第2章 キツネと温泉(2)
庵の床に敷かれた粗末な筵の上に横たえられたドーシンの顔は青黒く変色して、唇は紫色になっている。
医師は人差し指と中指をそろえてドーシンの手首の脈を取ると、すかさず胸元を開いて胸に直接耳を押し当てた。
「これは……いかん!」と言うが早いか、ダイモンに再びドーシンを担がせると「ついてこい!」と裏口から飛び出した。
裏庭には垣根などもなく、そのまま竹林へ繋がっている。
竹と竹の間の、人の足で踏みしめられたと思われる細い道の先に、子供でもひとまたぎできるくらいの小川が横切って流れている。
その小川の流れをたどると、小さな池に行き着いた。
池の向こう側は崖に接していて、崖の上からはちょろちょろといく筋かの水が細い滝のようにしたたり落ちている。
「この中に寝かせろ」
「えっ、池の中に?」
戸惑うダイモンに、医師は「早ぅせんか!」と叱りつける。
「あ、あったかい! これ、温泉や」
池の水に手を浸けたソータは叫んだ。
「そっか、ここはニカシ温泉のすぐ近くやもんなぁ……でもちょっとヌルくね?」
ゲキも池に手を突っ込みながら言った。
「上から落ちる湧き水が混ざって、人肌よりほんの少しだけ温かい、ちょうど良い温度になるんじゃ。さあ、早く入れろ」
池は大人一人が首から上を出した状態で横になるのにぴったりの大きさだった。
縁には丸石がぐるりと一周に敷かれて、首が当たるところの石には据わりがいいようにくぼみがつけられている。
ドーシンは上衣を脱がされ、池の中に横たえられた。
医師は患者の体の位置を調整していたが、それを終えると、庵へ戻り水甕と柄杓を持って来た。
懐から手の平ほどの太鼓を取り出すと、崖から湧き水がポタポタと落ちている真下に置いた。
テン………テン………テン………テン………
水滴は一定のリズムで太鼓を打ち鳴らす。
「この太鼓の音に合わせて、ゆっくりと少しずつこの水を患者に飲ませるのだ。太鼓が十回鳴るたびに、一口。それ以上は飲ませてはいかん。心臓が弱っておるからな」
そしてソータとゲキの方を振り向いて、「お前たちは患者の頭を支えて、水が気道の方に入らぬように注意せよ」
温泉池の縁に載せられたドーシンの首をゲキが左側、ソータが真後ろから支え、ドーシンの御付きの老僕が太鼓に合わせて柄杓を口に運ぶ。
水を注ぐ度にゲキが顎を持ち上げて飲み込ませる。
その間に医師はダイモンからここに至るまでの経緯を聞き取っている。
「なんと、かの人が都から流されて来た第二大臣とな?」
ドーシンの素性を知った医師は驚きをあらわにした。
「流罪になったいきさつは色々と取り沙汰されておるようじゃが……」
「その件については、わたしにはなんとも申し上げることが……かなわんのです」
ダイモンは日頃の豪快な性格にそぐわぬ、もじもじと困ったような顔をしている。
「まあ、今はそんなことより、あの症状がいつから出現したか、どんな生い立ちで今までにどんな病気にかかったことがあるか、それを聞くのが大事じゃ」
「それは、あの老人が詳しくお話しできるでしょう。ドーシン様に長く仕えて都から付き従って来た者ですから」
そこでダイモンはドーシンに柄杓で水を飲ませる役を老僕と代り、医師は庵で老人に聞き取りを行った。
*
「はい、わたくしめはドーシン様の先代のだんな様からお仕えしております。
名はハマジと申します。
ドーシン様とは、お生まれになったその日からずっとお側に……
ええ、もう生まれつきたいそう利発な御子でした。
賢いだけではありませぬ、道理に合わぬ曲がった事は大嫌い、王様への忠誠心も他のどんな家臣にも負けはしませぬ。
それなのに、此度のことはあまりにも酷い仕打ち……
それもこれもあの朝廷に巣食う魑魅魍魎のような佞臣どもが……
(ここで老人の話は悲嘆と怒りに我を忘れて、ドーシンを流罪にした都の高官たちへの恨みつらみで脱線し、医師が割って入って軌道修正した)
……はい、ドーシン様は、お小さい時からお身体の方はあまり丈夫なたちではございませんでした。
上に二人の兄君様がおられましたが、御二方とも元服の前に儚くなられましてございます。
ドーシン様も三つか四つの頃でしょうか、大きな病を得まして、いっときは危うくなるところでした。
母君様の懸命の看護と御祈祷のおかげでなんとか一命を取り止めましてございます。
その時母君様は、病が癒えた暁には願を掛けた観音様に法要を行うとお約束をされました。
その甲斐あってか、元服された後のドーシン様は大きな病に憑かれることはございませんでしたのに……
それが……はい、お身体の具合が悪くなったのは、都を発ってからのことでございます、二月一日のことでした。
でもそれも無理なきこと、行く先々の駅舎では王の御布れにより食事や替え馬を供するのを禁止され、湊に着けば壊れかけた今にも沈みそうなボロ船に乗せられ、夜は野盗や刺客の気配に怯え、これでは体調を崩さぬ方が不思議というもの。
……はい、最初に出た症状は……胃がムカムカして食事が喉を通らず、温めた石を腹に当てても一向に良くなりません。
だいたい馬車など貴人が乗るものではございませぬ、揺れがひどくて道中何度もお戻しになられて、すっかりおやつれになられてしまいました。
手は震え、指先の感覚が鈍くなり、足も弱って歩くときにフラフラされ、時には足を引きずられることさえあります。
……ええ、髪も抜け落ちる量が多く、頭皮やお身体には
そこで医師は聴取を終え、深く考え込む様子で目を閉じた。
*
ニカシ温泉は、キュウコクで最も古い温泉だと言われている。
その昔、この地を治める大貴族がいたが、なかなか子宝に恵まれず、薬師堂に籠って祈りを捧げた。
すると努力の甲斐あって祈祷を捧げている場に薬師三尊が姿を現わし、それから間もなく貴族には娘が生まれた。
ところがその後、この地で疫病が流行した。
貴賎を問わずあちこちで多くの死者が出て、やっと授かった貴族の娘も疫病に罹り臥せってしまった。
貴族は再び、毎日薬師如来に祈り続けた。
ある夜、夢の中に一人の僧が出てきて、「ここから東の地に蘆の生えている湿地がある。そこに温泉が湧くので娘を入浴させよ」と告げた。
貴族が言われた通りの場所に行き蘆を刈り取らせると温泉が湧き出し、湯の中に娘を入れるとたちまち病は治った。
以来、ニカシの湯は万病に効く霊験あらたかな名湯として、遠くからも湯治の客が訪れるようになった。
ニカシ温泉で一番大きくて立派な湯屋は、ミカソの湯という。
ここはトーノミア政庁の管理下に置かれ、入浴できる順番も、最初が政庁の長官や高官、次にキャンゼイウォン寺の僧侶、そして周辺にある他の寺の僧侶、政庁に勤める武官、料理人、という風に厳しく定められていた。
ニカシにはその他にも数多くの小さな湯屋があり、そちらは庶民でも入ることができた。
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