第3話
お墓があると教えてもらったお寺までは歩いて20分ほど。ちょうどいいバスもなく、歩いて向かうことになった。恵里さんは今日家を空けられないとのことで、私と鳴海先生の2人だ。
「……嘘、吐いちゃったな」
矢本家から10分ほど歩いたところで、突然、鳴海先生がそんなことを言った。
「最近はもう、絵を描くこともないから」
懺悔なのだろうか。
子供の世話とか、そりゃあ、手は空かないだろうし。ある程度は仕方ないのではないか。あの会話の雰囲気で正直なことを言うのが憚られるというのも理解できる。
「嘘も方便ってことじゃないですか」
あの場で本当のことを言っても、誰も幸せにならないのは明らかだったし。
「……そうかもね」
それからはあまり言葉を交わすこともなく歩き続け、到着したのはそこそこに大きいお寺だった。付随した霊園も結構な規模だ。
ひとまず本堂の方にお参りと挨拶をして、手桶と柄杓を借りた。
案内してもらった区画を少し探して墓石を見つける。「矢本家先祖代々」と記されていた。1本だけ比較的新しい卒塔婆が立っている。
鳴海先生はその前で小さく息を吸って、墓石の表面をじっと眺めている。
「水、汲んできますね」
私はとりあえずそう言って手桶と柄杓を持ち、墓地の入り口にあった水道まで向かう。なるべくゆっくりと、時間をかけて水を汲んだ。
想定される3倍くらい時間をかけて戻ったつもりだったが、鳴海先生は同じ体勢で佇んでいる。
「一応、掃除しましょう」
声をかけると、鳴海先生はゆっくりと頷く。
「そうね、ありがとうございます」
2人で一緒に墓石の周囲の枯れ葉をどけ、墓石に水をかける。流石にほとんど汚れていなかったし、形式的な動作としての掃除になる。
それから蝋燭に火を灯し、線香の束を火先に当てた。慣れてはいないが、やったことはあるお決まりの流れ。この行為の意味するところを深く考えもせずに覚えた、祈りの形。
手を合わせ、目を瞑る。視界が閉ざされて、風の音を強く感じた。合わせた指先はあっという間に冷やされていく。やっぱり私からなにか感傷を抱くこともなく、手短に済ませて場所を譲った。
鳴海先生は持ってきていた鞄から手のひらサイズの袋を取り出し、墓前に供える。
むやみに荒々しいパッケージデザインと商品名。砕いたクッキーをチョコレートで固めた、よく見るお菓子だ。九州が発祥だったっけ?
「あの子、よく食べてたんですよね。高校生の頃の話だから、もう好みじゃなかったかもしれないけど」
そう言って小さく笑いながら、丁寧な手つきでいくつか並べている。
「思い出せた好物がこれだったから」
強いデザインのパッケージと、墓石の灰色とのコントラストは中々強烈だ。
「もうちょっと、良い物にすべきだったかな」
他に思いつかなかったよ、とこぼす。
それが鳴海先生の独り言なのか、私への問いかけかは分からない。でも反射的に口を開いてしまう。
「亜美さんにとって、もう好物じゃなくなっていたとしても」
矢本亜美が、鳴海先生に何かしらの感情を抱いていたというのなら、なおさら。
「覚えていてもらえたら、嬉しいんじゃないでしょうか」
言ってみて、私からこんなことを言っていいのかどうかも、よく分からなかった。
「そうだと、いいな」
鳴海先生は強いため息を吐く。肺から空気を絞り出すように深い呼気。
「……二度と」
そして香炉の前にしゃがみ込んで、じっと墓石を見つめながら。
「二度と会わないだろうと思っているのと、死んでしまったというのは」
微かに風が吹く。枯れ葉が揺れる音が小さく響く。線香の煙がなびいて消える。
「私にとっては、どう違うんだろうね」
語り口は静かで、私の返答は必要とされていない気がした。
「どこかで生きているんだろうと思っていた時は、思い出くらいにしか感じていなかったくせに」
感情の読み取れない呟きは、秋の空気に溶けた。
「いざ、こうなったら」
鳴海先生はまた深く息を吐いて。
「ごめん、もうちょっと一人にしてもらってもいいかな」
こちらを振り向かないまま、立ち上がる様子もなく言われる。
「はい」
当たり前に頷いた。
「これ、返しておきますね」
そしてそう言って手桶と柄杓を手に取る。
道具を返却し、境内でぼんやりと立ち尽くす。頭上のほとんど葉を落とした木の枝、その先の青空を眺めているような、そうでもないような。
枝の端っこ、引っかかるように残った枯れかけの葉がかすかに揺れて、落ちる。もう冬が近い。明日の朝も寒そうで、今から出勤が億劫になる。
太陽は着実に位置を変えていて、気温は下がり始めている。私は手をコートのポケットに入れ、肩を縮めて何をするでもなく佇むしかない。
近くの茂みから猫が現れた。猫はこちらに一瞥もくれず眼の前を通り過ぎて、のんびりとした足取りで本堂の方へと向かう。揺れる尻尾をただ見送った。
首輪を着けている様子はなかったから、きっと野良だ。本格的な冬が来る時、あの子は一体どうするのだろう。私には知る由もない。
鳴海先生のことをただ待っている間、周囲にあった変化はそれくらい。
砂利を踏む足音が聞こえた。音の方向へ振り向く。
「お待たせしました」
軽く手を降りながら鳴海先生が歩いてきた。もういいんですか、と聞きそうになって、聞くまでもないと思って、口をつぐむ。
何がどうなっているかの確認もせず、あまり鳴海先生の顔を見ないでおいた。別に全然、そういうことでもなかったのかもしれないけれど。
「じゃあ、帰りましょうか」
そして鳴海先生の言葉に頷いて、お寺を後にした。
それからは大した会話もなく大通りへ出てバスに乗り、最初に集合した駅まで戻ってきた。
「今日はありがとうございました」
改札前で鳴海先生はそう言って頭を深く下げる。
「いえ、全然」
集合した時と同じようなやり取り。私にとっては仕事みたいなものといえばそうだ。でも口に出せばあまりにも薄情に聞こえる気がして、それは言わなかった。
「あと、これ」
鳴海先生が、先程墓前に備えていたチョコレート菓子を差し出してきた。
「よかったら、浅見先生が食べておいて」
「いいんですか」
聞き返した瞬間に一つ落ちてしまいそうになって、反射的に受け取る。
「私、あんまり甘い物は食べないから」
そう言われて、頭が追いつかないままにすべて受け取って、ぼんやりとしたお礼を返した。スケッチブックが無くなったことで持て余していたトートバッグにお菓子が収まる。
「それじゃあ、今日はわざわざありがとうございました」
別れの挨拶として改めてそう言われて、こちらも頭を下げ返して。改札を通ってすぐに鳴海先生と別れる。
のったりとした足取りで、自分の乗る電車のホームへと向かう。電車の到着まではあと5分ほど時間があった。
背後でベルが鳴る。浅見先生の乗ったであろう電車の発車する音。
ホームから見える景色は、すっかり傾いた夕日の色に染まっている。
乗換駅のホームで、ふと小腹が空いたことに気づく。肩にぶら下げたトートバッグの中から、鳴海先生にもらったチョコレート菓子を取り出した。
あたりはすっかり日が落ち、気温は更に下がっている。指先の冷たさに耐えながら、ビニール包装を破いた。チョコレートに覆われた凹凸が鈍く光を反射する。
噛みついて、軽い食感でクッキーが砕けて、一口分を頬張った。チョコレートの甘さが舌に触れる。
何度か食べたことはあって、味も食感も知っている。どこにでも売っている味。軽くて甘いチョコレート。未開封の残りは仕事机にでも入れておけば、どこかのタイミングで食べるだろう。これからの人生でもたまにはコンビニで買って、小腹を満たすこともあるだろう。
今立っているこのホームに私が降り立つことは、多分もうない。矢本家を訪ねる機会や、あの墓前に立つ機会はおそらくもっとない。矢本亜美の描いた絵を見る機会も訪れないだろう。そして私と鳴海先生が顔を合わせることも、二度とないかもしれない。
そんなことを考えながら、チョコレート菓子を食べ終える。
誰かと二度と会わないということと、その人が死んでしまったということは、一体どう違うのか。
さっき墓前で聞いた言葉が勝手に反芻される。私にとって、それは。
冷たく澄んだ空気の向こうで、月が静かに煌々と光を放っていた。見える範囲に雲はなく、しばらくその光を遮るものはなさそうだ。
風が吹いて、目が乾いた。
電車はまだ来ない。
便箋と鍵、いつかの残り火 mkm @mkm00077
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます