第2話
陽介は雪乃に促され、小屋の中へと入った。扉を開けると、薪ストーブの柔らかな熱が出迎えた。木の香りが漂う簡素な室内には、雪の中の冷えた身体をじんわりと温めるような温もりがあった。小さな机と椅子、ストーブの上で沸騰する鉄瓶からは、ほのかにお茶の香りが立ち上っている。
「どうぞ、座って。お茶を淹れるから。」
雪乃は手際よく茶葉を準備し、小さな湯呑みに熱いお茶を注いだ。陽介はそれを受け取り、両手で包むように持つ。その温かさに、ほっと息が漏れた。
「ここで暮らしてるんですか?」陽介が尋ねると、雪乃はうなずいた。
「ええ、もう何年になるのかしら。都会での生活に疲れてしまってね。ここなら静かに、自分と向き合える時間があるから。」
その言葉に、陽介は胸がざわついた。彼もまた、心の奥で同じような逃避を求めていたからだ。しかし、都会の生活を投げ出す勇気など持てなかった。
「あなたも、何かから逃げてきたの?」雪乃はまっすぐ陽介を見つめた。その目は優しくもあり、鋭くもあった。
「…そうかもしれません。」陽介は湯呑みを見つめながらぽつりと言った。
雪乃は微笑みながら立ち上がり、窓の外を指さした。
「この森に少し秘密があるの。明日の朝、案内するわ。きっと、あなたの心に必要なものが見つかる。」
翌朝、陽介は雪乃と共に森の奥へと進んでいた。夜明けの光が雪に反射し、全てが金色に輝いて見える。その美しさに、陽介は息を呑んだ。
「どうしてこんなに静かなんでしょう?」陽介が呟くと、雪乃は歩みを止めて振り返った。
「この森はね、心が静かにならないと本当の音が聞こえないの。」
「本当の音…?」陽介が問い返すと、雪乃は微笑んだ。
「そうよ。木々のささやき、雪の舞い落ちる音、鳥の羽ばたき。全部、私たちが騒がしい心でいると気づけないものなの。」
しばらく歩くと、大きな古木が立つ広場に出た。その木は、幹にいくつもの傷が刻まれ、まるで長い時を見守ってきた長老のようだった。
「この木に触れてみて。」雪乃が促すと、陽介はそっと手を伸ばした。
瞬間、温かい感覚が手のひらを満たした。そして、不思議なことに、陽介の心に幼い頃の記憶が浮かび上がってきた。祖父母の家の縁側で遊んだ日々、風にそよぐ田んぼの匂い、あの頃感じた「何も心配がない」感覚――それらが鮮明に蘇ったのだ。
「どうして…」陽介は涙がこぼれるのを感じながら呟いた。
「この木はね、あなたの心が忘れてしまったものを思い出させてくれるの。」雪乃の声が、柔らかく響いた。
陽介は気づいた。この森はただの自然ではなく、人が自分自身と向き合うための特別な場所だった。そして雪乃という存在もまた、この森の一部であり、迷い込んだ者を導く役割を担っているのだろうと。
彼の中で、何かが少しずつ解けていくのを感じた。
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