第2話 『エコーチェンバー』



春風が吹く京都の街。青嶺大学3年生の村上翔太(21)は、ラーニングコモンズの窓際に陣取っていた。スターバックスのカップを片手に、もう一方の手でスマートフォンの画面を上下にスクロールする。環境社会学の水本教授の言葉が、まだ耳の中で反響していた。


「私たちは意識しないうちに、自分の意見と同じ声だけを聞くようになっている。それは、まるで部屋の中で自分の声だけが反響するエコーチェンバーのような空間なのです」


周囲では他の学生たちが談笑している。彼らは環境問題なんて気にも留めていないのだろうか。翔太は少し焦りを感じていた。大学3年にもなって、自分には社会を変えられるような情熱的な活動が何もない。このままでは、就活も上手くいかないかもしれない。


スマートフォンの画面に流れてきたのは、一つのニュース記事だった。


「関西最大級の水源、大手飲料メーカーによる買収計画が明らかに。地域住民から反対の声」


何気なくハッシュタグ「#水源を守れ」で検索してみる。すると、予想以上の投稿数に目を見張った。環境活動家や市民団体のアカウントが、次々と過激な主張を展開している。


特に目を引いたのは、「市民の声を聞け!」という団体のアカウント。フォロワー数は5万人を超え、投稿には数千の「いいね」が付いている。動画には、水源地の美しい景観や、そこに住む動物たちの姿が映し出されていた。


「これが失われるかもしれないのか...」


思わずフォローボタンを押す。すると、アルゴリズムが即座に反応。「おすすめ」として、同様の環境保護団体のアカウントが次々と表示されていく。


「この問題、大学生として声を上げるべきじゃないのかな...」


一週間後、青嶺大学経済学部の研究棟3階。ゼミ室での休憩時間、幼なじみの田中が翔太の隣に座る。


「おい翔太、最近SNSの投稿増えすぎじゃね?水源がどうとか、環境がどうとか。お前、急に活動家にでもなったの?」


田中の言葉には、からかいと心配が混ざっている。中学時代から一緒のバスケ部で、進路も同じ大学を選んだ親友だ。


「ああ、色々調べてるんだ」翔太は熱を帯びた声で説明を始める。「これってマジでやばい問題なんだよ。大企業が地域の水源を奪おうとしてる。しかも、地下水を大量に汲み上げて、生態系が破壊される可能性だってあるんだ」


スマートフォンを取り出し、保存していた記事や投稿を次々と見せる翔太。しかし、田中は眉をひそめた。


「いや、待てよ。確かに環境は大事だけど、この開発で工場ができれば、雇用も増えるんじゃないのか?この辺り、若者の流出が深刻な...」


「そんなの企業の言い訳だろ!」


思わず声を荒げる翔太に、ゼミ室の空気が凍りつく。机を挟んで向かい合う二人の間に、見えない壁が生まれたように感じた。


田中はため息をつき、肩をすくめる。「お前、最近ネットの見すぎじゃないか?」


その夜、翔太は青嶺大学の学生寮の自室で、スマートフォンの通知音に囲まれていた。


「翔太君の意見、本当に共感します」

「若い世代からの声、とても大切ですよね」

「大学生の立場から発信し続けてください」


いつの間にか、フォロワーは2000人を超えていた。投稿する度に届く「いいね」の通知が、小さな快感を伴う。最初は単なる環境問題への関心だったものが、今では翔太のアイデンティティの一部になりつつあった。


スマートフォンの画面に映る世界は、心地よいほど意見が一致している。アルゴリズムが、翔太の「見たい」情報だけを次々と表示していく。反対意見は「非表示」をタップするだけで、すぐに消えていく。


「翔太、最近様子が違うな」


ゼミの水本教授が声をかけてきたのは、公聴会の2日前のことだった。教授の研究室の窓からは、青嶺大学のシンボルである銀杏並木が見えている。


「以前の君は、どんな議論でも、まず相手の立場に立って考えようとしていた。でも最近は...」


教授は言葉を選ぶように間を置いた。


「君はSNSでどんな人たちとつながっている?」


「環境意識の高い人たちです。みんな地域のことを真剣に考えて...」


「それは素晴らしいことだ。でも、違う意見の人たちとは?」


その問いが、翔太の胸に刺さった。画面の中で「非表示」にしてきた声たち。自分とは違う意見として、聞く前から遮断してきた言葉たち。


公聴会が終わった後、翔太は自分のスマートフォンの画面を見つめていた。タイムラインには相変わらず同じ意見が流れている。しかし、会場で見た表情、聞いた声、感じた空気は、この小さな画面には収まりきらないものだった。


翔太は新しい投稿を書き始める:


「今日、公聴会で多くの方の声を聞きました。環境を守ることは大切です。でも、地域に生きる人々の声にも、もっと耳を傾ける必要があると感じました。これまで私は、自分の考えと異なる意見を避けてきたかもしれません...」


投稿ボタンに指がかかる。これまでなら「いいね」の数は確実に減るだろう。でも、今の翔太にはそれが正しい一歩に思えた。


教授の研究室の窓から見えた銀杏並木のように、人々の意見も、様々な枝を広げ、時には葛藤しながら、一つの空の下で共存している——。


数日後の青嶺大学。銀杏並木の下で翔太は新しいアカウントを開設していた。


プロフィールにはこう記した:

「環境問題について考えています。違う意見から、新しい視点を見つけたい。青嶺大学経済学部3年」


最初の投稿は、公聴会での経験をまとめた長文だった。環境保護の重要性と、地域経済の課題。相反するように見える二つの視点を、丁寧に書き記していく。


その投稿への反応は、これまでとは違っていた。


「初めて、この問題の複雑さを理解できました」

「私も地元で似たような経験があります」

「対話の場を作れないでしょうか」


新しいフォロワーの中には、様々な立場の人がいた。環境活動家、地域の商店主、大学教授、主婦、学生...。それぞれが、異なる視点を持ち寄っている。


田中が画面を覗き込んでくる。

「お前、変わったな」


「ああ」翔太は頷いた。「SNSって、意外と世界を狭くするんだよな。でも、使い方次第で、視野を広げることもできる」


画面の向こうで、様々な意見が交差していく。時には対立し、時には理解し合い、そして新しい対話が生まれていく。


それは、まるで青嶺大学の銀杏並木のように。異なる枝々が、時には重なり、時には離れながら、同じ空に向かって伸びているように。


スマートフォンの画面に、秋の空が映り込んでいた。

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