氷の公爵の婚姻試験

篠月黎 / 神楽圭

第1話

『私のことを最もよく知る女性を、妻となるべき者して迎える。その出自、身分、その他一切を問わない。』


 "氷の公爵"レオンハルト・フォン・アイスベルクが、自ら王城にてそう宣言し、また掲示板という掲示板にその知らせが貼られたその日、王国中が沸いた。なにせ、レオンハルトといえば、現国王の実弟の息子であり、その王位継承順位は3番目。貴族らはぜひ王家との繋がりをと拳を握りしめた。


 なお、レオンハルトは"氷の公爵"と呼ばれている理由は、もちろんその残虐非道な側面――かつて自らの意に沿わぬとして伯爵家当主の首をはね、その爵位を剥奪し一族を追放するという冷酷無比な断罪を行ったことがある――を指してのことだが、それだけではない。その美しさはまるで氷の彫像のようとして、その美貌をも指している。ゆえに、政略結婚を望まぬ令嬢達も、今回ばかりは頬を染めた。


「出自を問わないということは、妾の子でもいいということか?」

「いや、そもそも身分を問わないのだから、その父親が子爵であっても男爵であってもいいということだろう?」

「名ばかり貴族が、王家の姻族としてその名を連ねる可能性さえあるということだ」


 その乾坤けんこん一擲いってきの大勝負を、公爵自ら持ち掛けてきた!


 しかし、レオンハルトはこう続けていた、『火の月の十日、アイスベルク公爵家にて、試験を行う』とも。火の月の十日は、宣言のたった2日後だった。


 事実上、準備の時間などないに等しかった。そもそも、公爵家は宣言と同時にその門戸を堅く閉ざしていた。あらゆる貴族があらゆる魔法を用いてスパイじみた情報収集を試みたが、魔力で公爵家に敵う者などおらず、その努力は徒労に帰した。


 そうして迎えた試験当日、公爵家には国中の妙齢の令嬢が押し掛けた。集まった令嬢達は、まずは誰よりも目立ってみせると煌びやかなドレスに身を包んでおり、玄関はまるで一面に花が咲いたかのような華やかさを誇った。


 その階上に、一人の男が現れた。プラチナのように上品な輝きを放つ白銀の髪に、サファイアのような青い瞳、見惚れてしまうほど美しい顔立ちに、一切の感情の見えぬ表情。レオンハルト・フォン・アイスベルク公爵自身だった。


「『私のことを最もよく知る女性を、妻となるべき者して迎える』。ゆえにこれから、私のことを最もよく知る者を確認するため、試験を執り行う」


 淡々とした声は、冬の寒さより厳しく、令嬢達の肌を刺す。それを受け、令嬢達は一層身を引き締めた。


 最もよく知ること、それすなわち愛しているということ。氷の公爵は自らを愛する妻を欲しているに違いない、必ずや試験を通じて愛を証明してみせよう、と。


「私のマントの裏地の色は何色か。赤色と思う者は絨毯より右へ、青色と思う者は左へ動け」


 日頃目にする機会はあっても、つい分からなくなってしまうもの。令嬢達はたじろいだが、一人が動いたのを皮切りに、徐々に左右へと分かれる。全員が左右どちらかに動いた後、レオンハルトは左腕を払いながらマントを翻した。


「左へ動いたものは帰れ」


 次に、レオンハルトのマントの刺繍の模様。その次に、当主に就任した月……。まるで茶番のように、しかし絶妙な難題が出され、徐々に令嬢の数が減っていく。


 そして令嬢の数が3人となったところで、レオンハルトは「次で最後だ」と言いながら階下へ降りてきた。


「私が最も好きな紅茶を答えよ」


 2人の令嬢が愕然とする中、1人が迷わず一歩前に出た。


 そして告げられた答えに、レオンハルトは口角を吊り上げる。


「お前、名前をなんという」

「シャルロッテ・シャッテンヴァルトと申します」

「合格だ」


 レオンハルトが一歩踏み出し、シャルロッテの小さな手をその手に取った。


「お前を妻となるべき者として迎える。シャルロッテ・シャッテンヴァルト」




 シャルロッテは、すぐに応接室に招かれた。小柄なシャルロッテは、グレイのソファにちょんと一人で座ると、広い部屋に不釣り合いなほどに小さく見えた。


「シャッテンヴァルトとはどこのシャッテンヴァルトだ。リラ州か?」


 対して、向かい側に座ったレオンハルトは、態度まで含めて部屋の主然としていた。椅子の背に腕をかけ、長い脚を組みながら、まるで見下ろすようにシャルロッテと見つめ合う。


 対してシャルロッテは、その威圧感に全く動じず、頬に手を添えて小首を傾げ、微笑んでみせた。


「いえ、オランジェ州です。もっとも、シャッテンヴァルト家は名ばかり古いだけの弱小伯爵家。レオンハルト様がご存知だとして、そのシャッテンヴァルト家ではないと思います」

「それにしては随分と私のことを知っていたな」

「それはもちろん、こうしていることが私の夢でございましたから」


 レオンハルトも意味深な笑みを浮かべた。噂に違わず、氷の彫像のように美しく、そして冷たい微笑だった。


「夢か。公爵夫人になりたかったのか?」

「いいえ。あなたの夫人になりたかったのです、レオンハルト様」

「ただの公爵夫人でなく、私の夫人か」


 それを聞いていた若いメイドは、“氷の公爵”と言われるほど表情を変えぬ主が微笑むとは、と驚きを顕わにしていた。試験を執り行うと聞いたときはなにかと思ったが、この主は、意外にも自らに対する熱意を大事にしていたらしい。


 そのレオンハルトは、会話もそこそこにメイドに声をかけた。


「寝室を準備しろ」

「旦那様の寝室とは別にでしょうか?」

「私とシャルロッテの寝室だ。いずれ夫婦となるのに遠慮は要らん」


 メイドはサッと頬を染めたが、シャルロッテは微笑むだけだった。


 その夜、レオンハルトが寝室に入ると、既にシャルロッテは待っていた。薄いシルクの夜着一枚だけを身にまとい、ベッドに座っている。オレンジ色の髪をおろすと、日中とは様子が違って大人びて見えた。


「見違えるな。18歳と聞いたときは年を誤魔化しているかと思ったが」

「ええ、あの髪型では幼く見えてしまいますでしょう? しかし、母があの髪型しかしてくれず、私もそれ以外知らず」

「その母は?」

「先日亡くなりました」

「そうか」


 あまり興味なさそうに、レオンハルトはシャルロッテの肩を軽く押した。見違えたとはいえ18歳の少女、4歳も下の少女をベッドに転がすには、それだけで充分であった。


 オレンジ色の髪が扇のように広がり、両腕は顔の隣に無防備に転がる。レオンハルトが上着を脱いでそこに覆い被さると、シャルロッテはようやく顔色を変えた。真っ白い頬が唇と同じ淡いピンク色に染まる。


「怖いか」

「……ええ、少し」


 シャルロッテの左手が、レオンハルトの胸を誘うように滑る。まるでまさぐるように手のひらで撫で優しく撫で、胸から腹へ。そのままごく自然に右手にうつり、指先を絡めるように遊ばせた後、腕の内側も親指でなぞりながら、肩までのぼる。

 その動きにあわせ、レオンハルトがシャルロッテに唇を近づけた。

 シャルロッテの唇は怪しく笑み、甘く囁く。


「いい夢を見せてくださいね」


 次の瞬間、シャルロッテは自ら夜着の裾を捲りあげ、太腿の外側に仕込んでおいたナイフを逆手で抜いた。


 その勢いを殺さぬまま、レオンハルトの左腕を突き刺そうとして――ナイフごと手を掴まれた。


「……シャルロッテ・シャッテンヴァルト」


 シャルロッテは唇を噛んだが、レオンハルトは声のとおりまったく動じていなかった。互いの表情が分からぬほど顔を近づけたまま、シャルロッテはブルーの瞳を睨み、レオンハルトは黄色い瞳を静かに見つめ返していた。


「確かに、元隣国・現公爵家直轄領のオランジェ州にいた伯爵家の娘だな」

「あら、かの氷の公爵が自ら滅ぼした家をいちいち覚えていらっしゃったとは意外でした」


 試験問題に出されなくてよかったです、そう付け加えたシャルロッテには、状況にそぐわぬ余裕がある。


「ええ、そのとおり。我がシャッテンヴァルト家は、十年前、あなたの指揮により罠に嵌り、魔物に蹂躙され、滅びるに至りました。その領地は現在あなたの直轄領地となり、豊かな実りの地として王国にも利益をもたらし……あなたが若き当主として認められるに至った理由のひとつとなっております。感謝してくださってよろしいのですよ?」

「その感謝が足りぬと、説教に来たのか?」

「ええ、少々痛いかもしれませんが、罰をと」


 ナイフを持つ手を動かすが、当然ながらびくともしない。その力を感じたレオンハルトが馬鹿にしたように、小さな吐息をかける。


「私に魔法で敵うまいと考え、物理の接近戦に持ち込むまではよかったな。寝室となれば室内に邪魔者もおらん。が、一度失敗すればそれでお終いだとまでは考えなかったのか?」

「ええ、少々考えが甘かったようです」


 ズグ、とオレンジ色の光がレオンハルトの右肩に突き刺さり、レオンハルトは微かに目を見開く。


「先日の魔物討伐の折、右手を怪我したという噂がございましたが……右肩でしたのね」


 勝った。シャルロッテは、左手の感触に勝利を確信した。


 シャルロッテは、レオンハルトが魔物との戦闘で「右手を負傷した」とされていることを知っていた。負傷部位は多少なりと防御層が薄くなるもの。魔力の極端な差は攻撃を半ば無効化するが、患部を狙えば魔力差が縮まり、隙を作るだけのダメージを与えることができる。


 巷で言われる負傷部位はおそらくブラフだろうが、魔物に負わされた傷であれば、手で触れれば容易く分かる。そう確信し、初夜に心を躍らせていたのだ。


 ふっと、レオンハルトの左手の力が緩んだ。シャルロッテはナイフを握った手に、さらに力を込めた。


「死して詫びろ、外道が!」


 そのまま喉を突き刺そうとして――右腕がベッドに押し付けられた。


 それから先は驚く余裕もなかった。反動でナイフは床へ落ち、痛みに呻いたその一瞬だけ右腕を解放されたかと思うと、左腕を払いのけられた。両手は素早く頭上に縫い付けられ、さらに魔法で拘束された。


 なぜ。シャルロッテは、レオンハルトの右肩を睨みつける。防御層が薄いことは明らかだったし、この手には確かな手応えがあった。それだというのになぜ、レオンハルトは平気な顔をしている。


「確かにお前は、私を最もよく知る者だが」


 そのレオンハルトは、シャルロッテの足を開き、その間に座りこみ、壁に手を伸ばす。飾り剣だったが、鞘から現れた白刃を偽物と見紛うはずもなかった。


「あの試験がお前を誘き寄せるためのものだとは思わなかったか?」

「あら、私のためにあんな催しをしてくださったのですか?」


 無防備な状態ながら、シャルロッテの不遜な態度は変わらなかった。


「あなたを殺すことを夢見る乙女が、身分差ゆえに近づくことすら叶わないと、シーツを濡らしているのをご存知だったのでしょうか?」

「お前はグリンデ教会にいただろう。近づく機会はいくらでもあったはずだ」

「ええ、もちろん。何度も何度も、この足であなたに紅茶を運ばせていただきました。覚えていらっしゃったのですね!」


 なんだ、この男、最初から自分が何者か分かっていたのか。シャルロッテは声を荒げた。


「そのとおりです、家族も領地も失い、私はグリンデ教会に引き取られて育ちました。あなたに分かるでしょうか、和平交渉のために出向いた先で騙し討ちに遭い父を殺され、統治の邪魔になると母も兄をも殺され、言葉も分からぬ異国の地に連れてこられたこの苦痛が! 他者を蹂躙し手に入れた金で教会に寄進をする偽善者を公爵令息と敬わねばならぬこの悔しさが! なにより、その公爵令息が教会を訪ねてくるたびに使用人さながら紅茶を運ばされた私の憎悪が!」


 シャルロッテが初めてレオンハルトを見たのは、教会に連れてこられてほんの1週間かそこらのときだった。


 当時のシャルロッテに、王国語は理解できなかった。だからレオンハルトについて分かったのは、司教がいつにも増して恭しく接するほどの偉い相手であるということだけだった。


 レオンハルトは毎週のように教会を訪ねてきた。シャルロッテは、他の孤児と違い作法ができたせいか、レオンハルトに紅茶を運ばされた。その紅茶の銘柄はいつも決まって同じもので、レオンハルトが持ってきて淹れさせているのだと知った。


 レオンハルトは、紅茶を運んでくるシャルロッテに対し、常に同じ言葉をかけた。しかし、シャルロッテにはその言葉が理解できなかったため、いつも頷くしかなかった。


 教会で生活して数年経つ頃、シャルロッテは王国語を理解できるようになっていた。他者の喋りを聞いて文脈でひとつひとつ理解していったほか、教会に本が寄贈されたことで語学として学ぶこともできたからだ。


 ある日も、レオンハルトが訪ねてきて、シャルロッテは紅茶を運ばされた。


『どうぞお召し上がりください、アイスベルク公爵令息レオンハルト様』


 そう挨拶すると、レオンハルトはシャルロッテの顔を見、はじめて今までと違う言葉をかけた。


『お前がこの紅茶を淹れたのか』

『はい。お口に合いませんか』

『いや。私の一番好きな紅茶だ、覚えておけ』


 言われなくとも覚えていた、もう何度となく運ばされているのだから。しかし、レオンハルトはシャルロッテのことを覚えていないのだろう。だからこそ従前はいつも同じ言葉をかけていたに違いない。


 シャルロッテは部屋を辞した後、紅茶のおかわりを命じられ、再び司教とレオンハルトのいる部屋に呼ばれた。そこに入る直前、司教とレオンハルトの会話を聞いたのだ。


 レオンハルトが当主の座に着くこと、そしてシャルロッテの家を滅ぼすに至った戦争における采配こそが、当主たる資質を裏付ける最大の功績として認められたことを。


 それからも、レオンハルトは何度か教会へ足を運んだ。その度にシャルロッテは紅茶を運ばされ、どう殺してやろうかと憎しみの炎を心で燃やした。その場で害そうにも、ただの少女が公爵相手に魔法でも剣でも敵うはずがなかった。毒を盛ろうにも、司教が同じ紅茶を飲む以上、それもできなかった。


 やがて、シャルロッテは老夫婦に養女として引き取られることが決まり、教会を出て行った。


 以後、レオンハルトの顔を見ることはなかった。それでも、レオンハルトのことを考えぬ日はなかった。いつか必ず殺してやるとその情報収集を欠かさなかった、一方で、情報収集すればするほど、正攻法では到底殺害できないとも理解した。


 しかし、養親がいずれも亡くなり、最早決死の覚悟で乗り込むしかあるまいというときに今回の婚姻試験が宣言された。もはや天命としか言いようがなかった。


 レオンハルトの姿は、教会に引き取られてから毎週のように見ていた。それだけではない、仇と知った後は、マントの色に刺繍の模様まで、どんな瑣末なことも克明に覚えていた。養親に育てられながら、公爵家でメイドや侍女として奉公することも視野にいれ、そのための情報まで集めていた。だからシャルロッテは、誰よりもレオンハルトを知っているという自負があった。


 そして試験に合格し、遂に夢見たときがやってきた。顔に出してしまった高揚は同衾の恥じらいと勘違させることもでき、運はこちらにありと思えたが――失敗したのだ。


「……次にシーツを濡らすときはあなたの血でと決意しておりましたが……死して叶う呪いの魔法がこの世に存在しないことが残念でなりません」


 それでも呪わずにはいるものか。シャルロッテは目を閉じず、じっとレオンハルトを睨み続けていた。


 しかし、剣はシャルロッテに降りてくることはなく、床に転がっていたナイフの刃を叩き切っただけだった。


 驚いて目を見開いているうちに、レオンハルトは剣を鞘に戻し、遠くのソファへ放り投げた。どれほど素早く動こうと、これでシャルロッテの近くに武器はない。その状態になってから、レオンハルトは束縛魔法まで解き、ベッドを去りながら上着まで被せた。


「一撃しか用意がないと思っていたが、二撃だったな。無駄だったが」

「殺しなさい!」


 その上着を投げ捨て、激しく詰った。よもや婚約者の座に置かれ続けるとまでは思っていないが、殺さず生かされるのも屈辱だった。


「それとも、氷の公爵でも女子供は殺せぬとでも戯言を?」

「妻となるべき者を殺す男がどこにいる」

「この期に及んでまだ私を辱めようというのですか!?」

「私がお前を妻となるべき者と宣言した以上、私からそれを覆すことはない。ただ、いまのお前は妻ではなく"妻となるべき者"……お前が婚約を破棄することは自由だ」


 離婚は男からしかできぬが、婚約破棄ならまだ間に合うという。


 シャルロッテは歯軋りして……床に散らばる刃の破片に手を伸ばす。


 レオンハルトが振り向いたとき、シャルロッテは、手の傷口をシーツに擦り付けていた。


「それほどまでに、ご自身をよく知る者が愛しいですか。存外、寂しい方ですね」

「いつでもチャンスはやろう。ただ、お前が思っているほど、私の魔力は脆弱ではない」


 つまり、防御層の薄い部分を狙ったところでもともと無意味だったということだ。シャルロッテは血のついたシーツを握り締める。


「……では、恋人らしい熱い夜を、毎晩過ごしましょう」

「期待しているとしよう」


 以後、レオンハルトとシャルロッテのささやかな攻防は続いた。しかし、2人の表向きの会話はごく平和なものだった――「今日の紅茶は格別だったでしょう」「馴染み深い味だったな」「ところで、今日は遅いのですか?」「先日も話しただろう、心配は無用だ」など。


 二人の関係を知らない侍女やメイドたちは、仲睦まじいお二人ねと微笑んでいた。しかしその裏は「今日の紅茶は格別だったでしょう(毒入りなので)」「馴染み深い味だったな(耐性がある)」「ところで今日は遅いのですか?(夜道に隙はありますか)」「先日も話しただろう、心配は無用だ(先日同様返り討ちにするぞ)」と、なんとも不穏なものだった。


 そんなある日、レオンハルトが再び魔物討伐のためにしばらく屋敷を空けた。


 千載一遇のチャンスと、シャルロッテはこの隙に屋敷内を散策して回った。もちろん、日頃から散策はしていたが、数日かけねば探れぬところもある。


 それに、魔物討伐が無傷で終わるとは考えにくい。今回もなんらかの形で傷を負って帰ってくるだろう。防御層が薄くなっても魔力の差が歴然としているとして、普段よりは隙があることに変わりはない。


「ドアノブに痺れ薬を塗っておきましょうか。いいえ、レオンハルト様は寝る時以外手袋を外さないわね。気化しやすい毒を香として炊いておきましょうか。でも部屋から漏れてメイド達が吸ってしまってはいけないわ」


 明るい声でそう悩み、シャルロッテは過ごしていた。


 やがて帰ってきたレオンハルトは、いつもどおりシャルロッテと2人きりの寝室に帰った。シャルロッテは、まるで愛しい恋人を迎えるかのように、手を広げる。


「怪我はございませんか?」

「心配に及ぶほどのものはない」

「ぜひこの手で確かめさせてくださいませ」

「好きにしろ」


 ベッドの真ん中に座り込んだシャルロッテの前に、レオンハルトは無防備な背中を曝け出す。シャルロッテは後ろから抱きしめるようにして体の前面を撫でた。


「……胸に傷を?」

「心臓の上だな」

「あら、お気をつけくださいませ」


 手は左胸に触れる。心臓の上から触れるのは初めてだったが、確かに様子がおかしかった。


 シャルロッテが、ある恐ろしいことを確信してしまうほどに。


「……レオンハルト様、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「あなたはなぜ、私を妻にすると決めたのです」

「私を最もよく知る者がお前だからだ」

「なぜあのような試験を設けたのです」

「リリバール伯爵夫人が亡くなったからだ」


 じっと、シャルロッテはレオンハルトの胸を手のひらで押さえたままでいた。

 シャルロッテの養親の名前だった。


「……私が感謝すると思っていたのですか」

「何の話だ」

「惚けないでください。半年間、この屋敷内を探る十分な時間をいただきました」


 レオンハルトは、屋敷内でのシャルロッテの動きを一切制限しなかった。最初は罠かと疑ったが、やがて本当に何の制限もないと気がつき、挙句にはレオンハルトの自室にまで忍び込むようになった。


 執務室内には鍵のかかった引き出しがあった。鍵は見当たらず、どんな魔法でも開けることはできなかった。しかし、2、3日あれば鍵を壊し、種類を特定し、もう一度鍵付きの引き出しとして作り直すことができるだろう。そう考えて時期を待ち、レオンハルトが魔物討伐で不在にした今回、ようやく引き出しを開けることができた。


 その中に入っていたのは、リリバール家がシャルロッテを養子を引き取るに相応しい家であるかの調査書に、リリバール家がシャルロッテを娘として引き取り育てることを誓約した書類、さらにシャルロッテの養育費として公爵家が金銭を支払う旨の書類に、これらを極秘として誓約させた書類など、シャルロッテに関わる書類の数々だった。養親となるべき候補者を探し始めた頃の書類もあり、そこには"妾がいてはならない"、"諍いを防ぐために子がいないことが望ましい"、"然るべき者と婚姻できるよう地位はなければならない"などなど、事細かな配慮が記されていた。


「なぜ、私をリリバール伯爵家に引き取らせたのですか」

「教会よりも豊かな生活を送ることができるからだ」

「なぜ、グリンデル教会に顔を出していらっしゃったのですか」

「お前を教会に預けさせたのが私だったからだ」


 ぐっと、シャルロッテは一度息を止めて。


「……なぜ、私の家族を殺したのですか」


 その質問とともに吐き出した。レオンハルトは一息置いた。


「私の最大の采配ミスだ。すまなかった」


 シャルロッテは、そのままレオンハルトの背中に顔を埋めた。


 分かっていたことだった。あの日、レオンハルトは公爵令息として指揮をとっていたに過ぎず、和平交渉の場でも、交渉相手を殺さぬという紳士協定を守っていたこと。手柄を逸った別の伯爵が、部下に命じて、交渉から帰るシャルロッテの父親を殺したこと。シャッテンヴァルトの領地を自らのものとするために、その伯爵がシャルロッテの母も兄も魔物に襲わせ殺したこと。その伯爵はレオンハルトにより断罪されたこと。シャルロッテが養親を亡くした途端に婚姻試験が宣言されるなどタイミングが良過ぎたこと。


 いつしか分かってしまったことだった。レオンハルトが頻繁に教会に足を運んでいたのは、シャルロッテの様子を見るためだったこと。レオンハルトが挨拶に来るたびに司教がシャルロッテに紅茶を淹れさせたのは、レオンハルトにシャルロッテの顔を見せてやるためだったこと。シャルロッテが王国語を喋ることができるように、レオンハルトが本を寄贈してくれたこと。シャルロッテのことを知っていたレオンハルトが、シャルロッテが常に情報収集を欠かさなかったと知らないはずがないこと。


 『なにか困っていること、不自由なことはないか』――教会に来たレオンハルトに、いつもそう尋ねられていたこと。


 婚約して以来、シャルロッテは段々と怖くなっていた。もし、レオンハルトが悪人でなかったら? もし、その手によって守られ続けていたのだとしたら? わざわざ試験という形で婚約者を決めるとしたのは、伯爵家の養子に過ぎないシャルロッテが、そうでなければ公爵の婚約者争いの土俵に上がることができなかったからだとしたら?


 養親の死によって一人になってしまうシャルロッテに、最も安全で不自由のない暮らしをさせるために「妻となるべき者」の地位を与えようとしたのだとしたら?


「贖罪のつもりですか」

「私を最もよく知る者を妻に迎えると決め、それがお前だった、ただそれだけだ」

「あなたが仇でなければ、私は何を目的に生きていけばいいのですか!」


 もし、レオンハルトを殺す理由がなかったとしたら? 家族を失い、生まれた家も町も遠く離れ、遂には養親も死んで、レオンハルトを殺す以外に生きていく理由はなくなってしまったのに。


 そのレオンハルトを殺す理由がなくなってしまったら、どうすればいい。そう恐ろしくなっていた矢先、執務室で書類を見つけてしまった。


 現実となった恐怖から逃れるために、レオンハルトを殺す方法をわざと明るく声に出して、自分を励ました。それなのに、レオンハルトはなにひとつ否定してくれなかった。


「……二度とシャツを濡らさぬと誓ったのではなかったか」

「……言ったのはシーツです」

「シャツも同じことだ」

「全く違います。女性はシャツを着ません」

「そうか。では私のシャツ以外は濡らさぬと誓え」


 シャルロッテは、鼓動の速いレオンハルトの胸の上から、ゆっくりと手を滑らせた。そのまま背中から抱きしめる。


「……ええ。誓います」


 氷の公爵の婚姻が報じられたのは、その数日後であった。

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氷の公爵の婚姻試験 篠月黎 / 神楽圭 @Anecdote810

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