第3話

 陽介はその大木の下でしばらく佇んだ。手のひらに残る温かさと、心に蘇った記憶が妙に心地よく、胸の中にあった重苦しさが少しだけ薄れた気がする。雪乃は何も言わず、彼の少し後ろで静かに待っていた。


「雪乃さん、この木に触れると、どうしてあんなに色々なことを思い出すんですか?」陽介が振り返りながら尋ねると、雪乃は優しく微笑んだ。


「この森はね、私たちが忘れてしまった大事なものを映し出す場所なの。たぶん、陽介さんがこの木に触れて見たのは、あなた自身がずっと大切にしていたもの。そして…都会の忙しさの中で、無理に捨ててきたもの。」


「捨ててきた…」陽介はその言葉を反芻した。確かに、広告代理店の仕事に追われる日々の中で、目の前のタスクをこなすことに必死になりすぎて、自分の本当の気持ちや小さな幸せを考える余裕がなかった。


「でも、そう簡単に手に戻せるものじゃないですよね?」陽介は少し苦笑しながら言った。

「そうね。」雪乃は軽くうなずいた。「ただ、この森では無理に取り戻そうとしなくていいの。ただここにいて、心を委ねるだけで少しずつ整っていくから。」


 陽介はその言葉を聞き、少し肩の力が抜けた気がした。自分を変えなきゃとか、もっと何かを成し遂げなきゃと思い詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ和らいだのだ。


 その日の夕方、陽介は雪乃の小屋で暖を取りながら、薪ストーブの炎をぼんやりと眺めていた。雪乃は台所で何かを準備しているらしく、優しい匂いが漂ってくる。


「こんな暮らし、憧れますね。」陽介は小声で呟いたが、それが思った以上にはっきりと部屋に響いた。


 雪乃が笑いながら振り返った。「そう思う? でも、ここに来たばかりの頃は私も戸惑ったわ。あまりに静かすぎて、不安になったこともあったの。」

「不安に?」

「ええ。都会では何かしら音や人の動きがあって、それが安心感を与えてくれるでしょう? でもここはそれがない。自分と向き合わざるを得ない場所だから、最初は怖かった。」


 陽介はその言葉に少し驚いた。雪乃は穏やかで落ち着いた人だと感じていたが、彼女もまた葛藤を抱えながらこの森での生活を築いてきたのだ。


「でも、その静けさが今は一番の救いになっている。」雪乃はそう言って、陽介の方を見た。「あなたも、きっとここでその意味がわかると思う。」


 その夜、陽介は雪乃に貸してもらった布団に入り、窓から見える満天の星空を眺めていた。都会では決して見られないような数の星たちが、静かに光を放っている。


「自分と向き合う、か…」彼は雪乃の言葉を思い出し、ゆっくりと目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、不思議な感覚が彼を包み込んだ。遠くから聞こえてくる鈴の音。雪乃が最初に言っていた「本当の音」が、少しだけ近づいてきたような気がした。


 翌朝、目を覚ますと、雪乃の姿はどこにもなかった。小屋の中には暖かいお茶と手紙が残されていた。


 手紙には、こう書かれていた。

「陽介さん、この森で見つけた感覚を、どうか心に留めていてください。そして、あなたが本当に望む道を選ぶ力になりますように。

 雪乃」


 陽介は手紙を握りしめ、森の中へと一歩を踏み出した。都会に戻る日が近づいている。だが、この森で得たものを忘れずに、自分自身と向き合いながら歩んでいける――そんな確信が彼の胸に芽生えていた。


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雪音の森 @kyarintou

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