第2章 キツネと温泉(1)
その日の早朝、テンパー山の麓に着いた元第二大臣プラムのドーシンは、まずはキュウコク最古の寺と言われているブゾー寺に参拝した。
そしてすぐそばのシトーの滝で身を浄め、牛の背に乗って登山道を登り始めた。
テンパー山の登山道はゆっくり歩けば四十分くらいで頂上に着く。
のろのろした牛の歩みだと、その倍ほどかかるだろうか。
特に最後の急峻な石段は、流石に牛の背に揺られてというわけにはいかず、ドーシン自らの足で登らねばならない。
噂を聞きつけて後を追ったソータとゲキは、二匹の子猿の如くマシラの径を駆け登り、麓から三十分ほどで頂上に着いた。
山頂は一面にススキが生い茂る小さな原っぱで、二人は身を潜ませ辺りを見回した。
「なあゲキ、化け狐ってこんな真っ昼間っから本性を現わせるものなんか?」
「しいっ! みっかったら二人とも喰い殺されっぞ」
ゲキの表情は真剣だ。
山頂には三つの峰を並べたような奇妙な形の岩がある。
元々は一つの大岩だったのが三つに割れて頂部が削れたのか、それとも三つの尖った岩を集めて寄せたのか。
高さは一メートルほどであるが、その岩の上にぼうっと白いものが立っていた。
「出たー白狐!」 と声をあげそうになるソータの口を、ゲキは慌てて抑え込む。
岩の上にいたのは、白装束に身を包んだドーシンだった。
目を閉じ、天を仰いでブツブツと何かを唱えている。
「いよいよ狐に変身か!?」
だがドーシンは、期待で顔をテカらせながら見守る少年たちの注目にも一切気づく様子もなく、一心不乱に祈り続けている。
そのまま十分、二十分、三十分……何も起きない。
「なあ、まだなん? なんか飽きてきた」
ソータは眠気に襲われてうつらうつらと頭が揺れていたが、そのうち寝込んでしまった。
*
「おい! 起きろソータ」
ふいに揺り起こされたソータの目に、異様な光景が飛び込んで来た。
岩の上のドーシンの体が、グググッと弓なりに反り返っていた。
足は爪先立ちになり、やがて岩に接しているのは足の指先の一点のみ。
ありえないほどのあやういバランスで姿勢を保ち、まるで宙に浮いているかのようだ。
ドーシンの背骨は、今にもメキメキと音を立てて折れるかと思われた。
「ななな、なんかヤバくね?」
顔を見合わせた二人の少年は、脱兎の如く逃げ出そうとした。
次の瞬間、ドーシンの体は岩から側の草むらへ、ドサっと落ちて来た。
ゲキと先を争うようにもつれあって逃げかけていたソータだったが、どうしても押さえきれない好奇心に負けて、ついドーシンの方を見てしまった。
が、すぐに後悔した。
ドーシンは完全に白目を剥いて、口からは泡を吹き、全身を小刻みに震わせている。
狐が本性をあらわしたのか、あるいは何か別のヤバいもんが取り憑いたのか。
(早ぅ逃げんと!)
クルッと向きを変え走り出そうとしたのだが、その前にぬっと巨大な影が立ちはだかった。
「うわぁ、今度は熊が出たー」
ゲキの叫び声に呼応して、雷のような怒鳴り声が落ちて来た。
「おまいら、ここで何ばしとぉんやーー」
現れたのは身長170センチほどのがっしりした体格の大男で、頬から顎にかけて剛いヒゲがびっしり生えている。
が、ソータはその顔に見覚えがあった。
「ダイモン!」
「なんじゃ、お前は……ソータやないか?」
トーノミア政庁の下っ端役人をしているソータの父親の同僚で、ダイモンという大男だった。
歳はまだ三十過ぎだがヒゲのせいか老けて見える。
いかつい顔に似合わず気のいい男で、ソータは昔何度か遊び相手になってもらったことがあった。
「ダイモン、狐が! 化け狐が!」
ソータが倒れているドーシンを指差すと、ダイモンの顔色が変わった。
「やっ、これは……ドーシン様!」
ダイモンがドーシンのもとへ駆け寄っている隙に、ゲキは「逃げろ!」と叫んで走り出す。
その時、騒ぎを聞きつけて正道へ降りる石段から一人の老人が駆け上がって来た。
ソータはその老人に見覚えがあった。
ドーシンがトーノミアに到着した日、馬車の後ろから杖を突きながら付いて来た老人だ。
「だんな様、いったいこれは……ああ、なんという……」
主人の変わり果てた姿を見て、傍らに崩れるように坐りこむ老人の悲嘆を見たソータは、思わず足を止めた。
「まだなんとか息はある、麓へ運ぶぞ」
ドーシンを背に担いで石段を降りようとするダイモンに、ソータは声をかけた。
「ダイモン、こっちや! こっちの方が速か!」
ソータは反対側のマシラの径への降り口を指差した。
「そっちのケモノ道は勾配がきつい。ドーシン様を背負って降りるのは危険じゃろ」
「すぐ下にシャクナゲの径への分岐点があるんや。シャクナゲの径は谷川に沿っとぉからそんなに急やないし最短ルートや」
ダイモンはちょっと考えたが、「よし!」と短く答えると、先に立って降りるソータの後に続いた。
その後をなんとか気を奮い起こし立ち上がった老僕と、逃げるのをやめて恐る恐る引き返してきたゲキが続く。
*
「やーーーっと着いたぁ」
シャクナゲの径を一気に駆け降りたソータは、息を切らして側の樹にもたれかかった。
一行は正道の登り口のブゾー寺の東側にある雑木林の中に出ていた。
「ハァ……医師を……ハァ……探そうにも……こんな……田舎では……」 と困り顔のダイモンに、
「早く、後生ですからだんな様をトーノミアのお医者に……政庁には御典医がおられるはずです! なにとぞ、お頼み申します」と老いた従僕が泣きながらすがりつく。
「だが、トーノミアまでもつかどうか……」
ダイモンに背負われたドーシンは白眼を剥いてぐったりして、半開きの口からは魂が抜けかけているように見える。
その時ゲキが得意げに叫んだ。
「おれ、このすぐ近くに住んどぉ医者を知っとぉ!」
「まことか! そいつはありがたいが……」
こんな子供の言うことを真に受けていいものかと思案顔のダイモンに構わず、ゲキはずんずん歩いて行く。
「ゲキはニカシの情報通や、牛飼いの父ちゃんの手伝いであちこち回っとぉけん」
ソータの言葉に促されて、ダイモンも渋々ついて行くことにした。
やがて、こんもりと繁った竹林の隅に立つ小さな茅葺きの庵が見えて来た。
門の横には杏の木が植えられている。
「キョウチク庵っていうんさぁ、ちぃっとばかし変わり者の医者らしいけど」
「この際変人でも奇人でも仕方ないが……肝腎の医者としての腕はどうなんだ」
「ううーーん、コザクんちの牛のお産はダメやったが……」
「なんじゃそりゃぁぁーーー! 誰が牛の医者を探せと……」
その時、庵の中からのっそりと現れたのは、ダイモンほどではないがけっこうな長身で、色の浅黒い五十くらいの目のぎょろりとした痩せた男。
薄青色の作務衣のようなものを着ている。
「人んちの前で騒いどるんは誰じゃ!」
「あんたが牛の医者か?」
「誰が牛の医者じゃ! わしはもう金輪際家畜など診ん! 牛の難産など懲り懲りじゃ!」
そしてダイモンのヒゲ面を見て言った。
「マタギは山に帰れ」
だが、慌てたダイモンが説明しようと口を開く前に、背負われたドーシンを見た医者の顔色がサッと変わった。
「さっさと中へ運べ!」
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