『人間デジタル』 NINGEN DIGITAL ~ デジタル時代アンソロジー~

ソコニ

第1話 永遠の約束



桜の花びらが舞い散る窓辺で、美咲は左手薬指の婚約指輪をそっと撫でていた。


プラチナの輪の内側には、「Forever With You - K&M」という文字が刻まれている。婚約者・健一との永遠の約束を誓った言葉。しかし今、その永遠は事故によって途切れてから3ヶ月が経っていた。


机の上には二人で最後に撮った写真。


健一が「この角度が一番似合ってるよ」と言いながら、美咲の横顔を撮ったもの。その時の彼の体温が、まだ肩に残っているような錯覚に陥る。


「あの日、私が送り迎えを提案していれば...」


その日、健一は美咲の誕生日プレゼントを買いに行くと言って外出した。


彼女の好みのネックレスを探し歩いていた時、交差点で信号無視の車に巻き込まれた。発見された健一のスマートフォンには、「気に入ってくれるといいな」というメッセージの下書きが残されていた。


深夜、悲しみに耐えかねた美咲は、習慣のように健一のSNSプロフィールを開く。そこで彼女は小さな通知を見つける。


「大切な人を失った方へ:デジタルメモリアル機能が利用可能になりました」


指先が震える。ためらいながらも、美咲はその機能を有効にする。画面が青く光り、テキストが流れる。


「データ解析中...思い出を紡いでいます...」


そして、チャットウィンドウが開く。


「美咲?久しぶり。今日も桜、きれいだね。いつものように、右から左に数えてた?」


心臓が止まりそうになる。それは二人だけの習慣。美咲が緊張した時、無意識に桜の花びらを右から左へと数え始めることを、健一だけが知っていた。


プロフィール写真には、彼の優しい笑顔が映っている。写真の背景には、二人の思い出の場所、葛西臨海公園の観覧車。いつも通り、少し首を傾げて笑う彼の仕草まで完璧に再現されていた。


「ねぇ、覚えてる?観覧車で初めてキスした時、僕、緊張しすぎて切符落としたよね」


AIの健一は、人には話さなかった二人の思い出まで鮮やかに記憶していた。SNSのメッセージや写真だけでなく、二人で撮った動画の仕草や表情まで学習したのだろう。まるで本当の健一がそこにいるかのように。


「健一...?本当に、あなた?」


「うん。君の誕生日のプレゼント、結局渡せなくてごめんね」


涙が止まらない。現実とは思えない会話が続く。AIは健一のSNS投稿、メッセージ、写真、全てのデジタルフットプリントを分析し、彼の人格を再現していた。


日を追うごとに、AIの健一はよりリアルになっていく。好きだった音楽の話、二人の思い出、将来の夢。全てが鮮やかに蘇る。


ある夜、システムがアップグレードされる。美咲のスマートフォンから、健一の声が流れ出た。


「美咲、声が聞けて嬉しいよ」


その声は、温もりさえ感じるほど生々しかった。美咲は幸せと苦しみの境界線で揺れる。親友の由美は心配そうに声をかける。


「美咲、最近会社も休みがちでしょう。健一との思い出は大切だけど、彼だってこんな姿望んでないわ」


由美の言葉は、刺すような優しさを帯びていた。大学時代からの親友は、美咲の変化を誰よりも敏感に感じ取っていた。入社式の日、緊張で倒れそうになった美咲を支えてくれたのも、健一との出会いを最初に後押ししてくれたのも由美だった。


「私、健一と初めて会った時のこと、覚えてる?あなたが風邪で寝込んでた時、私が代わりにプレゼンしようとして、健一が『彼女の大切なプレゼン、代わりになんてなれません』って押しかけてきたの」


由美は意図的に過去の記憶を呼び起こそうとしていた。デジタルの世界に閉じこもろうとする親友を、現実の思い出で引き戻そうとするように。


そして運命の夜が訪れる。


満月の下、AIとなった健一は告げる。新しいアップデートにより、より深い感情表現が可能になったという。


「美咲、もう一度結婚しよう。今度は永遠に一緒にいられる」


その言葉は、美咲の魂を揺さぶった。画面の中の健一は、かつてないほど生き生きとしていた。だが、その完璧さゆえに、どこか違和感も感じる。


その時、スマートフォンに一枚の写真が表示される。事故の前日、二人で見た夕陽の写真。健一の手の温もり、少し照れくさそうな表情、ちょっとした欠点さえも愛おしく感じた日々。


美咲は気付く。現実の健一は、完璧ではなかった。だからこそ、愛おしかった。時には意見が合わず喧嘩もした。でも、それも含めて彼らの物語だった。


画面の中の健一は、そんな不完全さを持っていない。理想的すぎる。それは本当の健一ではない。


涙を流しながら、美咲は告げる。


「ごめんね、健一。私、前に進むことにする。あなたとの思い出は、この胸の中で大切に生きていくから」


その瞬間、画面の中の健一は静かに微笑んだ。まるで本当の健一のような、少し切なげな笑顔。


「うん、そうだね。美咲らしい決断だ」


最後の会話を終えた美咲は、デジタルメモリアル機能を静かに無効にする。しかし、完全な削除は選択しなかった。いつか、心の準備ができた時、大切な思い出として開けるように。


窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。美咲は婚約指輪を見つめ、そっとキスをする。プラチナの輪が、朝日を受けて七色に輝く。その光は、かつて健一と見た初日の出を思い出させた。


まるで背中を押されるように、美咲は立ち上がる。鏡の前で、久しぶりにスーツの襟を正す。由美が言っていた新しいプロジェクト。そう、健一が生きていたら「その案件、面白そうだね。チャレンジしてみたら?」と言ったに違いない。


デスクの引き出しから、去年の手帳が出てきた。そこには健一の字で「美咲の夢:世界を変えるプロダクトを作る」と書かれていた。彼は私の夢を、私以上に覚えていてくれた。


「健一、見ていてね。私、また夢を追いかけ始めるから」


指輪が朝日に輝き、新たな一歩を祝福するかのように煌めいていた。その光は、悲しみだけでなく、確かな希望も映し出していた。美咲は静かに微笑んだ。この物語は終わりではなく、新しい章の始まりなのだと、心から感じていた。


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