第2話 最後の記憶収集人
死を前にした記憶は、すべて色を持つ。
私の母の味噌汁は、夜明けの空のように藤色だった。祖母の饅頭は月光を練り込んだような乳白色。庭で摘んだイチゴは夕焼けの残り火のような紅。記憶は色彩を纏って、私の中で波打っている。
私の仕事は、死にゆく人々の最期の記憶を収集することだ。
永遠の正午——政府公認の安楽死プログラムによって、人々は50歳で静かに命を終える。その直前、脳裏に浮かぶ記憶の断片を言葉に置き換えるのが、記憶収集人である私たちの役目だ。至福促進剤が普及する前の、本物の食事の記憶たち。それは時として鮮やかすぎて、私の網膜を焼くように感じる。
「完璧な記憶の遮断」——これが、私たちに課せられた最も重要な技術だ。亡くなった人の脳波から最期の記憶を読み取る時、決して自身の感情を混ぜてはいけない。そう教えられ、そう信じてきた。
だが今、その信念が揺らいでいる。
藤原美咲の病室に入った時、私は既に動揺を隠せなかった。
「あら、あなたもこの匂いが分かるの?」
彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。病室に漂うのは、確かに土筆の香り。春の記憶。
「祖父が作っていた天ぷらの匂い、でしょう?」
私は息を呑んだ。記憶収集人は、対象者の記憶に影響を与えてはいけない。それは絶対の掟だ。だが、彼女の言葉は私の防壁を溶かしていく。
「ええ、土筆の天ぷらは、祖父の代からの伝統料理だったの」
藤原美咲。49歳11ヶ月。老舗料理店の跡取り。父親は伝統的料理の保存運動に関与した疑いあり——そう、モニターには映し出されていた。だが、彼女の記憶は、そんな無機質な情報をはるかに超えて、生きていた。
「私たちの店では、春になると必ず土筆を採りに行ったものです。祖父は言っていました。『本物の味は、土の中にある』って」
彼女の言葉に、私は自分の掟を破ってしまった。
「その、土筆は、どこで採れたんですか?」
「ああ、記憶図書館の真下の土地です」
私の心臓が、一拍止まった。
地下深く広がる記憶図書館。白い廊下、緑色に光る認証スキャナー、音もなく開く扉。そこには数十万の記憶が眠っている——はずだった。
だが実は、記憶は眠ってなどいなかった。
図書館の地下で、記憶は密かに発芽し、根を張り、新しい命となって地上に顔を出そうとしていた。永遠の正午の光が届かない暗闇で、不完全な記憶たちは確かに生きていた。
藤原美咲は、それを知っていた。
私は震える手で特殊紙を取り出した。彼女の記憶を記録しなければならない。だが、何もかもが崩れ始めている。完璧な遮断などもはや不可能だ。私の記憶と彼女の記憶が、まるで土筆の根のように絡み合って、新しい何かを形作ろうとしている。
来月、私も50歳を迎える。その時、誰が私の記憶を収集するのだろう。そして、その記憶は何を育むのだろう。
保管室に向かう途中、書架に並ぶ無数の記憶の束が、まるで発芽を待つ種子のように、静かに、しかし確かな意志を持って瞬いていた。
「記憶は、人間が人間である証」
10年前、記憶収集人になるための最終試験で、私はそう答えた。今なら、その言葉の本当の意味が分かる。
記憶は、決して完璧ではない。だからこそ、新しい命を育む土となれる。私たちの不完全な記憶こそが、完璧すぎる正午の世界に、確かな影を落とすことができるのだ。
そして今、私の中で、ある記憶が色を持ち始めている。
それは、土の色をしていた。
(了)
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