修期間は、どの先生の授業が楽なのか、サボってもいいのかを探る期間である。なので、履修登録期間は2回目の授業が始まるまで学生がたくさんいるのだ。
よって学食も混んでおり、俺と海瑠子――ミルと呼んでいる――は、学食で食べることが出来ず、渋々近くのコンビニで弁当を買い、空き教室で昼食を摂っている。
ミルは、鶏そぼろのどんぶりをゆっくりと食べながら、つまらなそうに俺を見ていた。彼女は、どうやら俺が里衣の声を忘れたという話が気に食わなかったようだ。
「何で怒ってるんだ」
「怒ってないです」
明らかに眉間に皺を寄せて怒っているのに、何故かミルは嘘を吐いて俺から目を逸らす。箸の動くスピードが心なしか上がったように見えた。
「里衣の話をしたから怒ってるのか」
ミルの白い喉が動いた。
ミルは箸を置くと、俺が先程買った炭酸水を手に取って蓋を開ける。それ俺の炭酸水なのだが、と一応言ったが聞いて貰えず、小さい彼女の口がペットボトルに付いた。
「やっぱり、そうなんだな」
ミルが俺を無視しているあたり、図星なのだろう。全く女はよくわからない生き物だ。ちょっと違う女の話をするとすぐ嫉妬する。
ミルは俺の炭酸水を少しだけ飲むと、何も言わずに元の位置にペットボトルを置いた。俺はそんな彼女に少しだけ苛立ちながら、彼女の置いたペットボトルを手に取る。
「本当に怒ってないです。里衣ちゃんのことが心配なのは、私もですから。それに、私ももう里衣ちゃんの声が思い出せません。私だって貴方ほどではないけれど里衣ちゃんとは長く一緒にいたのに」
「そうなのか……。じゃあ、何が不満なんだ」
「記念日って知っていますか?」
「……」
不貞腐れたように口を尖らせるミルの目が鋭く細められた。
この、仁井本海瑠子は、俺のカノジョである。付き合ったのは今から5年前だ。中学生からよくここまで続いているとお互いに感心している。
そんなカノジョ様が苛立っている理由はどうやら他の女の話をしていることではなく、俺とミルが付き合ってから5年が経った今日という記念日をすっかり忘れていることだったようだ。
「すまん。完全に忘れてた。要望は何だ」
俺にとっては5年経とうが何年たとうが記念日なんてものはどうでもよく、彼女が自分の隣にいるだけで充分なのだが、どうやらミルはそうはいかないらしい。どうしてもこの世間で言う「平日」を自分たちの「祝日」にしたいらしかった。
「要望は……って。別にそういうものはありません」
「じゃあ、何だ?」
「何だ、って……」
実のところ、5年も付き合っていて彼女の言う「記念日」はあまり二人きりになったことはない。付き合って一年経つとお互い高校生になり、お互い別の学校だったのもあったり、その他諸々の事情で会うことが出来なかったりした。
つまり、今回その「記念日」に一緒にいることはミルにとって大きなことらしいのだ。別に「記念日」に一緒にいなくても一緒にいれる日に一緒にいることが出来るならばいいと思うのだが。
「由ちゃんにイベント事で期待していた私が馬鹿でした」
「悪かった。何をしたらいいのかわからない……」
素直に謝罪すると、ようやくカノジョの不貞腐れた顔は微笑みへと変わった。表情の変化につい安心してしまう。
「いいんです。私こそごめんなさい。ただ、せっかくの記念日ですし、今日は一緒に過ごしませんか? 要望と言われれば、これが要望ですね」
そんなことか。大したことのない要望に少し呆れたが、俺は彼女の要望に応えることにした。実際、何か他の要望を言われても困るのは確かだったのだ。プレゼントが欲しいとか言われても、バイトはしていてお金に困っているわけではないが、何たって春休みには二人で遠出をしていて暫くは出費を抑えたかった。また、他の要望は想像がつかないが、想像がつかないだけに怖いので考えたくもない。
「それは構わないが、今日は、というのは今日一日中か?」
「はい。もしよければ、明日の朝までですね」
「俺ん家に泊まる気か?」
「私の家でも構いませんよ?」
にっこりと嬉しそうにミルは笑った。
俺たちは大学生になってからそれぞれ一人暮らしをしている。俺の場合は実家に住んでいるが、父親が単身赴任で家に帰って来ない。ミルは俺が里衣とボランティアで行った児童養護施設で保護されていたが、高校卒業と共に出てきて一人暮らしを始めていた。
俺たちは、二人とも一人暮らしを始めたのを機に、たまにお互いの家に泊まり合っていた。俺の家には犬がいるため、基本的には俺の家に彼女が泊まることが多い。しかし、稀に彼女の家にも泊まっている。その時は、我が家の犬は近所の犬好きの方に預けていくようにしている。
「俺の家がいい」
「そうですよね、希望ちゃんいるし。じゃあ、お邪魔していいですか?」
「ああ」
希望(のぞみ)というのが犬の名前だ。決して飼い主馬鹿なわけではないが、柴犬の希望さんはともかく可愛らしい奴だ。本当、いつまでも抱き締めていたくなるような子である。
ミルも、希望のことは大変可愛がってくれている。我が家に行けば決まってミルは彼女の散歩をしたいと言ってくるし、お風呂にも入れたいだとか、とにかく希望を構いたいらしいのだ。
「由ちゃんは今日何講目までありますか? 私は午前で終わりなんですけど」
空になったどんぶりに手を合わせた後、ミルは首を少し傾けた。
俺は彼女に問われ、まだあまり脳内に入っていない自分の時間割を思い出すことに努めた。今日は金曜日。確か俺も午前中で終わりだ。
しかし、まだ帰るわけにはいかないのだ。
「講義はこれで終わりなんだが、サークルがあるんだ。ようやく今日からプールが使えるらしいってナルが言っててな」
「そうなんですね」
俺はこの大学で水泳部に所属していた。昔から机に向かって勉強するよりも体を動かすことの方が好きで、特に水泳は今になっても続けているくらいには好きだった。
水泳部は残念なくらい人気がなかった。昔はたくさんいたらしい部員は、何年も前に途絶えてしまったらしく、現社会人1年生の先輩たちが一昨年に再開させたらしい。
部員数は、4年生がさっさと引退してしまい誰もおらず、3年生が1人、俺たち2年生が3人しかいない。しかも、この2年生の3人のうちの1人が流郷里衣で、今はいない。つまり、合計3人しか活動していないということである。
「ミルも体験来てもいいんだぞ?」
「私、水に顔付けるの嫌ですから」
ニコニコしながらバッサリと勧誘を断るミルは少し意地悪だと思う。見学ぐらいいいじゃないか。別に泳げと言っているわけではない。なんならマネジャーだっていいのだ。
何とか人数を増やそうとカノジョを勧誘しようとするも、ミルは笑顔のまま首を横に振った。それから自分のスマートフォンを上着のポケットから取り出す。
「何時に終わりますか? 私もそれまでサークル出てようと思います」
「お前のとこのサークルは基本、自由参加だったか?」
「ええ、そうです」
ミルが所属しているのはボランティアサークルで、その名の通りボランティアを行うためのサークルである。詳しくは知らないがボランティアサークルは大勢が加入しているというのは確かで、その大半が幽霊部員であることもよく聞く。
ちなみに、我がカノジョ様はボランティアを大変熱心に行っているため、幽霊部員ではない。
「今日は5時に終わる予定だ。それまで待っていてもらってもいいか?」
スマートフォンのカレンダー機能を使い、予定を確認しながらミルに問う。ミルはパチパチと瞬きをしてから大きく頷いた。
「じゃあ5時20分くらいにプールに行けばいいですか?」
「いや、サークル棟の前でいい。俺がそっちに行く」
我が大学にはプール施設がない。そのため、俺たち水泳部は学校から徒歩10分の場所にあるプールにまで足を運ばなくてはならなかった。
いくら近いと言っても女性をわざわざ歩かせてプールにまで来てもらいたいとは思わない。しかも、今日は今年度初のプール開きで新入生もプールには連れて行く予定である。新入生に「カノジョをわざわざ自分の場所まで歩かせる男」だと思われたら居たたまれない。
「わかりました。由ちゃん、ちゃんと来て下さいね?」
「わかった。安心しろ、約束は忘れない」
「えー? 忘れたこともありましたよ?」
「人間なんだから、そりゃあたまには忘れるだろ。でも、今日は忘れない。大丈夫だ」
「はいはい」
全く、信用してくれてもよくないか……?
だが、あいにく俺は今日が「記念日」なことも忘れていたのだ。信用がなくても仕方がないのかもしれない。
「由貴くん」
「……?」
不意に背後から呼ばれた気がして、すかさず振り返る。
誰の声だったのだろうか……。わからないが、とりあえず背後には誰一人いないということだけは確かだった。
声がしたはずのその場所には誰もいない。そもそもいるはずがなかったことを今更に気付いた。
教室で食事を摂る時、俺たちは決まって一番後ろの席を使った。俺は必ず椅子の背もたれを壁にくっ付けて食べている。食事中に誰かが後ろにいるのが、何となく嫌だからだ。だから俺はいつだって椅子をわざわざ壁際まで動かしていた。
そんな習慣すら頭からすっかり抜けていて、俺は声がした気がして振り返ってしまったのだ。勿論、振り返った先には壁しかない。
「由ちゃん、どうしました……?」
ミルの困惑した声に、ゆっくりと回した首を元の位置に戻した。ミルは体をわずかに前のめりにして俺の顔を見つめている。
誰の声かなどわからない。わからなくて当然だった。俺はあの女の声を忘れてしまったのだ。
流郷里衣に呼ばれた気がしたのだ。間違いない。「由貴くん」と甘ったるく俺を呼ぶのはあの女しかいないのだ。
里衣の声を聞いた気がしたなど、ミルには言えなかった。これでは里衣を意識していると思われてしまう。いや、実際には意識などしていないのだ。ただ、突然何も無い瞬間にあの女を思い出す。
何故、里衣をこんなに思い出してしまうのか。その答えを、俺は知っているはずなのに、知らなかった。
「由ちゃん?」
「……ミル、俺の後ろに何かいるか?」
「いいえ、壁ですよ? 私、幽霊とか見えませんし……」
幽霊。
そうなのかもしれない。
本当に俺の後ろには里衣がいて、声をかけてきているのかもしれない。幽霊なら、まあ、納得である。
そうか。なんだかそんな気がする。
そう思ってしまったからだろう。背後からまた「由貴くん」なんて声が聞こえた。今度は視線まで感じる。壁しかない場所からあの女が俺を見ているのだ。そして声をかけているのだ。
そりゃあ、そうするだろうな。
化けてでも俺のところ来るよな……なんて、何故か俺はそう思ってしまうのだ。
何故か、だなんてあまりに無責任すぎるだろうか。そうだな、きちんと理由づけをしよう。
――俺は、彼女を●●したのだ。
「由ちゃん!!」
「!!」
大きな声が耳元で響き、ハッと目を向ける。
ミルがいつの間にか俺の両手を自分の小さな手で包んでいた。椅子から立ち上がった彼女は、俺の手をしっかりと握って大きな瞳を揺らす。そんな彼女が、何故か俺に何かを懇願しているように見えた。
「大丈夫ですか? さっきからずっと独り言していましたけど」
「……大丈夫、悪かった。独り言……なんて言ってた?」
「え?」
独り言だなんてもの、自分ではしている自覚がなかった。一体俺は何を無意識に言っていたのだろうか。
俺の質問に、ミルは表情を曇らせた。少し太めで短い眉毛が八の字になって、出来れば俺の問いには答えたくないと告げているようであった。
それだけで、自分が何か変なことを言っていたのだろうとわかってしまう。
「すまん。何でもない」
「由ちゃん……私はいいんです。由ちゃんが気になるのなら、言いますよ」
「ああ、頼む」
俺は、お前を殺していない――。
5:直川由貴
「サークルだあああ!! 失礼しまっす!!!!」
バアン。
大きな声と、大きな音が部屋中に響く。
プール開きが今日だからといって、俺はプールにすぐに向かったわけではなかった。
大学にはプール施設がないが、水泳部の部室はきちんと大学のサークル棟にある。現在たった4人――しかも行方不明が一人いて、活動しているのは3人だけ――の部活ではあるが、今年の3月に卒業していった先輩たちが大学側に必死に働きがけた功績だ。
ミルと別れた後、俺は真っ先にこの部室に来た。理由は単純で、水泳部に多分来るだろう、まだ見ぬ後輩を待つためであった。
水泳部の今年度の活動は今日が初めてだから、当然後輩たちが水泳部に来るのも今日が初めてである。部活で使用しているプールは大学とは無関係な機関であり、新1年生に各自でプールに向かって下さいとは言えないために、この部室に集合してもらうことになっていた。
俺以外のメンバーは、新入生勧誘のために玄関に張り付いているようだった。といってもその張り付いているメンバーは一人だが。そもそもメンバーが4人しかいない我らが水泳部は、一人は勧誘、一人はプールに先に行き準備、一人は部室待機、一人は行方不明といったところである。俺の仕事は、たった一人で寂しく部室に待機しているといったものである。話し相手もおらず、まして娯楽的なものも置いてない殺風景な部室で、俺は黙々と椅子に座っていた。
スマートフォンを弄り、何とか暇を紛らわそうと奮闘していたが、流石に何時間も経つといよいよ眠気が何よりも増さってしまったのだろう。「サークルだ!!」なんて無邪気な声とドアを開ける大きな音に、いつの間にか眠っていた俺は強制的に覚醒させられた。時計の針が15時を指している。ミルと別れた時からだいたい2時間くらい経っていた。
「すみません!」
明るいハキハキとした声を出しながら学生が俺に迫ってくる。金髪の前髪を大きな黒いピン2つで留めている彼は、大きな瞳に俺を映してニコリと笑った。
「どうしたんだ」
「ここって水泳部ですよね!? 俺、稗圃っていいます! サークル入れてください!!」
「……俺に許可を取る必要はない」
駄目と言われたらどうするのだろう。そんなしょうもないことを思いながら、ヒエハタという名の彼の目を見つめ返す。
「……」
「……」
「……ふふふ」
ヒエハタは、全く目を逸らしてはくれなかった。ヒエハタは俺をただただ意味もなく見つめてニヤニヤしている。別に、睨めっこだって苦手ではないが、恐らくヒエハタはそういうことをしたくて俺を見ている訳ではないのだろう。ただただ笑顔で凝視してくる彼の視線がむず痒い。
ヒエハタは、俺といつまでも見つめ合えるようで、気恥ずかしさも見せずに堂々と笑っていた。
「おい」
「はい?」
耐え切れず、俺はヒエハタに声をかける。すかさず返事が来た。
「いつまで俺を見つめているつもりだ。笑いやがって……何かついてるのか?」
「ああ、いえ……。気分悪くしちゃってたらすみません。ただ、本当にノウガワさんだぁって思ったんです」
「は? 俺、名乗ったか?」
何故か嬉しそうに俺の名前を呼ぶヒエハタ。しかし、あいにく俺は彼に名乗った覚えがない。はて、俺は有名人だっただろうか。
本当にわからずに首を傾げていると、ヒエハタは「またまたぁ」なんて言って前髪を揺らす。
「俺、ノウガワさんの泳ぎ好きなんですよ? 大会で活躍してたじゃないですか! そこで見て、惚れたんです!」
「……そうか」
「反応薄っ! 俺、今ノウガワさんに憧れてるって話をしてるはずなのに!!」
いや、別に「好き」と「憧れてる」はイコールではないだろうが。
などと言うのは面倒くさいため、俺は「ハイハイ」と言ってヒエハタをあしらう。
そこでようやく俺は腰を上げ、何もない部室からの出口――ヒエハタが立っていて塞がっているドア――の前まで歩いた。ヒエハタは俺がドアに向かっていると理解してくれたらしく、横によけてくれる。
しかし、成程。俺も一時期やめていたとはいえ、水泳はずっと続けているからそれなりに名前を覚えてくれている人がいたということか。それがいいのか悪いのかはわからないが、とりあえずヒエハタが変なところから俺の名前を知ったわけではなさそうで安心だ。今はSNSとか多くの人がやっているから、俺がやっていなくても誰かが俺の情報を垂れ流しているかもしれない。情報がどこでもすぐに手に入る便利な世の中ではあるが、怖い世の中でもある。
……いや、実際にヒエハタがどうやって俺を知ったのかは知らないが。
部室を出ると、ヒエハタも後ろからついてくる。別に用があるのは同じ階の隣の部屋だし、待っていてもらってもいいのだが、ヒエハタはそれもう何か話したいみたいな顔をしているため、連れて行くことにする。
「ねえ、ノウガワさん? 部室も小さかったですし、やっぱり部員少ないんですか?」
案の定、ヒエハタはすぐに話しかけてきた。恐らく黙っていることが苦手なのだろう。随分と騒がしい後輩が来てしまったものだ。
「ああ、そうだな。俺も入れて4人だ。俺たちが卒業したらなくなるかもな」
「ええ!? やばいですね!!」
廊下にヒエハタの大きな声が響く。誰もいなかったからよかったものの、誰かがいたら完全に注目の的になっていただろう。彼の音量調整はどこのボタンで可能なのだろうか。
「一人は休学してるから、実質3人しか活動してない。存続はお前たち次第になるな」
正確には、一人は行方不明なのだが……。わざわざヒエハタに言う必要もないので、俺は辺り障りなくそう伝えた。
ヒエハタはそこではじめて表情を曇らせた。先程も言ったが、水泳部はプールを他の施設に借りている。大人の事情で、人数が少ないサークル活動のために借りるわけにはいかないため、今でも存続はギリギリだったりする。恐らく、今の部長のような全国区の選手がいなければ存続させてはくれていないだろう。
「うーん……。ノウガワさんと、さっき勧誘してたルイゴウさんと、あと一人かぁ……。ちょっと寂しいなぁ」
ヒエハタが肩を落としている間に目的地の部屋のドアを軽くノックをする。
「うんうん、直川くんね。ここで点てていくのかしら?」
――前に、まるで俺を待ち構えていたかのようにドアが内側から開けられた。出てきたのは同じ学科の女、野馬だ。
野馬は講義中いつも垂らしている長い髪を頭の高い位置で一本に束ねていた。どうやらこれが彼女のサークル活動中の髪型らしかった。
「ここで点てて、向こうで飲む」
「あらあら、そうなのね。いいのよ、ここにいても。今日活動お休みだから私しかいないし」
「いや、他の奴が部室来た時に誰もいなかったら困るだろう?」
「ふふ、“今”はいいのかしら?」
「すぐ終わる」
野馬は口許の半円を浮かべたまま、俺たちに「どうぞ」と言った。俺は彼女のその言葉を聞いて、遠慮せずに野馬のサークルの部室に入る。ヒエハタも慌てて俺に倣った。
作法室……とは言えない、ただコンクリートの床に机と椅子がある空間。それが野馬の所属するサークルの部室だった。必要最低限の物があればまだマシと言えるものだが、あるのは茶碗と、薄器、茶杓、茶筅、柄杓くらいである。窯もない。ポットから湯をどうにか柄杓に入れて、そこから茶碗に入れるという……何とも言えないことをしているのがこの部活である。
「かわいい子ね。1年生?」
「はい、稗圃っていいます。えっとここって……」
「私は野馬よ。よろしくね。ここは茶道サークルよ」
俺が抹茶を点てている後ろで、ヒエハタと野馬が立ったまま話をしている。内容までは聞く気もないが、二人の声は意識せずとも俺の耳に入ってきた。
「ノウガワさんって茶道部も入ってるんですか?」
「いいえ、入ってないわよ? でも抹茶が好きだからってたまに来るのよね」
「成程……」
「ほら、私たち学籍番号近いから、講義とかでよく同じグループになるのよ。そこで私が茶道部の話をしたら点てたい、飲みたいって言われてね」
「へぇー。学籍番号ってあいうえお順じゃないですよね。あれ、どうなってるんスか?」
「アルファベット順よ。まあ、あいうえお順でも私と直川くんは番号近いだろうけどね」
俺が立ち上がった時には二人は何故か楽しそうに学籍番号の話をしていた。
「行くぞ、ヒエハタ」
「あ、はい!!」
本当はここでゆっくり飲んでもらうのがいいが、あいにく水泳部の部室を放っておくわけにもいかない。仕方なしに茶碗を持ってドアへ向かう俺に、ヒエハタはニコニコしてついてきた。
「直川くんも、ヒエハタくんも、またいらしてね。今度は私がおもてなしさせて頂くわ」
「ああ、楽しみにしてる」
「はい! お邪魔しました!!」
水泳部の部室に戻っても、幸いなことに誰も来た痕跡はなかった。
俺は、ヒエハタに座るように促し、彼が座ってから茶碗を彼に渡す。
「頂きます」
ヒエハタは、俺が点てた抹茶をまじまじと見つめた後、一口つけた。抹茶のいい匂いが鼻腔を擽る。
「……ノウガワさんは何で茶道部に入らなかったんスか?」
「環境が悪い。見ただろ、あの物の無さ」
「成程ね……」
それに、俺は別に茶道を習っていたとか、そういうわけではない。友人に茶道を習っていた人がいて、その人のお点前に惚れただけだ。
その友人は――流郷里衣だ。小学生の頃から作法を習っていた里衣のお点前の美しさや、彼女の語る茶道の奥深さに感銘を受けたから、俺は茶道が好きなのだ。
まあ、本当にその道を極めている人からすると、俺はにわかというか、偽物というか、そういう風に見えるのかもしれない。でも、大人になったら習ってみたいとか、友人のお点前をいつまでも眺めていたいとか、俺なりにそれを楽しんでいるわけである。
「由貴くん、私はこうしていると心が落ち着くんだ」
里衣が優しく微笑む。
「由貴くんはどう? こうやってお茶をゆっくり飲むのも、素敵な過ごし方だと思わない?」
ああ、思う。思うよ。
でも、どうして、お前が今喋るんだ。
「どうしてって、だって今由貴くんがお茶を飲んでるからよ」
いや、飲んでいるのは俺じゃな――。
「ヒエハタ」
大きく深呼吸して、俺はようやく流郷里衣と話すのを止められた。
急に声をかけられたヒエハタはキョトンと首を傾げる。彼の持つ茶碗にはすでに抹茶はなくなっていた。
「……お前は、サークルに入るのか?」
「え!? 入るって言いましたよね、さっき!!」
「そうだったか?」
「……ノウガワさんって天然なんですか?」
「何の話だ?」
体を前のめりにして俺に応えるヒエハタは、何故か少し呆れた様子だった。
まあ、確かに、彼は入部したいと言っていた気もする。が、言っていなかった気もした。
何が何だかわからなくなってきた。考え事をしたら現実なのか妄想なのか、今がいつなのか何の話をしていたのかわからなくなる。何故なのか、自分にはわからないし、きっと他の誰にもわからないだろう。
特に、里衣がいなくなってから余計何が何だかわからなくなっていた。いないはずの里衣の声が聞こえたりする。幻聴なのかはたまた幽霊なのか、見当もつかない。
考えれば考えるほど、頭が痛くなってきた。もう、考えることはよそうか。とりあえず、ヒエハタは入部する。その事実だけ覚えておこう。
俺が一人で勝手に自己解決を図っていると、背後のドアが控えめに開いた。もしかしたらノックをしてくれたのかもしれないが、あまりに控えめだったので気付かなかった。
「あの」と、か細い声で喋る1年生は、先ほど入室してきたヒエハタとは異なって、何もかも控えめだ。ドアを開けたはいいけれども、こちらを覗いているだけで入ろうともしてこなかった。
「入っていいぞ」
俺が促すと、彼女は頭をそれまた控えめに小さく下げて、入室した。明るい茶色のカールした髪を胸元まで伸ばした彼女は、大きな鞄を大事そうに抱える。
「あの、水泳部……今日見学出来るんですよね……」
「あ! 君、同じ学科だよね! 君も水泳部はいるの!?」
彼女が質問したのとほぼ同時に、ヒエハタが彼女を指さして大声を出す。人を指でさすなと言ってやりたかったが、彼女自身が気にせずに「うん」と答えていたので見逃すことにした。
「見学の時間はあと42分後だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「そこに座っていてくれ。今。茶を点てるから待っていろ」
「え? 点てる……?」
少女が何かを言っていたが、俺は無視して部室を出た。
茶を点てて戻って来た後、俺は2人に見学者署名の紙に名前を記入してもらってないことに気が付いた。先程来た後輩に抹茶を渡し、慌てて部長から預かっていた用紙をファイルから取り出す。
「お前ら、これに名前書いておけ」
「はーい」
俺の言葉にヒエハタが元気に手を挙げて返事をした。彼の動作はまるで小学生だ。
先にヒエハタが「稗圃宝雅」と記入欄いっぱいの大きな字で書いていた。宝雅、変わった名前だ。
稗圃は書き終えると、女子の方にそのまま渡す。稗圃はそのまま、彼女が書き始めるのも近くでまじまじと見ていた。
「えっと、エイナちゃん? エナちゃん?」
「エナだよ」
稗圃が大きな字で書いたのに対し、彼女はやはり控えめに小さく名前を書く。「海馬沢英那」というのが彼女の名前らしい。稗圃がきいてくれたおかげで、彼女がエナということがわかった。
「可愛い名前だね」
「ありがと」
「水泳やってたの?」
「うん、ちょっとね」
俺が抹茶を点てに行った時には何も話していなかったのだろうか。名前も今知ったみたいだし、海馬沢は見てわかるが稗圃も存外緊張しているか人見知りなのかもしれない。
それでも二人がぼちぼち会話を繋げていることに安堵する。何となくだが、彼らは上手くやっていけそうだ。
「新入生、たくさん呼び込もうね」
また。
また、里衣の声がする。
もう、声なんて覚えていないのに、里衣が確かに俺に語り掛けて来る。
……何がたくさん呼び込もう、だ。そんなことを言って俺たちに結局全部押し付けやがって。
しかし、そんなことを言ってやる相手はいない。里衣はいないのだ。稗圃と海馬沢と、そして俺と。三人しかいない空間に、流郷里衣の姿はない。
里衣は、いつも俺の近くにいた。小学校の班分けなんかがあったら必ず俺と一緒になりたがってきたし、違う友達と帰る約束をしていても、何故か里衣もついて来ていた。
それが7か月前にパッタリとなくなったのだから、もしかしたら俺は寂しいのかもしれない。付き合っているミルは、里衣ほどベタベタと付きまとっては来ないから、物足りなさでも感じているのだろうか。
だが、俺が里衣をどう思おうともう遅いわけだ。どんなに彼女の声が聞こえた気がしても、現実に彼女はここにはいない。俺の声など里衣には既に届かないし、里衣の気持ちも俺に伝わる術はない。
「ちょっとー! ヨシタカ、考え事してないで後輩ちゃんに構ってあげてよ!!」
「!」
いつからいたのか、突然背後から友人に声をかけられる。今しがた会ったばかりの1年生の声とは違い、聞き覚えのある親しい声は、大声でうるさいなとは思ったものの、どこか安心させてくれるものだった。
声の主は、里衣の双子の弟である流郷成生だった。ナルはニコニコと笑いながら、「しっかりしてよ」と俺の肩を叩く。
そんなナルの後ろには、見覚えのない男がいた。ナルよりも10センチは大きそうな彼は、俺と目が合うと遠慮がちに会釈した。
「じゃーん!! もう一人連れてきました!!」
「ど、どうも……」
もじもじと小さい声で挨拶する彼は、どうやらナルが連れてきた1年生のようだ。
そんな彼にまず反応したのが意外にも海馬沢だった。
「あ、梵くん」
「カイバさん!」
「あれ、英那ちゃん知り合い?」
「うん。同じ高校出身なんだよ」
「へー!」
知り合いが来て安心したのか、不安そうだった海馬沢の表情が心なしか明るくなる。それを見て梵と呼ばれた少年も安心したように笑った。
知り合いの海馬沢と梵の会話に、稗圃も何ら困ることなく交わっている。その様子を見ていると何だか和やかな気分になる。この三人はすぐに仲良くなりそうだ。
そういえば、俺も幼い頃は三人でよくつるんでいたものだ。俺と、ナルと、里衣と。ミルと仲良くなるまでの間はわりと三人で遊んでいた気がする。
もっとも、彼らは「これから」で、俺たちは「今まで」なのだが。
「今日はこの三人だけだろうね」
新入生三人が楽しそうに話しているのを眺めていると、ナルが小さい声で俺に言った。その表情は少し残念そうだ。
「玄関にいたんだけど、新入生全然いなかった。もう他のサークルに取られたみたい」
「そうか。じゃあ、四十物谷さんも待っているだろうし、行くか」
「そうだね!」
ナルのアホ毛が揺れる。どんなに整えてもワックスを付けても跳ねるアホ毛が動くと、何だかそこに生命があるようでおかしかった。
「じゃあ新入生の皆さーん!! プールへGO!!」
ナルが元気に大きな声で号令をかけた。
もしも、彼の姉がいたならば、彼女も一緒に楽しそうに号令をかけたのだろう。
だが、部室のどこを見渡しても、彼女はいなかった。
6:直川由貴
少ない部員に有難く貸し出して頂いているプールは、俺たちが使う時は基本的には貸し切りだった。このような新入生のための見学では放課後に使わせてもらっているが、基本は朝練といった形で、朝にしかプールは活用していない。夕方に活動する際は、プールに入らず、休憩室を貸し切りにしてもらって筋トレをさせて頂いている。
「……で?」
大学名の入ったジャージを着ている俺に、ナルが眉をひそめる。
「何でプールに入ってんの俺だけなの?」
俺に話しかけるナルは既にプールに入ってアップを終わらせたところだった。泳ぎ終わって水泳帽を脱いだ彼のアホ毛は、濡れたにもかかわらず、しっかりと立っている。
「四十物谷さんは急きょ家から連絡が入ったらしい。後で来るそうだ」
「まてまてまて! お前は入れるでしょヨシタカくん!?」
ナルのアホ毛が、意思があるかのようにピーンと伸びた。それが何だか面白くて笑いそうになったが、どうにか堪えて首を横に振る。
「めんどくせぇ」
「ええ!?」
ただでさえでかいナルの声が、プールなこともあって余計大きく響き渡る。彼の声には慣れているが、それでも頭が痛くなるような大声にはうんざりした。
「それに、ナルだけじゃない。1年三人とも水着持ってきてるから入るそうだ」
「おなしゃーす!!」
「「……お願いします」」
俺が言うのと同時に、稗圃がナルに負けない大きな声で挨拶をする。それを追って海馬沢と梵がぼそっと挨拶をした。
そんな三人と俺を見比べてから、ナルは小さくため息を吐いた。
「本ッ当にヨシタカくんって自由だよね」
「ありがとう」
「誉めてないし」
流郷姉弟とはじめて会ったのは、プールだった。
4歳の時、俺が習っていたスイミングスクールに、彼らが来た。
海馬沢や梵のように引っ込み思案なタイプだった俺は、折角来た同年代の彼らに話しかけることが出来なかった。
声をかけてくれたのが二人のうちどちらだったかはわからない。それでも、俺にたくさん声をかけてくれて、スクール終わりには飴を渡してくれて、「バイバイ」と言ってくれたのは彼らだった。
水泳をずっとやって、彼らとずっと繋がっていることが、俺の楽しみだった。幼児から小学生、中学生、高校……大学まで、一時期やめざるを得ない時もあったけれど、結局再開して続けたのも、単純に水泳が好きだったこともあるが、彼らとの繋がりを求めていたということも大きい。
こんなに繋がっていたのに、一人はもうここにはいない。7か月前には一緒に泳いでいた。笑っていた。彼女の声も響いていた。なのに、今はもういない。
――川じゃあ、泳げないのに。
「直川くん、今日は、タイムはいいのかい?」
「あ……はい。体験ですから」
どうやら最近は、いきなり声をかけて来るのが流行っているらしい。
先の部室の時のナルのように大きな声ではなかったため、そこまで驚きはしなかったが、今度はいつの間にか先生が隣に立っていた。
先生は曇る眼鏡をTシャツで拭いてからかけ直し、ニコニコと新入生とナルを見つめる。
「先生、椅子お持ちしますね」
「ああ、立っているからいいよ。ありがとう」
黒髪に白髪の混じった彼は、水泳部の責任者といったところか。俺たちは大人(俺自身、まだ20歳ではないが)ではあるものの、他の施設を扱い、更にはプールという危険の多い場所での活動である。顧問兼コーチという形で常にサークル活動を見守ってもらっている。
「ところで、最近顔を出していなかったけど、体調はどうだい?」
先生は水中で華麗に動く彼らから目を逸らさずに、俺に聞く。俺は、一応話しかけて来る彼の方を見ながら、応える。
「お陰様でもうすっかり元気ですよ。明日からは俺も入ります」
そう、俺は最近調子を崩していた。といっても、体の調子が悪かったわけではない。
里衣のことにずっと気を取られているのだ。そのせいなのか、何にも集中は出来ないし、人と話していても上の空だし、周りの人たちに心配されてしまうのだ。さらに、里衣より先に失踪した母のことまで気になってしまい、自分でも思考がごちゃごちゃになってまとめられない。
そんな状態だったため、少し落ち着こうとここ最近はサークルを控え、バイトを控え、愛犬とカノジョとダラダラ過ごすことに徹していた。
もう大丈夫だ、ととりあえず自分では判断したことを先生に伝えると、彼は俺の方を向いてゆっくりと頷いた。そして、突然手を伸ばしてきて、左耳を軽く引っ張ってくる。
「大丈夫になった事はよかったが、プールサイドでピアスはやめなさい」
「……すみません」
カノジョにいつだかプレゼントされたお揃いのピアス(ミルはイヤリングだが)を指摘され、少し苛立ちつつ、彼の言うことの方が最もだと思いため息を吐いた。
……そういえば。
里衣も、あの日、俺の耳に触れた。
俺のことを好きだという彼女の瞳は、何だかうっとりとしていて、その甘ったるい視線が少し気味悪かった。
……ああ、そうだ。
そういえば、彼女も俺を心配していた。「大丈夫?」と聞いていた。
何故か彼女は俺を心配していたのだ。理由は何なのか、見当もつかない。
「由貴くん」と、必死に俺の名前を呼んでいた。夢でもそんな場面があった。でも、これは夢ではない。
現実だ。事実だ。彼女は俺を心配して名前を呼んでいた。
その時の俺はどうだった?
「――!!!」
あの時、俺は一体何を叫んでいたのだろうか。
嗚呼、
――なんだ。
俺は、本当は彼女の居場所を知っている。
――だって、忘れるわけがない。
俺は、彼女がどうしてそうしたのか知っている。
――あの女は、
もう、●●●いる。
「っ」
吐き気がした。咄嗟に口許を抑えて、その場に座り込む。
先生の声が聞こえる。何を言っているのかはわからない。多分、「大丈夫?」とか、そういう言葉だと思う。
胃液の酸っぱさを感じながら、都合の悪い記憶が抜けていく。
そうだ。いつだってそうしてきた。
母の虐待が発覚し、施設に入れられた瞬間も。
施設から出て、母と過ごした温かいひと時も。
母が失踪して、一人で流した涙も。
幼馴染が優しい顔して告白してくれた夕暮れも。
「好き」と言った次は「人殺しだ」と罵ってきた女の声も。
そうだ。
俺は、全て忘れて生きてきた。
忘れてしまえばいい。嫌なことは、全部。
良かったことも、一緒に忘れてしまえばいい。
何もなくなればいい。
そうだ。
――俺は、あの女の居場所なんて知らない。
7:直川由貴
「見て見て見て! じゃーん!!」
里衣の妹、紀歌が嬉しそうに両手を広げた。
ここは流郷家。流郷家を支える母親と、ナルと紀歌、更に妹と弟の計5人が現在住んでいるマンションの一室だ。
狭いリビングは何畳あるのかはわからない。ただ、俺と紀歌と、紀歌の妹である心粋の3人でいても些か窮屈に感じるのは、俺が一軒家の広々とした空間に慣れているからだろう。
紀歌は休日にも関わらず、スーツを身に纏っていた。その姿が、少しいなくなる直前の里衣に重なって少し不愉快だとは、彼女にはとても言えない。
俺は時折彼女たちの家にお邪魔していた。それは、かつては里衣が誘ってくれたからであり、現在は紀歌や心粋が誘ってくれるからである。
「どうしたんだ、紀歌。スーツなんか着て」
「反応薄! 入学式に見せられなかったから今着てるんだよ!」
「そうか……似合ってないな」
「えええ……酷い」
プールで具合が悪くなって2日、俺は既にいつも通りに過ごしていた。あの時、何か大切なことを思い出した気がしたが、思い出そうとすると心臓が締め付けられるように息苦しくなるため、今は考えることをやめている。
「もう! 私、由貴くんと同じ大学入るのにすごく頑張ったのにぃ」
「それはいいからはやく着替えろ。汚れるぞ」
不貞腐れる紀歌を一瞥してから、俺は先程淹れてもらったコーヒーを飲む。ほろ苦さが口内に一気に広がった。
「うう……本当に関心ないんだから……」
「そりゃあ紀歌のスーツなんて興味ないでしょ。だって、紀歌スーツ全然似合ってないし」
「ちょ、心粋!!」
紀歌と心粋の喧嘩が始まった。自分の妹たちではないが、それでもこうも休みの日にわざわざ呼び出してくれるほどに懐いてくれる彼女たちは可愛い。叶うことなら、こんな可愛い妹か弟が欲しかった。
兄弟などいないが、いたらこんな感じなのかなと思うと何だか楽しかった。そんな気持ちにさせてくれる二人に感謝しつつ、俺は、彼女たちの頭を撫でる。
「紀歌も心粋も俺に見せたいのはわかったがスーツも制服もわざわざ休みの日に着なくていい」
「はわわわわわわ!! そ、そうだね由貴くんん!!」
「撫でてたら心粋が恥ずか死んじゃうよ、由貴くん」
「え?」
紀歌が何を言っているのかよくわからないが、とりあえず心粋がツインテールを垂らして項垂れているのを見て、嫌だったのかと思い、手を放す。妹のように感じてはいるが、結局は他人の男女だ。急に触られて不快に思ったのかもしれない。
「すまん、小粋」
「ううん!? むしろ、もっと、その、いいよ?」
「何を言ってるんだ?」
「……由貴くんって、鈍感だよね」
「は?」
彼女たちの言動についていけないのは、俺が鈍感だからなのか?
よくわからないままポカンと立ち尽くしていると、心粋が顔を真っ赤にしたまま走って寝室に行ってしまった。
取り残された俺は、同じく取り残された紀歌に話しかける。
「どうしたんだ、アイツ」
「うーん……。由貴くんさ、もしかして心粋とか里衣お姉ちゃんの気持ちに気付いてなかったの?」
何の話だ、と言おうとしたがそこでハッとする。
……鈍感とは、そういうことだったのか。
「好きだよ、由貴くん」
里衣は、別れ際にそう言った。いつから好きだったかは知らない。でも、紀歌が俺を鈍感だと言ったからには、俺は彼女なりのアタック的なものに気付いていなかったのだろうか。
「やっぱり気付いてなかったんだ」
「……俺だけか、知らなかったのは」
「まあ、そうじゃないかな。私たち兄弟は知ってたし、ママも知ってたよ。あと、ミルちゃんも知ってたと思う」
なんてことだ。当の本人の俺だけが気づいていなかったなんて。
じゃあ、里衣がいなくなったのは俺が応えられなかったからか?
「それはないと思うよ」
腰よりも長い髪を揺らして、紀歌は言う。
「ナルお兄ちゃんが言ってたもん。里衣お姉ちゃんは中学生の頃から由貴くんのこと好きで、でも恋が実らないってずっとわかっていたって」
「今更実らないことに絶望なんてしないよ」
紀歌に続いて言ったのは、ナルだった。彼はどうやら寝室で寝ていたらしい。大きな猫のイラストが描かれたTシャツを捲りながらお腹を掻く。大きな欠伸でアホ毛が揺れた。
「……ヨシタカ、里衣のこと考えてくれることは嬉しいし、気になるっていうのもわかるよ。でも、あんまり考えない方がいいって。ヨシタカが悪いわけじゃないんだから」
大きな瞳が俺を捉える。ナルの眉毛が八の字を書いていて、どうやら困っているようだ。
そうだ。彼らにとっては身内がいなくなったのだ。その悲しみや、やるせなさは俺だってわかっている。
「悪い。もう、言わない」
「いや、だからヨシタカが謝ることじゃないんだって」
「今日は帰る。心粋にもよろしく伝えといてくれ」
またね、と慌てて言う紀歌に頷き、俺は流郷家を後にする。
考えるな、と言われても困るのだ。
これは呪縛なのだ。いなくなった側は残った側のこんな気持ち、考えているのだろうか。
だって、里衣も酷くないか?
鈍感な俺が悪いのかもしれないが、そもそも彼女は俺と10年以上一緒にいるのだ。それくらい彼女もわかっているはずだ。
なのに、ずっと言わなかった。ずっと伝えてくれなかった。友達ですらいれなくなると思ったからか? それはわからないけれど。
「さよなら」と告げたあの女が、「好きだよ」と告げていなくなったのは何だったのだ。最後だから告げたのか。それとも、その言葉で、いつまでも俺を縛り付けるつもりだったのか。
それならば、まさしく彼女は正しい。「好きだよ」なんて言われて、いなくなられる。これではまるで俺が悪いようだ。だからこそ、「それ」が原因であれ、違うであれ、俺が付き合ってさえいれば彼女はここにいたのではないだろうかと思ってしまう。
彼女が俺に好意を持っていたことは知らなかったが、彼女にとって俺が大きな存在だったのは知っていた。彼女は、俺を支えてくれていた。弱弱しく、何もできない非力な俺を笑顔にしてくれていたのは彼女だった。
ただ、彼女は俺ではなくてもいいはずだったのだ。彼女は弱者を支える自分が好きだった。だって、俺をいつも「可哀想だ」と言った。
流郷里衣の身近な『弱者代表』は直川由貴だった。それだけなのだと、俺は認識していた。だから俺は彼女を友達とは思っても、平等な関係で付き合える人間だとは思ったことはなかった。
だから、そんな里衣曰く『可哀想担当』の俺に告白した時、彼女はどんな気持ちだったのか……知りたい。
俺も、ふられた時がある。と言っても愛の告白ではなかったが。いや、愛の告白ではあった。ただ、里衣とは「好き」の種類が違ったけれど。
里衣も、ふられた時の、あの重くて冷たい感情を感じていたのだろうか。
養護施設の、先生が言っていた。
「由貴、あなたは――なんだから、身の程を知りなさい」
養護施設の先生は笑顔だった。俺に身の程を知りなさいと言いながら、俺の味方なのだと言っていた。
里衣も一緒だ。俺を人殺しと言いながら、一緒に生きようと、私はお前の味方だと言っていた。
「だからお前は嫌いなのだ」と、俺は思ってしまった。
「だからお前とは付き合えない」と、俺はふってしまった。
だから、お前はここからいなくなったのか……?
8:直川由貴
「では、ミーティングします」
水泳部の部室では7人が集まっていた。3人は在籍する部員で、一人は先生。あとは例の新入生たちだ。
結局、新入生は3人だけのようだ。この現状に、肩を落としてしまう。来年の部活は大丈夫なのだろうか。
配られた部員の名簿をぼんやりと眺めていると、「すみませーん」と稗圃が手を挙げた。それに、部長の四十物谷さんがビクッと肩を上げた。
「え、な、何かあった!? 僕、すぐ何でも間違えるから……ご、ごめん」
「え、いえ! そうじゃなくて……。皆さん直川さんのことヨシタカって呼んでたから……ユウキが正しいんですか?」
「え……あー、ヨシタカくんのこと? ……もしかして、僕、間違った?」
「いえ、ユウキであってます」
人数が少ないため、皆の名前を覚えようということで四十物谷さんがわざわざフリガナ付きの名簿を作ってくれていた。机に置いてある紙に目を通すと、しっかりと正しくユウキでふってもらえている。
「由貴って、ヨシタカとも読めるでしょ? ヨシタカくん、どう見てもユウキって顔じゃないからそう呼んでるの」
笑顔で失礼なことをいうナルに、稗圃はうんうんと頷く。さらに、「そうなんスね! じゃあ、俺もそう呼ぼう!」とか言い出していた。
まあ、呼び方はどうでもいいので、気にしないことにする。そうしていると淡々と自己紹介が始まる。
部長の四十物谷さんから始まり、俺、ナルと続く。それから新入生の海馬沢、梵、稗圃と簡単に自己紹介を済ました。
彼ら全員が水泳経験者のようだった。海馬沢と梵は高校まで水泳を続けており、稗圃は中学までやっていたらしい。
最後に、先生が自己紹介をする。先生も軽い紹介で、あっという間に自己紹介は終わった。
今日ははやめに帰ろう。そう思っていたため、自己紹介が終わった瞬間に鞄を持とうと手が動く。しかし、先生が四十物谷さんの名前を呼んだために手が止まった。
「ヒロはどうしてこの大学に入ったか、覚えているかい?」
「え……? はい」
ヒロというのは四十物谷さんの愛称だ。四十物谷さんは何かを思い出すように目線を泳がせたが、すぐに頷いた。
そんな彼を見て、先生は嬉しそうに頷く。そして、今度は俺とナルの方に目を向けた。
「ヨシタカとナルは覚えているかい?」
「まあ、覚えてますよ」
ナルは頭上に?マークを浮かべつつ、すぐに応じる。
一方の俺は、先生の質問に少しだけ口を閉ざす。
だが、すぐに「覚えています」と小さく嘘を呟いた。
覚えてなど、いないのだ。
覚えているもなにも、ないのだ。
理由はない。何をするにも、もう理由はない。
俺はもう、「あの日」から全部捨てたから――。
そう、「あの日」から全てを失っていたのだ。
最も、もう「あの日」の体験すら、俺にとってはないに等しいが。
「うん。三人とも、よろしい。君たち1年生もきっと大学選びは、大変だっただろう。それぞれ、様々に考えてここに来たのだろう」
先生の和やかな声に海馬沢と梵が一瞬目を合わせる。そしてすぐに逸らした。
「ねえ」
口許を緩めて、稗圃が言う。何故か彼の瞳は笑っていない。
「先生は俺たちの夢、叶うと思ってそんなこと聞いてんですか?」
彼は少し苛立っているようだった。
そんな言い方をしたら面接試験に落ちるぞと言いたかったが、彼は既に大学に受かっている。それよりも、俺も彼と同じように少し苛立っていたため、彼が俺の代わりにそのような態度をあからさまに取ってくれて感謝する。
大学の志望理由とか、将来の夢だとか、そんなもの他者に煽られるために言うことが屈辱だ。先生だから、と偉そうに人の想いを評価されるのは嫌だ。
先生は、特に気を悪くすることもなく、優しく笑ったまま頷いた。
「ああ、君たちがその気持ちを忘れなければね。初心を忘れてしまえば、どんどん道が反れてしまう。本当に叶えたい夢ならば、常に初心に帰ることが必要だよ」
「そっかぁ。じゃあ、忘れないようにしまーす!」
先生の説明に納得しているのか否かはわからないが稗圃はすぐに笑顔を見せた。
正直、先生がこんなことを突然言い出したのは俺への当てつけに感じてしまった。
先生は俺の何を知っているわけでもないが、それでも何でも忘れようとして……実際に何かを忘れていく自分に対する言葉だとしか思えない。
……そうか。そっか。
「先生も、俺が悪いって言うのか」
誰にも聞こえないくらいの小さな声が零れた。
そうだ、周りの人間はそれしか言わない。いいことや素晴らしいと思われることを言って、言うだけで、助けてなどくれない。
そうやって、全て失った人間には何もないと言う。
そうやって、全て失った(わすれた)先には、もう何もないという。
「嘘」
流郷里衣は、続ける。
「忘れたなんて嘘でしょ、由貴くん。貴方は忘れてなんていない。私が助けてみせるから、だから認めてほしいの。由貴くん、貴方は――」
「由貴、大丈夫?」
ナルのアホ毛が右に傾いた。
いつの間にか、周りは帰宅モードになり、1年生たちが連絡先交換をしている。
「もうミーティング終わったよ」
「……そうか」
「最近ぼーっとしてるよね。大丈夫?」
大丈夫? どこが基準なのだろうか。
わからないけれど、ここは大丈夫と言うのが正しい。
「大丈夫だ。ありがとう、ナル」
「いやいや。友達を心配するのはフツーでしょ」
さあ、帰ろう。そう言って、ナルは俺の肩を軽く叩く。
俺はその言葉に頷いて、鞄を肩にかける。
ナルは優しい。
ああやって、言葉にしてくれる。鈍感な俺に、「これはこうだから」と言ってくれる。
友達だから心配するのは普通だなんて、誰が決めたのだろう。ナルか。ナルにとってはそれが普通なのか。
優しい彼に安心しながら、ほんの少しだけ残念だと思ってしまう自分が醜い。
結局のところ、誰も俺が「ナニ」で作られているのか知らないし、きっと見ようともしていない。
それは、母も、友達も、自称俺の味方な養護施設の大人も、俺を好きだと言ったアイツも。
何も、気付いてなどいなかった。
何も、気付こうともしなかった。
9:直川由貴
4月の中旬となると、新入生たちも少しずつサークルに慣れた様だった。すっかり3人は仲良くなり、更に誰とでも隔てなく話せるナルも彼らと楽しそうに関わっていた。
俺はと言うと、まあ、普通に会話できる程度ではないだろうか。元々、あまり人と話すのが得意ではないし、不愛想なのも自覚しているため、海馬沢や梵は俺に話しかけるのに躊躇うところもあるかもしれない。……少し、愛想が良くなるように努力した方がいいだろうか。
そんなことを考えながら大学の廊下を歩く。窓から景色を眺めると、汚い土色をした残雪と何か月か放置されていた自転車しか見えなかった。
「あの!」
桜でも見られたらいいのに、と残念がっていると後ろから声をかけられる。声をかけてくるのならば、せめて正面に来いと怒りたくもなったが、面倒くさかったので無言で振り返ってやる。
太く短い眉毛を八の字にして話しかけてきた彼には見覚えがあった。確か、南野(のうの)とかいう男だったと思う。同じ学科で、学籍番号が近いため、よく茶道部の野馬と一緒に同じグループにされる男だ。
しかし、一緒に茶を点てる野馬と違い、俺はこの男とはあまり話したことがない。グループ活動の時もいつもモジモジしているし、講義が終わった瞬間にサッサといなくなってしまうため、あまり話しかけてほしくないのだろうと思っていたからだ。
南野は俺の目を見つめながら何度も瞬きをする。緊張しているのだろう。
「えっと、あの、ジキカワくん、だよね」
「……多分そうだな」
「た、多分?」
何だ、その難しい読み方は。確かに直川をノウガワと読むのも難しいかもしれないが、ジキカワの発想はなかった。せめてナオカワじゃないのか? というか、いつもグループ組んでいるだろうが、失礼な奴だな。
「じゃあ、その、じ、ジキカワユウキさんですか」
あ、由貴はちゃんと読むのか。
「……ジキカワではなくて、ノウガワと読むんだ」
「あ! そ、そうなんだ! ごめんね!!」
南野は、思いっきり頭を下げる。それを何度も繰り返す。ペコペコと頭を高速で下げる彼に、内心少し引きつつ「大丈夫だ」と告げる。
「別に気にしてない。で、何の用だ」
ようやく南野は顔を上げる。そして、目を瞑って深呼吸。待て、俺と話すのに緊張しすぎだろ。
深呼吸も何回か繰り返し、ようやく目を開ける。しかし、緊張は解れていないらしい。瞬きが異常に多い。
「えっと、僕、ピアサークルの南野興輔っていいます」
はい、存じております。
「えっと、か、勧誘に来ました!!」
「……は?」
勧誘? 何の? そのピアサークル、とやらの?
「俺は水泳部に所属している。掛け持ちする気はない。他を当たってくれ」
「ま、待って! その水泳部の里衣ちゃんの紹介なんだ!!」
「……里衣の?」
去ろうと思って動かした足が止まる。俺が話を聞く気になったことが伝わったのか、南野はようやく表情を柔らかくした。
「う、うん! 里衣ちゃんが2年生になったらジキ……ノウガワくんもぜひ誘おうって……」
里衣がそんなことを言っていたのか。
確かに、彼女はピアサークルというのかわからないが、サークルを作る的なことを言っていた気がする。
「そのサークルは何をするんだ?」
「えっと、ピアサークルって、生徒同士のサポートをしようっていうサークルで、僕と里衣ちゃんで作ったんだけど……。まあ、その、学生の相談に乗ったりとか、そういう活動をしてたんだよね。それで、里衣ちゃんが、ぜひ学年トップのジキ……ノウガワくんも誘いたいって。勉強の相談が多かったし」
世間ではピアサポーターとかが活躍しているし、それの学生バージョンか……。
そうだ、確かに里衣も言っていた。勧誘はしてこなかったが、何かあったら相談してほしいとは言われていた気がする。
「……悪いが、そういう学生同士の支え合いとかは柄じゃない」
「そ、そっかぁ……」
他人でもわかるくらいに頭を垂れて凹む南野。彼には少し申し訳ないが、それでも、自分が誰かの相談に乗っている姿など、想像もつかなかった。
いや、それよりも。
俺は、南野興輔が、里衣の名前を出してくれたことにどこか安心していた。
流郷家では禁句となった彼女の名前。里衣の友達のはずのミルも、その名前を出しはしない。もちろん、水泳部でも彼女の名前は出ない。
いたはずなのに、いないことになっている彼女の存在を、南野興輔が浮き彫りにしてくれる。それが何だか嬉しかった。
「でも、俺の相談に乗ってくれるなら、入ってやらないこともない。相談、とはまた違うかもしれないが」
南野や里衣のような活動目的があるわけではない。あくまで、自分のためだ。
「乗りますよ! 何ですか!?」
余程嬉しかったのか、南野は話の内容も聞かずに目を輝かせた。そんな彼がなんだか無邪気な子どもに見えて面白かった。
「里衣を」
彼女がいたことを忘れないように、名前を呼ぶ。
忘れたらいいのだと思って、蓋を閉めたいと思った彼女の名前。
それでも、こうやって簡単に他人に揺るがされるくらいに、俺は彼女を気にしている。
「流郷里衣を、俺と一緒に探して欲しい」
ほんの少し、期待させてほしい。
「どうする? 南野」
里衣と言う共通点しかない彼が、
俺を全く知らない彼が、
もしかしたら「あの日」から消えた「俺」を見つけてくれるかもしれないと。
「はい、一緒に探します!!」
何も知らない彼だからこそ、
同情もせずに、淡々と俺を探してくれる。
どうか、はやく、見つけてください。
「由貴くん、貴方はお母さんを殺したんだよ」
「ああ、お前の言う通りだ」
その先を教えて。
俺は彼女に、その後何を言ったのか。
里衣はどこに行ってしまったのか。
里衣はどうして行ってしまったのか。
欲張りな俺は、自分で捨てた過去を探し始めた。
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