十文字
相良平一
十文字
恐る恐る目を開いたが、何も見えなかった。
もしかして、まだ瞼を開けていないのではないか。そう思い、何度か瞬きを繰り返したが、網膜の桿体細胞はちっとも興奮しなかった。
おかしい、と思う。こんなにも一瞬で、視界が失われてしまうという事はあるのだろうか。
私は、先程までの事を思い返す。シアトル在住の友人が、突然ホームパーティーに誘ってきたので、彼が取ってくれたチケットでアメリカ行きの飛行機に乗ったはいいものの、その飛行機がハイジャックに遭ったのである。まさか、一生の内でそんな事に出くわすとは思ってもみなかったので、何かの企画かと思ったが、犯人たちの発砲音で、それが本物だと認識せざるを得なくなった。
犯人たちと、撃ち殺された死体が一つと、いつ自分が二つ目になるか分からない恐怖を抱えた人質たちを乗せて、鉄の翼の影は太平洋上にゆっくりと円を描いていた。何処に何の要求が為されていたかは、よく分からなかったが、それが通っていない事は明らかだった。
頻りに通路を行ったり来たりする犯人たちを横目に、もうどうなってもいいか、と投げ遣りな気分になってきた時、体が浮き上がる様な感覚が体を襲った。鋸で金属を切る様な悲鳴に驚き、目を瞑って、
現在に至る訳だ。
となると、私はもう死んでいるのであろうか。あと数秒もすれば、意味不明な断末魔とともに頽れるのであろうか。そもそも、私は今どういう姿勢なのだろうか。
首を傾げようとしたその時、突如光が差し、その眩しさに、私はまた反射的に瞼を閉じた。
恐る恐る、目を開くと、今度は白のみが映った。しかし、何もない、という訳ではない。
私は真っ白い部屋の中に佇んでいた。壁も天井も床も、全てが白い中で、私の体だけに色彩があった。
自らの体に傷がない事を確認し、私は一先ず安堵の溜息をついた。
「こんにちは。」
声がした。驚いて振り返ると、そこには人が立っていた。
いや、それを『人』と断じていいのか、私には分からない。確かに、姿形は人である。一対の腕と、一対の脚を持ち合わせてはいる。
だが、それは『人間』ではなかった。リアリティを追求した人形の様な不気味さが、そこには存在していた。
「突然ですが、貴方は死にました。」
人間もどきが言った。
「死んだ?」
「そうだ。貴方が乗っていた飛行機は、燃料が尽きる事で墜落したのよ。」
やけに奇妙な日本語を話す女である。いや、女に見えるだけか。
「死んだにしては、意識も体もあるぞ。どう説明付けるつもりだ?」
「貴方は死ななければならなかった。しかし、貴方は死ぬ直前に、近くにいた者を庇ったので、私の上司は、貴方の高潔さに胸を打たれ、貴方に機会を与えようと考えました。」
そう言って、贋物の女はこちらに微笑んだ。
「あんた、誰だか知らないが、そんな事を言うなら、俺なんかより高潔な人間は山のようにいるぜ。そういう人達は、皆不老不死か。」
そう睨み付けると、女は表情を一切変える事なく一礼して、
「いいえ、つまり、今の状況は、全て上司の気まぐれです。」
とのたまった。
「へえ。で、その機会ってのは、何だ?」
「後ろを見て。」
言われた通りに振り返ると、机と椅子、そしてポストの様な物が生まれた。随分とこぢんまりとした天地創造である。
「おっ、どんなトリックだ?」
「それは私が創った、貴方に必要な物です。」
机に近づくと、その上には、葉書が一枚置いてあった。
「貴方は、その葉書の裏に、とても短い文章を書く事が出来ます。文章の長さは、十文字を超える事は出来ない。」
裏返すと、そこには、十個の四角い枠があった。枠線は黒い。
「貴方は、一つの桝に二つ以上の文字を書く事や、桝の外に書く事は出来ません。また、桝の中に文字以外のものを書いてはいけない。もし貴方がそれを書き損じたら、私にその事を報告して下さい。葉書は新品と入れ替わります。」
こういった枝葉末節は、普通は基本ルールを話した後に付け加えるものではないのか。もしかすると、女は説明が下手なのかもしれない。
「書く事が終わったら、貴方はそれをそのポストに投函しなければなりません。ポストの中身は、その三秒後に過去に転送されます。それにより貴方は、一日以内の過去の貴方自身に手紙を送る事が出来るのだ。」
「ちょっと待て。過去って、そりゃどういう事だ。」
「これが、貴方に与えられた『機会』である。その手紙により、過去の貴方が、例の飛行機に乗らなければ、貴方は死ななかった事になる訳。この『機会』に関わる全てが、送られた物を見た者の記憶を除いて抹消されますわ。」
「……失敗したら?」
「勿論、今度こそ本当に、死ぬぜ。」
そう言うと女は、蝋人形の様に憎たらしい笑い顔を作った。
「じゃ、本当に過去に手紙を送るって言うのか?」
「貴方は、一回だけ手紙を送る事が出来る。やり直しは認められないわ。制限時間は、この砂時計の砂が落ちきるまで。手紙が送られる時間を指定したければ、ペン先を葉書の表に置き、その時間を思い浮かべるべし。そうしなかった場合は、送られる時間はランダムになります。」
机の上に、ペンが出現した。何処でも入手出来そうな、至って普通の黒のサインペンだ。女は、砂時計をひっくり返した。
その瞬間、私の体から、煙の様なものがたなびき始める。痛みこそないが、煙が放出される度に、自分が薄くなっていくのが何となく分かった。これが、二度目の死か。
「それでは、始めて下さい。この遊戯に関する質問がありましたら、気軽に聞きなさい。」
女の姿が消えた。まるで、蝋燭の炎に息を吹きかけた様な具合だ。
「お前、一体誰だ?」
「遊戯に関係しない質問は控えて。」
女の声だけがした。何処から聞こえるのか特定しようとしたが、出来なかった。
何が何だか判らないが、探しても、どうやらこの部屋に出口は見つからない。兎に角言われた通り、手紙を送ってみる他無いだろう。私はペンを握った。
女の言う事が、もし、万が一本当なのだとしたら、過去を変える為に私が使える物は、たったの十文字である。十文字で、どうやって人を動かせと言うのか。
送る先が自分、というのは、ある程度は救いなのかもしれない。思考パターンがある程度分かっているから。これで、見たこともない他人にしかメッセージを送れないというのであれば、難易度は更に跳ね上がっていただろう。
問題は、この葉書に何を書くかだ。与太話なら問題は無いが、真実であるとするなら、これを無駄遣いする、という選択はあり得ない。
素直に、『危ないから飛行機は避けろ』といった趣旨を書くか。いや、それでは駄目だ。道を歩いていて、拾った紙にそんな事が書いてあったとしよう。それで、飛行機に乗るのを止める人間がいるだろうか。
駄目だ。十文字というのは短すぎる。何処かで文字数を増やせないか。
「おい。表には宛先以外の事は書けないのか。」
相手が何処に居るのか分からないので、取り敢えず真上に向かって問いかけてみる。
「否。送り主の欄に自らの名前を書けるか、という事ですか?」
流石に考えられていた様だ。文字数を増やす、という案は、一旦捨てる。
本当に、十文字だけで、何とかしなければならない様だ。椅子に座ると、座り心地は案外良かった。
辺りに何があるのか確認する為に、部屋の中を見回してみる。もしかすると、何か使えるものがあるかも知れない。
壁も床も同じ白色なせいで、距離感を掴み辛かったが、部屋の大きさは八メートル四方だろう。その中に、檜の机、革張りの椅子、砂時計、普通の葉書が一枚に、ペンが一本。そして、ポスト。
何も増えてはおらず、また減ってもいない。そうだろうな、と思いつつ、私は僅かに落胆した。
試せる事は、他に無いだろうか。葉書一枚には、十文字きっかりしか書けないというのは、もう分かっている。だが、まだ何処かに抜け穴があるのかも知れない。一枚の文字数は増やせないのなら、次はどうするか。
ペンのキャップは、案外軽い力で開いた。私は、すらすらとペンを走らせた。
最後の桝が埋まった所で、口を開いてみる。
「書き損じた。新しく紙をくれ。」
そうやって、一度に送る紙を増やせないか、という魂胆である。紙の枚数を増やせば、送れる文字数も増える筈。
だが、手に握りしめていた葉書が真っ白になっていくのを見て、私はそれが失敗した事を悟った。駄目で元々の作戦だったが、やはり落胆が先に来る。私は、葉書を机の上に戻した。
文字数を増やすのも、紙を増やすのも駄目、自分に使えるのは、どうしてもきっかり十文字だけらしい。
私は頭を搔き毟った。砂の落ちる微かな音が、それでかき消される。
ハイジャックの事を、そのまま過去の自分に伝えるのは、不可能と言っていいだろう。どう文章を編集しても、十文字では明らかに文字数が足りない。
手段はどうあれ、目標は『自分』が飛行機に乗る事を回避する事だ。ならば、何かしらの誤解を与えて、それで『自分』が飛行機を避ける様に誘導する。
では、どういう状況であれば、自分は航空会社にキャンセルを伝えるのか? 私は天を仰いだが、目に映るのは白ばかりで、寧ろ気が滅入った。
簡単なアクシデントでは、『自分』はそのまま飛行機に乗ってしまうだろう。飛行機代というのは、気軽にキャンセルするには、少しばかり高い。しかも、今回は友人が代わりに払ってくれているのだ。軽い理由でそれをキャンセルしては、彼との関係が悪化するのは必定だ。
例えば、座席にダブルブッキングが起きていた、と思わせるのはどうだろうか。頭の中でシミュレーションしてみる。
私が空港を歩いていて、落ちている葉書を拾うと、これから自分が乗る予定の席に、誰か別の人が予約を入れている、といった風な内容が書いてある、とする。まず、私は困惑するだろう。そして、一頻り首を傾げた後で、その足で航空会社の受付に向かうだろう。こんな胡乱な情報を、鵜吞みには出来ないが、かと言って、それが事実であるとするなら一大事だ。そして、その様な事実は無いと知り、私は芽生えた不安もまとめて、葉書をゴミ箱へ捨ててしまうだろう。
却下だ。ここに書く内容は、容易にその真偽が明らかになるものでも、あってはならないという事か、と私は呟いた。心の内に留めておくつもりだったのが、声を漏らしてしまい、少し肩が跳ねる。
自分の声が、すっかり消えてしまうと、また砂の落ちる音が、鼓膜を突き刺し始めた。音源の方を見やると、この僅かな間に、砂は半分ばかり落ち切ってしまっていた。
焦燥感が、電気信号の代わりに全身を駆け巡り、気がつくと私は立ち上がっていた。そのまま、机の周りをうろうろと歩き回る。
三周程した時、ふと我に返った。貴重な時間を、こんな奇行に費やしてはいけない。まずは落ち着かなくては。
椅子に座ろうとした瞬間、またあの女と目が合った。
「何時の間に?」
それがあまりにも突然で、私は思わず言った。
「残り時間が一分を切りました。」
一方的な女の通告に、私は、はじかれた様に砂時計を見た。砂は、四分の一程しか残っていなかった。
「頑張り給え。」
笑っていやがる。女に対して、初めて確信を抱いた瞬間だった。私は、摂氏一五四〇度の視線を送った。女がドロドロに溶けてしまえば、少しは溜飲が下がったのだが、そんな事はなく、女は砂に描いた絵の様に静かに消えた。嘲笑にも通じる静けさだった。
しかし、不味い。何もしない、というのは論外だが、では何をすればいいのか、というのが、全く分からないのだ。
この十個の四角に、一体どの様に文字を書き込めばいいのか? 何があれば、自分は三途の河の渡し舟を降りるのか?
頭を搔き毟る左手の動きが、激しさを増すのが、自分でも止められない。
「残り三十秒。」
女の、無表情な声が谺した。
焦りと苛立ちが声帯を震わせ、私は感情に任せて左の拳を机に打ち付けた。反作用が思いの外大きく、私は左手を抑えた。
その瞬間、私は思わず目を見開いた。素早く葉書を裏返し、ペン先を置くと、インクが染み出し、文字となった。それが、自分が頭の中で決めていた時間を示している事に、驚きはもう無かった。
「残り十秒。」
葉書を掴み、ポストに進む。それを投函しようとした所で、ふと、これで本当に大丈夫か、という疑念を抱き、動きが止まった。
「残り五秒。」
だが、その声で再びハッとする。仮にこれが駄目だったとしても、もうやり直す時間は無い。私は、思考を放棄し、葉書を掴んだ左手を、ポストの開口部に差し込んだ。
荷物を上の棚に押し入れていると、不意に尿意を催した。
飛行機を待つ間に、トイレには行った筈だが、と思いながら、三度目で漸く荷物が乗ったので、一息つく。
念の為、財布だけポケットに入れて、まだあまり落ち着いていない機内を歩く。
機体の後方まで辿り着くと、トイレの扉が見えた。緑色のランプが点灯している。これは、誰も入っていないという事か、と解釈して、扉を開けようとしたが、伸ばした右手は、役割を見失って空中をうろうろとした。
ノブが無いのだ。引き戸かと思って、何かしらの取っ掛かりを探したがそれも無い。
この扉を開けるには、どうすればいいのか。私は数秒間、拳銃を与えられたカピバラの様に困惑していた。
取り敢えず、ここは一旦我慢してみよう、と思い、後ろ髪をトラクターに引かれながらも踵を返した、その時、サスペンスドラマの様な悲鳴が鼓膜を刺した。
ビックリして、思わず声のする方に走り寄る。尿意など、すっかり忘れていた。自分が行ってどうするのか、そもそも何が起こったのか、といった事に意識が向いたのは、腰を抜かしている男に近寄った後だった。
取り敢えず、男を起こす。
「何があったんです?」
「あ、あれ……」
男は震えながら、自分の後ろを指差した。丁度、私の席がある辺りだ。
ドラマなどでよく見る反応だな、と思った。振り返ったら確実に後悔する、という予感を押さえつけながら、私は振り返った。そして、あまりの光景に絶句した。
切り取られた誰かの左手首が、引き出されたテーブルの上に、さも当然の事の様に置かれていた。
切断されてから、まだ時間が、さほど開いていないのか。切断面を中心にして、血溜まりがじわじわと広がっている。
細長い金属の板と、一枚の紙が、近くに転がっていた。金属の方は、銀色の、その表面に、血飛沫がベッタリとこびりついている。
紙の方は、あまり血の染みもついていない。大きさからして、葉書のようなものだろう。
床に落ちていたそれを、誰かが恐る恐る拾い上げる。途端、彼は引き攣った悲鳴と共に、それを投げ捨てた。
ひらりと宙を舞い、それはひっくり返って床に軟着陸した。
書いてある文字が見えた。鬼気迫った、書き殴ったような、十文字。
『次はおまえらのばんだ』
飛び散った赤色で、部屋に多少の立体感が生まれた。
「今のは……?」
想像を絶する痛みに、何とか意識を保ちつつ、私は女に聞いた。
「貴方の送ったものにより、改変された過去だ。そして、おめでとうございます。貴方は死の運命を回避する事に成功しました。」
咄嗟の思い付きが、上手くいったらしい。笑おうと思ったが、口から漏れるのは苦悶の声だけだった。
切断された人体の一部が、飛行機の中で発見されれば、大騒ぎになってそのフライトは中止となる。飛行機そのものが飛ばなければ、ハイジャックで『自分』が死ぬことはない。送ったものは消えてしまうのだから、遺伝子を調べられて不用意な混乱を生む事もない筈だ。警察の手が入り、ハイジャック犯の武器が見つかれば、犯行を阻止する事にもなる。
女は、『ポストの中身は、その三秒後に過去に転送されます。』と言っていた。それはつまり、葉書と一緒に、という形であれば、何であろうと過去に送れる、という事を意味している。
なので、投函した後、敢えて左手を抜かなかった。手紙が送られた瞬間、私の左手も、ポストの中にある事になり、目論見通り、私の左手首は、葉書と共に過去に送られた。
「……じゃあ、俺の、勝ちか。」
悲鳴の間に、そう問いかけると、
「その通りである。」
と、女は答えた。その声に、祝福の色はない。
私は、この部屋の中では、外的要因によって死なないらしい。とうに死んでいる傷なのに、死ぬどころか、苦痛も出血も、かなり和らいできた。
「さあ、俺を復活させてくれ。」
私は立ち上がり、女に賞品を求めた。
しかし、どれだけ待っても、私の体には何の変化も齎されなかった。
「……おいおい、まさか、負けたのが癪だから、何の見返りも寄越したくない、って言い出すんじゃないだろうな。さっさと俺を復活させてくれよ。」
「見返りならば、既に貴方の手の中に。」
そう言われて、私は掌の中を見る。何も無かった。
「え?」
「先程のヴィジョンだ。貴方は、死ななかった事になったやないか。約束通り。」
「だが、俺には何も起こっていない。」
「ええ。この部屋の中の貴方は、謂わば『あの時死んだ貴方』って事。『あの時死ななかった貴方』とは、全くの別物、という訳なんだなあ。」
ふざけるな。俺は、思わず女に掴み掛かる。その肌は冷たく、そしてひどく軽かった。
「じゃあ、俺はどうなる。今ここにいる、俺は。」
「最初に言ったじゃあないか。」
女がそう言うのと、体から煙が勢いよく迸るのが、ほぼ同時だった。
結果が出れば、この『機会』に関わる全てが、送られた物を見た者の記憶を除いて抹消される。確かに私は、これ以上無いほど『機会』に関わっている。
では、私は最初から、断頭台への出来レースを走らされていたのか。
部屋が崩れ始める。壁の隙間から覗く暗黒が、私の網膜の捉えた最後の光景だった。
十文字 相良平一 @Lieblingstag
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