『永遠の正午』記憶と影が永遠に消える

ソコニ

第1話 記憶の灯火

一、光の遺伝子


五十歳の死を前に、人は何を見るのだろう。


私の記憶は、母から娘へと受け継がれる光のように降り注ぐ。祖母の味噌汁の湯気は、記憶より古い朝もやとなって立ち込める。三日月のように丸い背中が、薄明かりの中で揺れている。木製の杓文字が奏でる音は、私たちが最初に覚えた命の響き。それは胎内で聞いた心音なのかもしれない。


母の畑のトマトは、夕陽を結晶化したものだった。茎を折る時の香りが、今でも私の指先で目覚めては眠る。父の炊き込みご飯の匂いは、古びた団地の廊下を彷徨い、誰かの記憶の中で永遠の正午を迎えているのかもしれない。


家族で囲む食卓には、意味などなかった。ただそこに在ることが、儀式だった。人が人として存在することを確かめ合う、かけがえのない時間。まだ私たちが、自分の命を所有していた頃の記憶。


2045年、その儀式は静かに幕を下ろした。政府認可の完全栄養食に置き換えられて久しい。今や私は美食評論家として、残された5%の「本物の食事」を追い求めている。この贅沢な特権は、支配者たちが富裕層に与えた慈悲か、あるいは共犯者としての印か。



二、記憶の継承者


「土には、記憶がある」


老人はそう言って、一握りの土を掌で温めていた。その手のしわは、大地そのもののように深い。畑の端に立つ彼の影は、夕暮れに溶けようとしている。


「死は、時として完璧な幸福の形をとって訪れる」


その言葉に、私は視線を上げた。老人の瞳に、消えかけた何かが揺らめいている。


「都市の人々は、真実を知らない。政府が配給する食品に混ぜられた『至福促進剤』のことを。それは魂に永遠の正午をもたらす。影のない、完璧な幸福。だがそれは、五十年で生命を燃え尽きさせる」


老人は月光のように白い野菜が実る畑を指差した。


「政府の高官たちは、代々この島の作物を食べて生きている。112歳の首相は、毎朝、この島の野菜で作った味噌汁を啜る。私たちの野菜には、記憶を守る力がある。それは苦しみも、喜びも、すべての影を受け入れる力だ」


私は黙って頷いた。完璧な幸福より、不完全な思い出を選ぶ者たちが、ここで静かに生きている。



三、光の方程式


百階建ての最上階から、夜の街が無限の万華鏡のように輝いている。それは人工の星座だ。無数の明かりは、深夜になっても瞬きひとつしない。オフィスの窓からは、永遠の正午を生きる人々の影が見える。彼らは気づいていない。その光が、五十年で燃え尽きる命の灯火だということに。


誰かが言った。現代人は蝋燭の両端で火を灯して生きていると。今、それは残酷な真実となって目の前で輝いている。完璧な幸福の光は、影を持たない。影を失った魂に、果たして記憶は宿るのだろうか。


私たちフーディストの多くは、この真実を知っている。贅沢な食事を追い求める私たちは、最後の証人なのかもしれない。けれど皆、沈黙を守ってきた。己の特権を守るため、あるいは救済の不可能さを知るがゆえに。


手の中の種が、月明かりを吸収して輝く。この小さな希望の断片には、人々を"永遠の正午"から解放する力が宿っている。それは不完全な影と記憶を取り戻す鍵。



四、記憶の回帰


「食品管理局です」


扉の向こうで、無機質な声が響く。


私は種を握りしめたまま、窓の外を見た。明かりの海の中に、小さな闇を見つける。それは誰かの秘密の庭なのかもしれない。あるいは、記憶を取り戻すための祈りの畑。


母から娘へと受け継がれる光のように、記憶は次世代へと続いていく。完璧な幸福の中で朽ちていく魂にも、きっと何かが残っているはずだ。影を持たない光の中でも、遺伝子は古い記憶を守っているのかもしれない。


私は静かに窓を開けた。夜風が、土の香りを運んでくる。それは、私たちの最も古い記憶の香り。


胎内で聞いた心音のように、確かな何かが、私の掌の中で鼓動を打っている。


(了)

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