第4話 緑青莊怪奇倶楽部2
辰彦さんは新聞の切り抜きを丁寧に紙ばさみに戻した。盆の上のグラスを取ろうとして中身が無いことに気がつく。
「あら、もう無いわ。アタシ取りに行ってくる」
昭典の頭を畳の上に置くと立ち上がり、ベニヤのドアを開けて階下に降りていった。部屋に居てもミシミシ軋む階段の音が聞こえてくる。此処の階段は狭くて急なのに加え、古雑誌や古新聞の類いが段に積まれていて行き来しにくいのだ。住人の辰彦さんはなんでもないように降りていったけれど、僕なんか結構おっかなびっくりで昇降に集中力を要した。
何時だったか福良顔のおばちゃんが、般若のようになって竹箒をつかんで玄関に仁王立ちしていたことがあった。廊下の奥で粛々と新聞や雑誌を括る住人の小さな背中が印象的だった。倶楽部で辰彦さんに言うと「汚した奴等が怒られればいいのよ」と言って涼しい顔をしていたっけ。
「藤司よう、つかささんのところに行ったとして、お前殺人事件のことを調べるつもりか?」
昭典が心配そうな声で言う。
「うーん、どうしようかなぁ」
迷った風に言ってピースを1口吸った。
「悪いことぁ言わねえ。止めておけって。つかささんは今あそこで暮らしてるんだ。過去のことを引っくり返して乱して良いわけがない。お前が将来記者になりたいことは知ってるが……道理は弁えるべきじゃないか」
がばっと起き上がってそんなことを言う。
僕は昭典をちらりと見た。太い眉をきりっと上げて、男らしい唇を真一文字に結んでいる。僕と違って、純で真面目な男なのだ。タバコの最後の一口を吸って、灰皿に押しつけた。
どうしようか、つかささんは幽霊なんかじゃない。得体の知れない僕らをお茶に招待するくらいの胆力のある、同年代のうら若い女の人だった。頭の中で天秤が動いた。スクープか、それとも昭典の幸せか。一目惚れの恋路なんて成就するかなんて分からないものだけれど、それでもこの間、帰る間際に見た二人の姿はお似合いだった。
「うーん、スクープはほしいけどな」
「藤司!」
「だが、残念ながら僕が追っているのは幽霊で、殺人事件じゃ無いんだ。僕が好きなものを知っているだろう」
肩を竦めて言うと、昭典は大きく息を吐いて、古い畳の上に再度転がった。
「良かった、お前、俺ぁてっきり!」
「僕をなんだと思ってるんだ」
その時パタンとドアが開いた。
「そりゃあ宇賀神財閥の放蕩息子、よね。あんまりヤンチャすると親御さんが泣くわよ」
辰彦さんが麦茶の薬缶を持って戻ってきていた。
僕の汗にぬれた背中をとんと指先でつついてきた。
財閥なんてものはもう解体されて久しい。だから辰彦さんの言葉は正しくないのだけれど、そう思っている人は多いのだろう。父は、変わらず複数の会社を持っていたし、二人の兄もその会社で要職について働いている。
戻ってきた辰彦さんと、白い歯を見せて笑いながら笑いながら話す昭典。本当に此奴は良い奴なのだ。
東海林昭典は、僕の幼馴染みで友人だ。
昭典の父、昭信さんは僕の父の腹心の部下で、僕らは幼い頃からよく遊んだ仲だった。ところが昭信さんは仕事のしすぎで身体を壊してしまったと聞いていた。今年の夏、いよいよ長期の療養に入り、自宅からS県の療養所に移っていた。
僕の父は昭典の学費を出す約束をしていた。父と昭信さんの間にも、恐らく友情のようなものがあるのだろうと思っていた。多分父は、実の息子のように可愛がっていた昭典が苦労をするのを見るのが耐えられなかったのだと思う。
親の心中を知らず、僕らは本を好み、自由を愛した。とはいえ、ギターをかき鳴らして反社のフォークソングを歌ったりする自由じゃない。ただ参考書を広げる自由を愛したのだ。そうして、ヒロポンを打ってまで働きまくる今の社会に、ゆくゆくは身を投じなければならないことを憂いていた。
僕の上には兄が二人いたから、家を継ぐとかそういう大袈裟な話が回ってくることはまずない。けれど、このままうかうかしていると、僕も収まるところにこの身を置くことになるのだろう。
数年前まで辰彦さんの言うとおり僕は放蕩息子の典型だったのだけれど、昭典にこの倶楽部に連れてきてもらってから少しはマシになったつもりだ。
過去の僕も、今の僕も、きっと日々前に向かって進む大きなうねりの中で抗えるだけ抗ってみたかったのだと思う。
サラリーマンなんて、恰好がつかん。記者として一人前になって日本全国を飛び回り、あわよくば海外にも行ってみたい。イギリスのネッシーだとか、北アメリカのビッグフットだとか、そういったものを追いかけてみたい。
学生時代に手柄を立てれば外の世界に開かれた別のレールが現れるのではないかと、本気で思い込んでいたのだ。幻想の動物を追いかける僕は、完全に夢見がちな子供だった。
辰彦さんが夜の仕事の準備を始めた。
鏡台に向かう辰彦さんを他所に、僕と昭典は他の人が集めてきたネタを読むことにした。
「最近のだと、そうねぇ、ゴンボダネなんかが面白かったかしら。なんでも九尾の狐が絡むとか言ってたわね」
ファイルを捲るとはたしてゴンボダネの記事が現れた。どうやら長野や岐阜あたりの伝承らしい。憑きものの類いの話が集められて載っていた。
「オチはないわよぉ。あの二人がまだ集めただけみたいだから」
あの二人……大学で民俗学を研究していたという仁志と篤郎だろう。サラリーマンとして現在働いているのだが、辰彦さんも一目おくほど怪奇現象に対する嗅覚が鋭いのだ。現在でも生きている伝承を嗅ぎ取って、そいつを面白い記事に仕立て上げる。仁志は狐みたいな鋭い目をしていて、篤郎は逆に狸のような外見をしている。仕事がきついのか、目の周りには常に隈があってどす黒い肌をしているのが心配になるくらいだ。
ただ、僕はどうにもいけ好かない感じがして、この二人組が嫌いだった。
読む気をすっかりなくして、ゴンボダネの記事をすっ飛ばした。それよりは辰彦さん自らが集めた記事の方が勉強になる気がした。
辰彦さんは、気付くと首まで化粧の下地を塗っていた。
そういえば、両の腕は何も塗る必要がないくらい白い。日に焼けないよう気をつかっているのだろう。
下地を終えると今度はおしろいを乗せていく。肌が女のもののように肌理細かに見えてくる。蛾の触覚みたいな眉を描き、頬紅をし、アイシャドウを施して次第に外国の女優のような様になっていく。
変身具合が面白いので、やがて僕らは記事そっちのけで辰彦さんの化粧を見守っていた。三面鏡越しに僕らの様子を見た辰彦さんはふふっと笑って僕らを揶揄う。
「やあねぇ、アタシの化粧なんてみても仕方ないでしょうに」
「やあ、面白いんすよ」
昭典が感心したように言った。
次に辰彦さんは衣装棚と化した押し入れからドレスを引っ張り出す。二種類、三種類出して選び、他のをまたきちんと仕舞った。股引を脱いで黒い網タイツに脚を隠し、青いドレスにその身を通した。
「後ろのホックを留めてくれないかしら?」
「あ、はい」
ファスナーを上に上げてホックを留める。
大きなイヤリングとネックレスをつけ、最後にマリリン・モンローみたいなカツラをかぶると、辰彦さんはすっかり女優の様相でくるりと回って見せた。
「びっくら美人だよな」
昭典は腕組みをして感心して言った。
化粧とは化けると書くけれど、なるほど目の前にいるのはさっきまでの角刈りの兄貴ではなく、まごう事なき女性だった。
「惚れちゃいそう?」
ウインクされて嫌な気がしない自分に、少しばかり嫌気がさした。
外に出ると空にかすかに茜色が混じっていた。
豆腐屋のラッパの音を聞きながら、駅に向かって歩く。辰彦さんのゲイバーは駅裏の繁華街にあるからだ。
「あんた達、翡翠邸に行くなら今度は手土産の一つも持って行きなさいよ」
分かれる直前、辰彦さんに言われた。
確かにこの前は不躾にも覗きをした挙げ句のお邪魔だったから、面目躍如といきたいところだ。
「住所も調べれば分かるでしょう。必ず事前に葉書でもなんでも書くのよ。学生とはいえもういい大人なんだから」
昭典も僕も殊勝に頷いた。
ネオンの明かりの中へと消えていく辰彦さん。
僕らは撤収する前に赤提灯に寄ってから帰ることにした。
焼き鳥を焼く煙で店内は白くけぶっていた。
ガード下の行きつけの店、とり茂は、まだ早い時間なのに随分と賑わっているようだ。
僕らはカウンターの端っこに漸く空きを見つけて身体を滑り込ませた。
「ビールふたつ!」
「サッポロでいいかい?」
油焼けしたおやっさんがお通しのワンタン揚げをカウンターに乗せながら言う。
「ライトじゃない、普通のやつな」
昭典が言うと、頷いて冷蔵庫の方へと踵を返した。サッポロが出したビールテイスト飲料サッポロ・ライトは、ビールに似ているけれど非なるものだ。やがてグラスと栓抜き、ビールの瓶が目の前に置かれた。
僕らは手酌でグラスの中を満たしてとりあえず乾杯した。
「何も成し遂げていない今日に乾杯」
「昭典の恋路に乾杯」
言うと、じろりと睨まれる。僕から見ると子供っぽいのだけれど、女性から見ると母性をくすぐられる表情らしい。前に、そんな話を女学生から聞いたことがあるその時はラブレターを渡してくれと頼まれたのだっけ。
白黒のテレビでは、ニュースが流れていた。都内の地下広場でフォークゲリラの集会に機動隊が突っ込んだというものだった。誰かがつまらなそうにチャンネルを変えて、今度は『8時だョ! 全員集合』のオープニングが流れ始めた。
「毎日毎日よくやるよなぁ」
昭典が言う。
テレビの中では大きな盥が志村けんの頭上に落ちたところだった。昭典が言ったのは先刻のニュースのことだろう。
「何かが変わってほしいんだろ。僕らとは違う発露の仕方さ」
ぐびりとグラスの中身を干す。
勝手にカウンターの上に焼き鳥が置かれた。つくねと、ねぎまと、軟骨だ。おやっさんに片手をあげて揚げ出しも注文する。昭典はぱくりとねぎまに齧りついた。
「うっめえ」
僕も続いてぱくりとやる。塩が効いていて口の中がぎゅっとなるほど旨い。空になったグラスに追加のビールを注いでまたごくりとやった。
「親父さんの具合はどうなんだ?」
焼き鳥、揚げ出し、そして大きな卵焼きを胃に収めたあと、僕は小休止でピースに火をつけた。今度は慎重に、片方をとんと潰してから口に銜えた。
昭典も自分のタバコに火をつけて、ふうっと天井に向かって煙を吐き出した。
「手紙じゃあ気丈にふるまってるけどなぁ、あまり良くないらしい。今度会いに行ってみようと思う」
重たい煙を僕も吐き出した。
S県の療養所は簡単に行ける場所では無い。途中まで電車で、それからバスに乗って向かわなければならない。そういえば翡翠邸があるのもS県だな、とふと過った。
「良い薬があるんだろう? ほらなんたらマイシンって」
「ああ、ただ親父の場合、気付くのが遅かったんだな。治療に耐えられるのか、俺にぁ分からん」
長じてから暫く会っていない昭信おじさん。どれだけ弱ってしまっているのか想像ができなかった。
まったりとした時間が流れていく。タバコ1本分、無言で療養所に思いを馳せた。先に火を消した昭典が、カウンターの中へ注文している。
「日本酒と焼き鳥もう一丁、それとチェイサー頼む!」
「ちぇいさーなんてお洒落なもんねえよ。冷やタン2つな!」
「なんでぇ、言い方が違うだけじゃないか」
おやっさんと昭典が笑いあっているのを見て、少しほっとしている自分がいた。
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