4.Black Sword
朝の冷たい空気に包まれた広場は、まだ街の喧騒が訪れる前の静寂を湛えていた。
遠くで鳥の鳴き声が響き、微かに聞こえるのは石畳を掃く箒の音と、パン屋から漂ってくる焼きたての香り。それ以外はほとんど無音と言っていい。
広場の中央にある古びた噴水は、朝霧の中にぼんやりと浮かび上がっている。石像の表面には薄い苔がまとわりつき、長い年月の流れを思わせた。周囲の商家は木製の扉を固く閉ざしたまま、窓には夜通し灯されていた油ランプがわずかな光を揺らしている。まるで暗闇に挑む最後の炎が、静かに朝を迎え入れているかのようだった。
噴水の近く、朝霧の中にアマレティ、ヌガート、パナプの三人が立っていた。広場には相変わらず静寂が満ち、時計台の鐘が鳴る気配もない。アマレティは苛立たしげに腕を組み、視線を時計台の時刻に向ける。既に集合時間を三十分も過ぎている。
「……あの二人はなにをしてるの。」
アマレティの冷たく、且つ少し震えた声が漏れる。それを聞いたヌガートは引きつった笑顔を作り、苦し紛れに言葉を紡ぐ。
「いやぁ、あの二人のことだからな。もうちょっと待ってみないか?」
その提案に、アマレティは無言で鋭い視線を返す。目だけで「もう限界よ」と告げられた気がして、ヌガートは肩をすくめる。パナプは寒さに耐えかねて両腕で自分の体をこすりながら、白い息を吐く。
「もしかして、ギルドで寝てたりして。」
「それだったらギルドのスタッフが起こすだろ?悪魔の口に行く奴なんて限られてるんだから。」
ヌガートがため息交じりに返す。
「もういい!」
アマレティが声をあげる。目にはしびれを切らした苛立ちが見て取れる。「もともと胡散臭いと思っていた。我々だけで向かおう。」
そう言うと、地面に置いていた荷物を肩に掛け、一歩踏み出す。その動きにはためらいの色はなく、完全に決意しているようだ。
「ちょちょ!」
ヌガートが慌ててその腕を掴む。
「このままだと契約違反で報酬金が減っちまう!一旦ギルドへ行こう。」
「そうね、二人が来ないなら来ないで、契約を変更してもらわないと」
二人の声にアマレティは足を止める。
「ふん。仕方ないな。」
アマレティは小さく舌打ちしながら、ためらう様子もなく足を進める。
三人がギルドへたどり着く。早朝の冷たい空気の中、ギルド内にはすでにちらほらと冒険者たちの姿が見える。掲示板の前で眠そうな目をこすりながら依頼内容を確認する者、受付窓口で書類を手にしている者。その光景には、静かな活気が漂っていた。
「羊と三本線はいないようだな…」
ヌガートがギルド内を見渡しながら、少し寂しそうな声を漏らす。どこか期待していた気配が見え隠れしている。
一方で、アマレティは迷うことなくギルドの窓口へと向かう。足音一つにさえ苛立ちが感じられる。
「おはようございます、アマレティ様。本日はどうなさいましたか?」
受付嬢が椅子から立ち上がり、端正な礼を見せた。整えられた髪と眼鏡が、きちんとした仕事ぶりを物語る。
「契約の変更に来た。昨日依頼した悪魔の口の件だが、人数を変更してほしい。」
アマレティは無駄のない言葉で用件を伝えた。その声には冷静さと確固たる意思が滲んでいる。
しかし、受付嬢は一瞬困惑したように眉を寄せた。
「その件でしたら、昨晩も契約が変更されております。もうすでに作戦開始になっておりますので、新しく契約をなさいますか?」
「えっ…?」
予想外の返答にアマレティの動きが一瞬止まる。ヌガートとパナプも同様に困惑の色を浮かべた。
パナプが前のめりになり、窓口の受付嬢に問いかける。
「ど、どういうこと?作戦開始になってるなんて…」
受付嬢は微かに首を傾げ、淡々と説明を続けた。
「はい。例の羊様と三本線様が、二人で向かわれております。契約主は羊様ですので、契約変更は可能ですよ?」
その言葉に三人は完全に硬直した。受付嬢は終始涼しい表情を崩さず、まるで「こちらに落ち度はありません」という明確な意思を体現しているかのようだった。
「おいおい、あいつら、俺たちを置いて、勝手に二人で行ったってのかよ!?あの悪魔の口に!?死ぬぞ!?」
ヌガートの怒声がギルド内に響き渡る。
「おい!なんで止めなかったんだよ!スフレ!お前もギルドの人間なら悪魔の口のヤバさは知ってんだろ!?」
彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。焦りと苛立ちがその全身から滲み出ていた。しかし、スフレは表情一つ変えることなく、静かにヌガートを見つめていた。その澄んだ瞳には微かな冷たささえ漂う。
「私どもはあくまで受付嬢ですので。」
スフレの声は静かで澄んでいたが、その言葉の一つ一つに揺るぎない芯が込められている。彼女はゆっくりと胸を張り、淡々とした調子で続けた。
「それに、ここをどこだとお思いですか?」
ヌガートはその言葉に一瞬口を噤む。スフレはその隙を逃さず、さらに言葉を重ねる。
「ここは天下の冒険者ギルド、ホブズ・カーンです。ここで契約している者は、たとえ子供であろうと、自分の命は自分で守る。それがこの場所の掟であり、美学です。」
言葉を切りながら、スフレは周囲に視線を巡らせた。ギルド内の誰もが彼女の言葉に耳を傾けている。
「今から死地に向かう者をお止めするなど言語道断。たとえそれが自殺行為であっても、我々はただ帰ってくるのを待つだけでございます。」
スフレの言葉にギルド内の空気が一瞬で張り詰めた。カウンターの向こうで立つ彼女の姿が、どこか神聖でさえあるように見える。その場にいた全員が、この場所が持つ厳しさと冷徹さを改めて思い知らされた。
「それに、あのお二人が簡単に死ぬとは思えません。」
スフレは微笑みを添えながら、最後の一言を付け加えた。その笑顔は確信に満ちていた。
その瞬間――
ドガンッ!!
ギルドの扉が豪快な音を立てて開く。全員の視線が一斉に入口へ向かう。そこには、煙草を燻らせながら例の二人が立っていた。羊と三本線である。
「水ってさ、異常な物質らしいで?知ってた?沸点が百度ってのがまず狂ってるらしいねん。」
三本線がいつもの調子で話し始める。
「なんなん?なんでその話を今すんの?黙ってくれへん?」
羊が顔をしかめながら応じるが、その声にはどこか気だるさが漂っている。
「水とほぼ同じ分子量のメタンは沸点はマイナス百六十二度やねんで?」
三本線が話を続けるが、羊は軽く手を振るだけで会話を切り捨てた。
「ちょっと黙れや。眠たいねん。徹夜やで?お前が今から行こうとか言いだすから。ほんまにだるい。眠すぎる。」
ギルド内の冒険者たちはその軽口の応酬に目を丸くしていた。二人の態度には異様なほどの余裕が漂っている。
「ええやんけ!酔いがさめてからやったら行く気も失せるんじゃ!それにこの刀、重たいし、きったないし、くっさいしよぉ!」
三本線がそう叫びながら、真っ黒な刀をアマレティに向かって放り投げた。
「おい!お前にやるわこれ!」
「こ、これは…!」
アマレティは反射的に刀を受け取った。その瞳が驚きで大きく見開かれる
その刀は、柄から鞘まで漆黒に仕上げられた剣聖ヤツハシの黒刀だった。長い間ダンジョン内に放置されていたせいで、汚れや傷が目立つ。それでもなお、刀自体が放つ存在感は失われていない。
「あ、あんたら…」
パナプは信じられないという表情で二人と刀を交互に見つめる。ヌガートは安堵の笑みを浮かべると、その場にへたり込んだ。
「なんや?ワシらがくたばったおもたんかい?アホか。」
三本線は煙草をくゆらせながら椅子にどっかり腰を下ろすと、机の上にダンジョン内で拾ったアイテムや財宝を豪快にぶちまけた。その中には希少な宝石や装飾品が混じっており、ギルド内の冒険者たちは目を輝かせながら群がった。
「えっと…。これが報告書やね。ちょっと眠くて、字が崩れてるんやけど。ごめんやで。」
羊が淡々と報告書を取り出し、受付に差し出した。スフレはそれを受け取ると、深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ。」
その満面の笑みには、わずかばかりの敬意が込められているようだった。
「おす。」
羊は簡素に答えると、また煙草に火をつけた。
たかが、ギルドの安酒如きで。 エルザのリンゴ @elza03
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