第3話  リアルタイム・ライフ



プッシュ通知が鳴った瞬間、木村陽一の心臓が跳ねた。


「おめでとうございます!あなたは『リアルタイム』ベータテスターに選ばれました」


文面は普通の当選通知なのに、添付されたロゴマークが妙に気になる。透明なガラスのような質感。その中で、デジタルな脈が打っているように見える。


陽一は深いため息をつきながら、スマートフォンを机の上に置いた。フリーランスのプログラマーとして、新しいアプリのテストに参加するのは珍しいことではない。けれど今回は違った。「リアルタイム」は、話題の企業・テックビヨンドが極秘で開発していた新世代SNS。テスターですら、抽選で選ばれた100人しかいないという。


通知の続きを読む。


「チュートリアルミーティングは明日午前10時、テックビヨンド本社にて。担当プロジェクトマネージャーの園田がご案内いたします」


画面の明かりが、狭いアパートの一室をぼんやりと照らしている。キッチンからは味噌汁の香りが漂ってくる。母の和子が作った夕飯だ。


「陽一、ご飯できたわよ」


和子の声に、陽一は慌ててスマートフォンをポケットに滑り込ませた。母には新しい仕事のことは言わないでおこう。どうせまた心配するだけだ。


「うん、今行く」


食卓に向かう途中、母の咳が聞こえた。最近増えている。病院に行くように言っても、いつも「大丈夫、大丈夫」と取り合わない。


翌朝、テックビヨンド本社。ガラスと鋼鉄で組み立てられたような近未来的なビルに、陽一は少し圧倒されていた。


「木村さん、ですね」


振り返ると、凛とした声の主が立っていた。スーツ姿の若い女性。名刺を差し出す手つきにも、無駄がない。


「園田美咲と申します。プロジェクトマネージャーを務めています」


二十代半ばといったところか。陽一より年下のはずなのに、圧倒的な存在感を放っている。


「では、さっそくアプリの説明に入らせていただきます」


会議室に通された陽一の前で、園田が説明を始める。


「『リアルタイム』は、ユーザーの行動と感情をリアルタイムで分析し、自動で投稿するSNSです。つまり、あなたが何を考え、何を感じているのか。それを言葉にせずとも、アプリが代わりに表現してくれる」


陽一は眉をひそめた。


「表情、声の抑揚、心拍数、体温変化。様々なバイタルデータを組み合わせることで、ユーザーの『本当の気持ち』を99.9%の精度で検知できます」


園田の瞳が、どこか異様に輝いているように見えた。


「もちろん、投稿前に確認・編集することも可能です。ただし...」


彼女は意味ありげに言葉を切った。


「編集は『正直スコア』に反映されます。つまり、あなたがどれだけ本心を隠しているかが、数値として表れるわけです」


説明を終えた園田は、陽一にスマートフォンを差し出した。


「早速インストールしてみましょうか」


インストール完了。画面が青白い光に包まれ、心拍のような波形が現れる。そして最初の投稿が、自動的に表示された。


「新しいアプリのテスト。不安と期待が入り混じる。母のことも気がかり」


陽一は息を飲んだ。確かに、今の自分の気持ちそのものだ。


「凄いでしょう?」園田が満足げに微笑む。「これがリアルタイムの力です」


その日の夕方。帰り道で幼なじみの田中と会った。彼は今やIT企業のCEOで、陽一とは違う世界の住人だ。


「おい、木村!」


声をかけられ、陽一は反射的にスマートフォンの画面を確認した。新しい投稿が表示されている。


「成功した幼なじみを見て、複雑な気持ちがよぎる」


慌てて投稿を削除しようとした時、田中がスマートフォンを覗き込んでいた。


「お?それ、リアルタイムじゃないか。俺も投資を検討してるんだ」


陽一は焦った。投稿は削除できたが、「正直スコア」が急激に下がっていく。


その夜、母の和子がまた激しく咳き込んでいた。心配になった陽一が様子を見に行くと、和子の手元にスマートフォンが。画面には見覚えのあるアプリが起動していた。


「母さん、それ...」


和子は悲しそうな顔で画面を見つめている。そこには息子の本音が、容赦なく表示されていた。


「母の介護に疲れている。でも、言い出せない」


翌日、園田から緊急の連絡が入る。


「重大な発表があります。会社まで来ていただけませんか」


テックビヨンドのオフィスは、いつもと様子が違った。セキュリティが厳重になり、社員たちの表情が硬い。


「実は、リアルタイムには隠された目的がありました」


園田の声が、会議室に冷たく響く。


「このアプリは、人々の『闇』を収集する実験なんです。そして集められたデータは...」


彼女の告白は、陽一の世界を大きく揺るがすものだった。





「集められたデータは、感情操作の実験に使用されています」


園田の言葉に、会議室の空気が凍りつく。


「感情操作?」


「はい。アプリが示す『本心』は、実は他者の感情を混ぜ合わせて作られたもの。あなたが見ている自分の本心は、他人の感情が投影された偽物かもしれない」


陽一は反射的にスマートフォンを取り出した。新しい投稿が表示されている。


「この告白に衝撃を受けている。しかし、どこかで予感していた」


「その投稿だって、本当にあなたの感情?それとも誰かの感情?もう区別がつかないでしょう?」


園田の声が妙に冷たい。


「なぜ、こんなことを?」


「人の感情は操作できる。それを証明するため。そして...」


その時、陽一のスマートフォンが激しく振動を始めた。画面には無数の投稿が流れ込んでくる。


『母親の病気の進行を、心のどこかで願っている』

『幼なじみの失敗を、密かに期待している』

『このアプリで、誰かを傷つけたかった』


「これは!」


「ユーザー全員の『集合的無意識』が、今、解き放たれています」


園田の声が響く中、陽一のスマートフォンに母からの着信が入った。


「お母さん?」


「陽一...あなたの本当の気持ち、全部見えてる。私のことも、あなたの苦しみも」


和子の声は、意外なほど穏やかだった。


「ごめん...」


「謝らないで。母さんだって、同じ。あなたに迷惑をかけたくなくて、病気のことを隠してた。でも、もう隠さない。施設に入ることにしたの」


「え?」


「このアプリのおかげで、お互いの本当の気持ちが分かった。皮肉ね」


その時、田中からもメッセージが届く。


「お前の投稿、全部見てた。正直、俺も同じような気持ちだった。見栄と嫉妬の毎日で...会って話さないか?」


街中では、スマートフォンを見つめる人々が立ち止まっている。驚き、怒り、そして...どこか安堵の表情を浮かべながら。


「皮肉なものです」


園田が窓の外を見つめながら言った。


「感情を操作しようとしたアプリが、逆に人々の本音を引き出してしまった」


「でも、なぜあなたが告白を?」


「私もこのシステムの犠牲者だから。完璧なキャリアウーマンを演じ続けて、本当の自分を見失いそうだった」


彼女の目に、初めて感情の色が宿る。


次の瞬間、全てのスマートフォンの画面が青白い光に包まれ、そして暗転した。「リアルタイム」は姿を消し、人々の「本心」の記録だけが、永遠の記憶として残された。


一週間後。陽一は介護施設の前に立っていた。もう「リアルタイム」はない。でも、伝えなければならない言葉はある。


「お母さん、話があるんです。今度は、アプリなしで」


和子の瞳が優しく微笑んだ。


窓の外では、雨が静かに降っていた。デジタルが暴いた本音は、今、人々の間でアナログな対話に変わりつつあった。


スマートフォンの画面に、最後の通知が点滅する。


「システムを終了します。全てのユーザーの皆様に、真実と向き合う勇気をありがとう」


【終】



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