ホテルニューさわにし:雪

野村絽麻子

卵の好きなお客様

 ホテルニューさわにしは小高い丘の上に建っている。だからこそのオーシャンビューが得られる訳なのだけど、その代償として駅から徒歩二十分かかり、さらにはその道が上り坂になる。

 山間から流れている小川がある。これはホテルニューさわにしと駅前の商店街を繋ぐ道をホテルの直前で横切っているもので、無論、小さな橋がかけてある。腐食が進んだ欄干から橋の名前は読めず、従業員たちはただ単に「橋」と呼び習わしている。もちろん、ホテルニューさわにしの案内地図にも「橋」の表記で書かれている。


 お客様のチェックアウトがひとしきり済んだお昼前、私はその橋の上をぷらぷらと歩いていた。園田先輩からおつかいを頼まれたからだ。


「なんや朝食バイキングでやたら出汁巻き卵ばっか召し上がるお客様がおってなぁ。卵、切れてしもうたらしいねん」

「えっ!?」

「料理長がな、半べそで『魂尽きそう』言うとったわ」

「半べそ……」


 代替わりしたばかりの若き料理長の、気弱な笑顔を思い出す。それと同じくらいに、半べその顔を思い描くのは容易な事だった。

 欄干にもたれて川底を覗けば、浅い水深の下に、小石や水草がたゆたうのが見える。よくよく目を凝らせば魚の影らしきものも確認できて、こんな場所にも生態系が、と感慨深く眺める。

 ふと、頬を冷たい何かが掠めていく。

 見上げればひらひらと舞い落ちるそれは雪の一片で、思わず首を竦めた。積もるのだろうか。テレビの天気予報では何と言っていたか。とりあえず、早く用事を済ませた方が良さそうだ。

 橋を渡って少し歩くとひなびた商店街に出る。需要のよくわからない洋品店に金物屋、新刊雑誌が外気に晒された本屋と新聞の配達所、コインランドリーとジュースコーナーが合わさった古めかしい店舗があり、隙間を縫うように土産物屋が立ち並ぶ。軒先に置かれた蒸し器から上がる湯気。きっとあの中では温泉まんじゅうが食べ頃になっている事だろう。おつかいの帰りにあれを買っていこうか。そんなことを考えながら、ついつい、のんびりと足を運ぶ。


 目的地の大吉だいきち卵店たまごてんは店先に誰の姿もない。土間敷の店内には小さなテーブルがあって、その上には湯呑みが、横のロッキングチェアには膝掛けが、それぞれ持ち主の不在を告げている。


「すみませーん」


 カラカラと店のガラス戸を引いて声をかける。湯呑みの隣にメモ書きが置いてあり、店主の柔らかな筆跡で、数時間留守にする旨と、入り用の場合はメモを残せば冷蔵庫から持ち出して良いことが記されていた。なんと平和な町。私は有り難く卵を頂戴して行くことにする。

 ところが店内の冷蔵庫にある卵の在庫は料理長の要望を叶える数には少しばかり足りない。店の裏手には養鶏舎がある。もしかしたら、そちらに在庫があるかも知れない。うまくすれば店主もそこにいるのでは。

 そう思い立つとその考えが正しいような気がして、私は養鶏舎の様子を覗いてみることにした。


 裏口の戸を引くとすぐに、雑然とした、如何にも裏庭と言う感じのする空間がある。放置されたジョウロ、生き生きと茂る南天、葉の落ちた柿の木、濃いピンク色の花をつけた椿の生垣。その間を白く透き通った雪の欠片が静かに舞い続けている。

「すみませーん」と遠慮がちに声をかけつつ歩いていくと目の前にビニールハウスが現れた。中からはバサバサと鶏の羽音がする。


「すみません、ホテルニューさわにしの者ですが……」


 ビニールハウスの戸を開けてみれば一面の白。雪かと思えば大量の白い羽で、ふわりふわりと舞うその景色の中心には人影がある。

 白を基調とした美しい着物姿の、抜けるように白い肌をしたご婦人だった。銀糸を散りばめたように煌めく帯には可愛らしい小鳥の帯留をあわせてある。なんてチャーミングだろう。


「あら、めずらし。お客様が来てはる」


 彼女はこちらに目線をくれてから、驚いたように一度目を見開き、それから、とても綺麗に微笑んだ。その顔がとても艶っぽくて私はしばし呆然としてしまう。それにしたって話に聞く限りでは大吉卵店の店主は白髪の老女。たぶん、違う人のはずだ。


「なぁんや、そないな顔して。此処へは用事があって来はったんやろ?」


 そうだった。ともかく卵を手に入れなければ。私は開いたままの口を一旦閉じると、そのご婦人に相談してみることにする。


「あの、実はですね」


 ひとしきり私の話を興味深げに聞いてくれた後、ご婦人は「わかった。卵があればええんやな?」と深く頷く。


「卵くらいなら私にも何とかなるわ」


 卵屋さんが「卵くらい」なら「私にも」「何とか」の言葉ひとつひとつに頭を捻りたくなるのを抑えて、私は素直にお礼を言う。とにかくこれで、あの気弱な料理長がこれ以上に困った顔をしなくて済む。

 彼女から貰った卵は他のものと少しだけ違っていて、表面がわずかにオーロラのような光を帯びている。鶏の卵ではないのだろうか。


「あの、これって何の……」


 言葉の途中で顔を上げると不思議なことに、彼女の姿も、床を覆っていた雪のように白い羽も、すべて姿を消していたのだった。


 *


「なぁ、アミちゃん」

「はい、園田先輩」


 先輩と私は朝食バイキングの行われているラウンジの隅に立っている。そこでは今まさに、話題のお客様が朝ごはんを召し上がっていらっしゃるのだけど……。


「あの卵、どこで買うてきたの?」

「いつもの大吉卵店さんです」

「……それって、ほんまに?」


 例のオーロラ色に輝く卵は「殻が美しい」という理由で温泉卵になった。

 それをたいそうお気に召したのが、昨日の、出汁巻き卵を平らげて料理長を半べその憂き目に遭わせたお客様だ。

 籠に盛られた温泉卵を食べ尽くす勢いでテーブルとバイキングを往復していたお客様は、何度目かの往復の果てに、とうとう満足したかのように立ち上がった。その顔には晴れやかな微笑みが、そして背中には淡く透き通った大きな翼が広がっている。あの翼、少なくともテーブルに着かれる際には無かったはず……。


「ありがとうございました」


 浮き立つような足取りで先輩と私の前を通過するお客様には、どうやら大変ご満足頂けたようだ。先輩と私はお腹の前で組み合わせた両手を固定したまま、決められた角度で、決められた速度のお辞儀をする。


「……さぁて、送迎車にチェーン巻いてくるわ。この雪、積もるで」


 ラウンジを後にする先輩の背中を見送ってから、私はお食事を終えたお客様のテーブルを片付けに向かう。窓の外には大ぶりな牡丹雪がハラハラと舞い続けていて、それはやっぱり、白い羽とそっくり同じように見えるのだった。

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