第4話

 今朝も快晴だ。

 蝉時雨というには大きすぎる音が響き渡っている。まだ午前十時だというのに、気温は三十度を超えている。瑞紀と颯真はテレビで高校野球を見ながらタキの手伝いをしていた。豆の鞘取りだ。


「おばあちゃん、お供えのバナナ食べてもええ?」


瞬が来て言った。


「仏様に訊いてみ。食べてええですかって」


タキに言われて瞬は仏間へ行き、すぐに戻ってきた。


「仏様、食べてええって言うたよ」


タキは可笑しそうに笑って「ほなお食べ」と言った。


「瞬は食いもんもらう時は仏壇怖あないねんな」


颯真がバナナの皮を剥きながら言う。


「ええやん。お前かてバナナ食うとるくせに」


瑞紀が突っ込む。タキは豆の入ったざるを持って立ち上がると、台所へ行ってしまった。


「なあ颯真」

「お前も食うか」

「昨日、愛結に何言うたん」

「別に」

「あの子、目ぇ赤かった」

「こんな別れ方したら後悔すんぞって、そんだけ」


あれから数分経って、颯真は愛結を連れて戻ってきた。愛結はこわばった顔のまま、父親に言った。


「送ってってくれる?」


父親は頷いた。リサとエリはバスで帰ると言ったが、愛結が一緒に車に乗って欲しいというのでそうすることにした。

 別れ際に愛結は颯真に「ありがとう」と言った。愛結の父親も同じ言葉を言い、頭まで下げた。父娘二人の時間を持つことは出来たのだろうか。


 颯真はバナナの皮をゴミ箱に放り込むと台所に声をかけた。


「今日のお昼、豆なん?」

「豆は夜や。お昼、何食べたい?」

「卵焼きにして。今朝お父ちゃんと一緒に鶏小屋から卵取ってきた。ぼくが取ったんやで」


瞬がバナナを頬張りながらタキに言った。


「その卵って温めたらヒヨコになんの?」


瑞紀が颯真に訊く。


「ならへん。無精卵やもん」

「ムセイランて何?」

「うちの鶏小屋にはメスしかおらんねん。せやからヒヨコは産まれへんの」

「何で?」

「あのなあ」


颯真は呆れたようにため息をつくと瑞紀に耳打ちした。


「エッチせんで産んだ卵はヒヨコにならんのじゃ、アホ」


瑞紀は言葉が返せなかった。黙ってうつむいていると、だんだんと頬が熱くなってくる。


「ニワトリの話なんかで赤くなりよって。こっちが恥ずかしいわ」


颯真はそう言ってそっぽを向いてしまった。


 天井が軋む音がして、屋根裏部屋から奈苗が下りてきた。颯真が声をかける。


「今まで寝とったんかい」

「いっぺん起きて、また寝たんよ。妊婦は眠いねん」


そう言って、奈苗はバナナを一本取った。


「これ以上太ったらあかんて言うてたやん」

「お腹すくねん」


奈苗は構わずにバナナを頬張る。瑞紀は奈苗のせり出した腹が妙に気になった。


「お昼ごはん何にしよか」

「おばあちゃんに卵焼き頼んだ」

「そう。瑞紀はそろそろ洋食が恋しいんちゃう?うちのごはん地味やから」

「正直言うとフライドチキンとか食べたいなあ。でも和食も好きやで」


海辺のこの家では、肉が食卓に上ることはめったにない。メインはほとんど魚で、たまに照が勤め先の工場で買ってきたハムやウインナーなどが出る。野菜はタキが畑で育てた採れたてのものだ。それを煮付けなどにする。フライなどの油っこい料理が出ることはなかった。


「ぼくがお父ちゃんにフライドチキン買うてきてって頼んだるわ」


瞬が瑞紀に笑いかける。


「瞬は優しいな」


瑞紀も瞬に微笑んだ。


 昼になり、千春が補習から、泰司が工場から帰ってきた。伯父の泰司が勤める魚介類の加工場は家から徒歩で行ける距離にあり、昼食時には一旦帰宅する。味噌汁と野菜炒めと卵焼きの昼食を終えると、泰司は野球中継を見始めた。


「父ちゃん工場行かんでええの?」

「機械の調子、悪うてな。点検するから午後は二時からやて」



 北側の六畳間で昼寝をしている瞬の傍で、瑞紀はメールのチェックをした。母からきていた。


『元気ですか?宿題ちゃんとやってますか?予定通りに迎えに行きます』


それだけだ。メールってありがたいな、と瑞紀は思う。自分にとって都合のいい表情、温かい声を想像できる。


 進二が初めて赤ん坊を連れてきたあの日以来、真紀子は進二の前では笑わなくなった。本当はそれよりもずいぶん前から笑顔は少なくなっていたのだろう。そのことに瑞紀が気がつきたくなかっただけだ。


 進二は順という女の家で暮らしているらしかった。順は進二のレストランでウェイトレスをしていた女だ。瑞紀が幼稚園に通っていた頃から店で働いていた。子ども好きで、よく瑞紀と遊んでくれた。真紀子が盲腸で入院した時には、順が真紀子の病室に通って世話をした。瑞紀にとっては姉のような存在だった。


 別居状態になった後も進二は店にはほとんど毎日顔を出した。客数や売り上げなどをチェックし、従業員に指示を出し、することがない時には空いている席でビールを飲んでいる。そうして閉店前には店を出ていく。


 瑞紀は父と夕食を共にすることも度々だったが、自分からは何を話しかけたらいいのかわからなかった。進二の方は以前と変わらず、冗談を言って瑞紀をからかったりする。

 真紀子はレジ前に立って客の案内などをしていた。進二の方を努めて見ないようにしている様子だった。


 進二は実務には疎いようだった。ホールのことは真紀子が、調理場のことは進二の弟の昭とその妻のエイ子が仕切っている。

 店は昭の作る料理の味と、進二の強気な経営のやり方で神戸の飲食店間の激しい競争を生き抜いてきた。進二は店の内装、外装を名の知れた建築事務所に依頼し、マスコミに売り込んだ。真紀子も従業員たちも進二の強引さに振り回されながらも、結果を出していく進二について行かざるを得ないのだった。


 進二は時々、赤ん坊を連れてきた。赤ん坊には悠という名前がついていた。女の子だ。

 瑞紀たちの自宅になっている三階に悠を置いて、進二は一階の店に下りる。

 真紀子と瑞紀が悠の世話をした。時には瑞紀が一人で悠を見ていた。悠の機嫌がいい時には嫌ではなかったが、むずかる時には店に下りて真紀子やエイ子に助けを求めた。


 瑞紀にとって不思議なのは真紀子が悠をよく可愛がることだ。進二とは目も合わせず、順の名を口に出すことも嫌っているような真紀子が、悠には笑いかけ、頬ずりした。

 悠が白くふっくらと成長し、瑞紀を認めて笑顔を見せるようになると、瑞紀も母の気持ちがわかるような気がしてきた。

 可愛いのだ。

 触りたくなる。あやしたくなる。もっと笑って欲しくなる。

 子どもを産み、育てた経験のある真紀子には、悠にほとんど表情のなかった頃からその中にある愛らしさを感じ取ることが出来ていたのかも知れない。


 赤ん坊には何か大きな力があるようだ、と瑞紀は思う。

 周りの人々の愛を集める。そしてその人たちに何か説明し難いエネルギーを与える。

 悠がうちにいる時の真紀子は、それ以外の時よりも生き生きとしていた。瑞紀も悠をあやしながら柔らかな肌に触れると、自分の胸の辺りから温かいものが広がってくるように感じた。


 悠は今どうしているだろうか、と思った。瑞紀がいなくても、進二は悠を連れて神戸の自宅へやってくるのだろうか。瑞紀のいない家で過ごす真紀子はいつもと変わらない顔でいるのだろうか。



 獣の叫び声で、我に還った。

 叫びながら、暴れている。玄関の方から聞こえる。


 何が起こっているのかと瑞紀が駆けつけると、泰司が鶏を脇に抱えて両手で首を掴んでいた。耳をつんざくような鶏の悲鳴が響き渡る。


「お父ちゃん、それどうするん!?」


千春が大声で尋ねる。大声を出さなければ、言葉が鶏の悲鳴にかき消されてしまうのだ。


「瑞紀がトリ食いたい言いよるんやろ?包丁包丁!早よう!」

「うわあ、やめてやめて!いらんいらん!トリいらん!!」


瑞紀は叫んだ。こんなに大きな声をあげたのは久しぶりだ。


「何でや、肉食いたいんやろ!?」


鶏が喚き散らして翼をばたつかせる。こういう声を断末魔の叫びというのだろう。白い羽が土間に飛び散る。


「お父ちゃん、止めたりいな。胎教にも悪いわ」


奈苗がそう言うと、泰司は「そうかあ?」と言って鶏を抱えたまま出て行った。


「ごめんなあ、うちのお父ちゃんワイルドで」


千春はそう言って洗い物の続きを始めた。


「大丈夫か」


呆然としている瑞紀の肩に手をかけて、颯真が訊く。


「……大丈夫やない……」


そう言いながら瑞紀は颯真の肩にもたれかかった。


「こらっ、こらこら」


颯真はゆっくりと瑞紀を座らせた。瑞紀は大きく息をつき、膝を抱えてうつむいた。


「お前なあ、フライドチキン好きなんやろ」

「……やめてくれ……しばらくチキン食われへん……」

「ほんまあかんなあ、お前……」


颯真は呆れたように瑞紀を見て、ため息をついた。




 翌日、瑞紀は体調の悪さを感じていた。昨夜も今朝も食事があまり進まなかった。もともとが少食なのだが、今日は胃のむかつきも加わり、茶漬けしか口にしていない。

 颯真が持ってきてくれたアイスキャンディーを瞬と三人で縁側で舐めていると、リキと田村がやって来た。


「愛結、昼過ぎの電車で行くらしいで」

「そうか」

「そうか、って颯真、行かへんのか?」

「おれ、ええわ」

「なんで」

「見送りなんて女の子ばっかりやろ。おれ、ええ」


リキが持っていたタオルを振り回して颯真の頭をはたいた。


「いてっ」

「男やら女やら関係ないやろ。友達やろ」


リキは颯真を睨むように見た。田村が颯真の腕を掴んで引っ張る。颯真は縁側からずり落ちた。


「おれらが行きたいんや。颯真は付き添いや。ええから来い」


颯真は田村に引きずられるようにして歩いて行った。瞬が後を追う。


「電車のとこ行くん?ぼくも行く」

「瞬はここで兄ちゃんと一緒にいような」


瑞紀の言葉に、瞬は頭を振った。


「ぼくも行く。電車行きたい」


瞬の目に見る見る涙が溜まっていく。口がへの字に曲がる。瑞紀は肩をすくめると、瞬の手を取った。



 駅前の自転車置き場を出て、辺りを見回す。街路樹の木陰に、十人ほどの少女たちが集まっていた。愛結が皆に囲まれるようにして立っている。

 リサが颯真たちに気づいて手を振った。愛結もこちらに顔を向ける。

 瑞紀は颯真たちから少し離れた線路沿いのフェンスの側に立ち、瞬に電車を見せていた。すすり泣く女の子たちや所在なさげに立っている颯真たちの様子が気にかかるが、自分は部外者だ。


 愛結の方から颯真たちに近づいてきた。


「こないだ、ありがとう」

「ああ」


颯真が頷いた。


「卒業まで居れたら良かったのにな」


田村が言う。


「うん。でもお母さんのあっちでの仕事見つかったから、早よ行かなあかんらしいわ」

「そっか」

「また帰って来るんやろ」

「そのつもり。今は大人について行くしか出来へんけどな」


リキの言葉にそう答えた愛結は、颯真に目を移した。離れた場所にいる瑞紀にも、愛結の視線の強さが感じられる。


「頑張れよ」


颯真の言葉はそれだけだった。


「うん」


愛結は颯真にそう応えた後、瑞紀に気づいて軽く手を振った。瑞紀も片手を上げて応じる。愛結は女友達の中に戻って行った。


 駅舎から愛結の母親が出てきた。愛結の肩に手をかける。出発の時間なのだろう。

 少年たちは何も言わなかった。少女たちは泣きながら見送っていた。

「またな」と微笑んで、愛結は改札口の奥に消えていった。

 愛結は、泣かなかった。

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