第3話  影を売る男



一、永遠の正午


私が影を失くしたのは、紙の本が消えた日だった。


政府は「デジタル完全移行」と呼んだ。紙面に落ちる影が、人々の思考を曇らせるというのが、その理由だった。すべての書物がデータ化され、影のような余白は削除された。完璧な知識だけが、スクリーンに映し出される。


そして気がつけば、人々の影も消えていた。


永遠の正午の光に照らされた街で、私は男を待っていた。噂によれば、彼は影を商う。政府に没収された影を、闇市場で売買する商人だという。


待ち合わせ場所は、廃棄された中央図書館。かつて「記憶の館」と呼ばれた場所だ。電子化の波に呑まれ、紙の本は処分され、建物だけが空っぽの殻として残されている。影のない本棚が、白い柱のように立ち並ぶ。


天井のステンドグラスを透過した光が、虹色の粒子となって降り注ぐ。それは美しく、そして残酷だった。完璧な光は、影の存在を否定する。



二、取引


「お待たせしました」


声の主は、妙に平面的な姿をしていた。まるで古い写真を切り抜いたような輪郭。それもそのはず、彼には影がなかった。


「影を売る男」は、自身の影すら持っていないのだ。


「あなたの影は、いくらでしょう」


男は不思議な笑みを浮かべて言った。その表情は、かつて私が図書館で見た、バベルの塔の絵画に描かれた神のような曖昧さを帯びていた。


内ポケットから取り出した布包みには、漆黒の液体の入った小瓶が収められていた。液体は、まるで生きているかのように蠢いている。


「これは、誰かの影から採取した記憶です。一滴たりとも、無駄にはできない。記憶とは影のようなもの。一度失ったら、同じものは二度と手に入らないのですから」


私は震える手で小瓶を受け取った。ガラスの向こうで、黒い波が打ち寄せては引いていく。


「これを飲むと、あなたの中に影が生まれます。でも、それは誰かの影の記憶。誰かの不完全さの痕跡です」


男の言葉に、私は立ち止まった。政府は「影の取引」を重罪としている。なぜなら、影とは不完全さの証。そして不完全さは、この管理された世界における最大の敵だから。



三、街の記憶


街には、影を求める人々が溢れていた。完璧な幸福を約束された世界で、彼らは何かが足りないことに気づき始めている。永遠の正午の光は、すべての影を消し去った。思い出も、後悔も、迷いも、すべて。


「ご注意ください」男は言った。「影を持つということは、孤独を知るということです。光だけの世界で、あなただけが影を持つこと。それは、ある意味で呪いかもしれない」


私は小瓶を胸に抱きしめた。ガラスの冷たさが、心臓の鼓動を刻む。その音は、かつて図書館で聞いた本をめくる音に似ていた。


「それでもいいんです。私の中に何かが欠けていることは、分かっていました。この平坦な幸福の中で、確実に何かが、失われていた」


男は静かに頷いた。彼の輪郭が、古い写真のようにさらにぼやける。


「では、お代はこちらに」


男が差し出したのは、小さな鏡だった。それは、図書館の閉鎖日に取り外された最後の鏡に似ていた。


「あなたの"今"を、この鏡に映してください。永遠の正午の、影のない完璧な幸福の一瞬を」


私が鏡を覗き込むと、そこには確かに自分の姿があった。影一つない、完璧な姿。それは、もう二度と取り戻せない記憶となるのだ。



四、影の声


「取引成立です」


男の言葉と共に、鏡の中の私が薄れていく。そして初めて、自分の影を見た。それは何とも歪な形で、完璧とはかけ離れていた。でも、確かにそこにあった。


その夜、私は影に話しかけた。影は答えなかった。ただ、かすかに震えているように見えた。まるで、誰かの記憶が、私の中で泣いているかのように。


「この影は、誰のものだったのでしょう」


答えはなかったが、影は図書館の形をしていた。そこには無数の本の影が重なり、無数の記憶が眠っているように見えた。


翌朝、街角で影を売る男の姿を見かけた者はいない。ただ、彼の立っていた場所に、一枚の影が残されていた。それは、誰のものでもない、意志を持った影だった。


よく見ると、それは本を読む人の影のようにも見えた。


永遠の正午の光は、今も変わらずすべてを平等に照らし続ける。ただし、私の中で、誰かの影が、確かに生きている。それは不完全で、歪で、時に重たい存在。


でも、その重さこそが、私が生きている証なのかもしれない。


その重さは、失われた図書館の重さでもあった。


後になって気がついた。影を売る男の姿が平面的だったのは、彼が古い本の中の挿絵から抜け出してきた存在だったからかもしれない。彼には影がなかった。なぜなら彼は、すべての影を集める者。そして、その影たちを、新しい持ち主に託す者。


彼もまた、永遠の正午の世界で、失われた物語を探す読者の一人だったのだろうか。


私は今、自分の影に本を読み聞かせている。影は少しずつ、物語の形を取り始めている。


(了)

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『永遠の正午』記憶と影が永遠に消える ソコニ @mi33x

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