第5話 宗二という男
翡翠邸を再度訪れたのは、辰彦さんへの報告会からひと月ほど経ってからだった。
僕と昭典は辰彦さんの助言通り、各々先日の謝罪と礼を認めた手紙をつかささんに送っていた。つかささんからの返書には、丁寧に時候の挨拶から始まって、僕らの学業の成就を祈る結びの言葉までが流麗な筆跡で書かれていた。
数回のやり取りの後(最初の手紙以降は昭典が書いたものだが)、初秋の日曜日に地方へと向かうローカル電車に揺られることになったのだ。
Y駅で降りたけれど、今日は駅そばに向かわなかった。物見遊山ではなく先日の詫びと、僕にとっては友達の恋路の証人になることが目的だったからだ。
服装も改めた。昭典はボタンダウンのシャツにサングラスをかけ、コットンのさっぱりとしたパンツを履いている。僕は僕できちんと髪を撫でつけて、スーツを着てきた。ジャケットを着ていると流石に暑いので、脱いで持っていたけれど。この間と見た目で同じところは、兄から借りっぱなしになっていたカメラを携えていたところだろうか。
「今日は眼鏡かけてないんだな」
「ああ、本当はいらないからなぁ。どちらかと言うと、サングラスの方が必要なくらいだ」
昭典はまじまじと僕の顔を見ている。
僕の瞳は日光に弱い。メラニン色素が足りないのだそうだ。血が濃い害だと聞いたことがある。
「普段からそういう恰好してりゃあいいのに、なんでいつもムサイ服着てんだよ。なんなら前の方がマシなくらいだ」
じんまりと睨むと、昭典は黙った。堅苦しい服装を本来僕は好まないのだ。
僕は手土産の菓子折を抱え、昭典は花束を持っていた。
やがてやってきたバスに乗った。揺られる間、昭典の持つ花の香りが漂っていた。停留所Nで降り、今度は森の中の道をいかずに、もう少し先まで歩いた。果たして翡翠邸へと続く道が左手に現れた。見覚えのある忍び返しのついた塀が辻からすぐに見えたので、迷いようがない。昭典はサングラスを頭へと押し上げて、嬉しそうに車1台分の広さの道を見ている。
「……言うか言うまいか迷ったんだが、お前その花束」
「ん?」
「いや、いい」
「なんだよ、言いかけたのに言わないのはよくないぞ。気になるだろう!」
赤い花を抱える昭典のにやけ顔を見たら、言うのも野暮な気がしてやめた。
白い砂利道を踏むと、聳える銀杏が見えてきた。やがて大きな門が姿を現した。
呼び鈴を押し待つ間、森を仰ぎ見た。耳を澄ましても蝉の鳴き声はもう聞こえなかった。
「そういやぁ、前」
前に来た時の帰り道を思い出す。夕暮れの暗さの中で、ひぐらしの鳴く声が森の中に溢れていた。あの時確かに何かの咆哮を聞いたのだ。誰そ彼時の森の中だ。その正体を知ることは叶わなかった。ひぐらしの声にぐるりと囲まれている所為もあり、どこで哭いたのかも定かじゃ無い。でも、……屋敷の方面からだったと思う。今の今まで忘れていたけれど、森を見ていたら思い出した。
「──獣みたいな鳴き声が聞こえなかったか?」
昭典の方へと振り返る。昭典は、僕を見つめていた。
ぎくりとした。
昭典の、真顔。井戸の底みたいな瞳。赤い花が昭典の胸の中で妙に明るく揺れていた。僕はごくりと唾を飲んだ。周囲の音がまるで消えてしまったみたいだ。
じッと僕を見つめる昭典は、なんにも言葉を発しなかった。
「いらっしゃいませ」
ふ、と音が蘇ったような気がした。
庭師の猪狩が門を開けてこちらを見ていた。
「お嬢様がお待ちです」
今日は刺し子の手ぬぐいは下げておらず、代わりに腰に鎌を差していた。昭典が笑顔で猪狩に挨拶している。
胸がどきどきと脈を打っていた。昭典のあの瞳を見たのは久しぶりだった。
翡翠邸の車停めは空だった。
僕らはなるべく紳士ぶって歩き、玄関の扉をくぐった。
暗い玄関の床に、複雑な模様が投影されている。扉の上のステンドグラスのものだと気がついたのは1拍おいてからだ。靴を脱いで上がり框を上がる。真っ正面には件の暖炉が鎮座していた。
大きな鉄の柵で覆われて、しんと静かに押し黙っている。ちらりと昭典を見ると、暖炉を見ないように明後日の方を向いていた。
暖炉のあるホールの両側に、2階に上がる階段がある。お手伝いさんの姿は見えなかった。その代わり、向かって右側の、丁度踊り場にあたる部分に痩身の男性がゆらりと立っていた。スーツをしっかり着込んで、鞄を抱えている。
僕はぺこりとお辞儀をして、昭典の脇をつついた。
昭典も男性に気がつき慌ててお辞儀をする。
吹き抜けのホールの、上から下まで連なる窓が、階段を白っぽく照らしていた。男性の顔は青白く、まるで幽鬼のようだ。
猪狩の姿を探したけれど、屋敷内は範疇外なのかいつの間にかにいなくなっていた。
「宇賀神様、東海林様ですね」
急に無機質な声で名を呼ばれて驚く。
すぐ近くに、お手伝いさんが畏まっていた。
「こちらへどうぞ」
白いエプロンを乱しもせずに、僕らを左側の部屋へと連れて行く。
「あの方は? ご挨拶が済んでいないのですが」
僕が言うと、お手伝いさんはなんの温度も感じない声で言った。
「宗二様です。さあ、こちらへ」
挨拶は不要だと態度が表していた。昭典は鼻白んだ顔をしていた。僕らは左側にある2つの扉のうち、右側へと案内された。以前と同じ場所だ。お手伝いさんがドアをノックする。
4回目のノックで、中から返事があったのだが、同時に背後で大きな音が聞こえた。
宗二と呼ばれた男が、階段から落ちていた。
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