八
話し終えたさきさんは、昔の事を思い出してしんみりした顔をしていたが、私が言葉に迷っていると「長い話しちゃいましたね」照れ臭そうに笑った。
「もう遅いですし、泊まっていってください。お風呂沸かしておきましたから」
私はただ、前後の事も考えずにありがとうございますと頷いた。
濡れた時の事を考えて、着替えを車に持ってきていたのを思い出した私は雨の中それを取り、さきさんの家の湯船に浸かった。
時間はもう夜中と言ってよく、風呂はさほど熱くもなく、私はぼんやり先ほど見たさきさんの背中に思いを馳せた。
白い肌に艶めかしいほど鮮烈に彫られた火光天女の図柄は、想像するのに不自由な程重たい意味を持っていた。彼女の信仰の印にそれは存在する。
神、人は一口にそれを語って有耶無耶にするが、彼女にとっては明確に存在する物なのだろう。夢幻に抱かれるような心地が私の中に存在する。神を信じ続けた人の家で聞いた様々な事の中には不思議も混じる。
一体、母の病気の折にさきさんが洋食屋で見かけた女性はなんだったのだろう。
普通に考えればそれは偶然居合わせただけの女性がさきさんに何か言った程度の事だ。何か運命的な物があるのはさきさんの記憶違いか偶然の一致……しかし、それでは済まされないくらいにその言葉はさきさんへの影響力を持っていた。もしかすると、その一言でさきさんは一生の生き方を決めたのではないかと思われるほどに。
神、神、死んだものとされる神とは異なる、また異教とも言い切れない何か、その名前すらさきさんは語らなかった。それでも彼女は神を信じた上で生きているし、この先も生きていく気持ちがあるのだろう。人が見ればとんでもなく波乱に満ちているようにも見えるが、彼女にとってそれは波乱でもななく、寧ろただ一つの導きなのかも知れない。
私は随分勝手な思索を巡らせて、のっそり風呂から上がった。
雨はようやく止んできたようで、網戸になった窓の外は木々のざわめく音が聞こえる。
私が出ると、さきさんの姿が見えなかった。灯りはついているが、居間にもキッチンにも座敷にもいない。ただ、座敷には彼女が着ていた上着が綺麗に畳んであった。二階か……思ってそちらを見ても、音がしない。なんだか心細く、不安な心地が湧いてくる。生活感に溢れた家の中で、私は玄関を見てみた。さきさんが履いていた靴がない。
物騒な事を考えなかった。外に何かがあるのだろうか。こんな夜に。私は気になって、靴を履いて外へ出た。
田舎の夜はまだ雲を残し、光はほんの少し家から漏れ出ている物に過ぎなかった。居間の窓から南方に光が漏れている。家の周りをぐるりと回ってキッチンの裏に向かう形だ。その方に向かうと足跡がぬかるんだ地面に存在した。さきさんの物としか思えないのでそちらに向かう。家の裏手、海のある東に向かう方ではあるが、しかしそちらに何かあるとは思えない。家は高い所にあり、少し先には断崖があるだけ……そこに人が向かっているのかと考えると気味が悪い。
しかし、最悪の事は起こらず、さきさんは海が見える場所に佇んでいた。
「どうしたんですか、こんな時間に」
キッチンから漏れる光がさきさんを薄く照らしている。私の声にさきさんは驚きもせずに視線を向けた。
「たまに、ここで不思議な事があるんです」
愛らしい顔で言って、さきさんは東に見える海を見た。何か。私もそちらを見るが、暗い海に何が見えるでもない。漁師も今は休みだろう。
「月の光が海に反射して、時たま海が燃えるんです」
海が燃える?
不知火のような物だろうか……しかし、月の光が、というなら今は見える筈もない。月は雲に隠れて――否、僅かな月影が海を照らした。
しかし、さきさんが言うような現象は見えなかった。静かな海がそこに広がる神秘的な光景が広がっているだけだ。
「たまに、あの海に火光が盛るんです。……って、見えもしなければ信じられないですよね。すみません」
どこか、さきさんは楽しそうだった。愉快な映画を見た後の子どものように闊達に、弾んだ声が奇妙な事を言った。
「でも、その中に天女様がいたら、私はもう一度神様に会えるんだと思って、その姿が見えたら彫り物より確実に、導きが見えるのかも知れないって思うんです」
無邪気に笑う彼女に私はなんと返せばいいのか分からなかった。
「……『神は死んだ』などと言った人間もいますが、さきさんの神様は死ぬ事もないんですね」
どうしてそんな言葉が出てきたのか、失礼に過ぎる事を言った。
「すべての人の神様は死にませんよ。だって」
月明かりに照らされる彼女の顔はまるで無垢な子どものようだった。
「神様が死んでいるのに、人間が生きていたら、滑稽すぎるじゃありませんか」
その言葉は、私の中のさきさんを一つの偶像に昇華した。
人は神を通して人を見ている。さきさんにとって、神なくして存在しない物が人間であるらしい。その事を知れたのは、私のような輩にとってこそ救いに違いなかった。卑しすぎる欲望は、無信心な私にさえ軽蔑すべき物と思えて、寧ろその欲望の対象となる人に神聖を見出していた。一人の人間が偶像になるのだろうか、それともある種の偶像を人に抱かなければ人は生きていけないのか。人間に下劣な欲望を向ける事があるにせよ、人は偶像にすら下卑た欲望を向けなければ形を保てないのか。考える事は細胞の神秘よりも不可解な人間の構造だった。
「またこれからも、たまに話を聞いてください」
「私でよければ、いつでも」
そんな密やかな盟約が交わされ、私はさきさんが用意していた客間に通された。
彼女が語る天女よりもなお天女じみた女性との交流は、今も続いている。
火光天女 風座琴文 @ichinojihajime
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