第3話 緑青莊怪奇倶楽部


 緑青莊はK大学の敷地の真横に建てられた2階建ての下宿だ。更に隣は鬱蒼と木が茂る神社で、陽当たりの悪い場所だった。


 学生だけでなく浪人や土方まで集っているみるからに胡散臭い建物で、せめてもの良心にブロック塀に囲まれた庭の中に桜の木が1本植えてあった。その下に何故だか緑青のカエルの置物が鎮座ましましているのがどうやら名前の由来らしい。

 風呂なしトイレなしの4畳半で、福良顔のおばちゃんが作る飯混みで3000円ぽっきり。その斜めに傾いだ建物の、細い階段をのぼったどんつき。2階の角部屋の薄いベニヤドアに、「関係者以外立ち入り禁止」の張り紙が貼ってある。

 この部屋こそが、僕らの先輩で記者をやっている辰彦さんが寝泊りしている場所であり、怪奇倶楽部の本拠地でもあった。

 そもそも会長の辰彦さんが趣味で作った閑古鳥の鳴きそうなくらい暇なクラブだった。ところが、一年ほど前、倶楽部員が集めた情報がネタとして売れたのだ。それが転換期だったように思う。最近は小遣い稼ぎの為に真剣にスクープ探しをする奴も多く、かくいう僕もその1人だった。


 きちんと畳まれた煎餅布団を避けて、僕はおしろいの匂いのする鏡台の横に、昭典は窓枠に座った。倶楽部員は他に4人いるのだけれど、今日は地方の伝承を集めに行っていて居なかった。

 昭典は部屋に入って早々に辰彦さんのギターを手に取って『星影のワルツ』を口ずさんでいる。

 部屋の真ん中にあるちゃぶ台には新聞の切り抜き記事が無造作に乗せられていた。どれも日付が1963年の4月20日だった。

「あんた達が行ってきたというこの翡翠邸だけどねぇ、幽霊の都市伝説以外にもちょーっと秘密がありそうね」

 白い肌着の男が頬に大きな手を当てて宣った。

 床に置いた木の盆の上で、リボンジュースのグラスが汗をかいていた。中身は麦茶だ。

 辰彦さんは土曜日の夜だけゲイバーで働いているのだ。角刈りの頭にカツラをかぶるのだけれど、これが中々どうしてアメリカかどこかの女優のようだとかで、ファンも少なからずいるというから驚きだ。

 僕は辰彦さんに倒錯した趣味があるのかどうかなんて知らない。昭典へのボディータッチが多い気がするな、とは思っているが、実際どうなのかは神のみぞ知る、だ。

 筋肉質な見た目に反して女っぽい口調。なよなよしているようだけれど、合気道の有段者なので、怒らせると怖い。

 

 今日は報告会だった。

 翡翠邸について、昭典と二人で幽霊不在の結果を伝えるために此処にやってきたのだ。

「先週、あんた達の口から翡翠邸って名前を聞いて、なぁんか引っ掛かったのよね。新聞社のバックナンバーを漁ったらこの通り出てきたってワケ。幽霊はいなくても、何も無いわけじゃなさそうよ」

「でもそりゃ過去の事件だ。つかささんとは関係ないだろう」

 歌をやめて昭典が口を尖らせた。

「つかさって誰よそれ」

「昭典が一目惚れしたんだと。翡翠邸の主人さ」

「きゃあ! 青春って感じねぇー!」

 僕は辰彦さんの野太い歓声を聞きながら記事を一枚手に取った。


 震撼!

 犯人は獣か人か!


 随分とセンセーショナルな見出しだったけれど、内容は薄かった。

 5年前の翡翠邸で、紅三という男が殺されたというものだった。紅三は都内にあるMという商船会社社長の三男だった。御年十八歳で、休暇で別荘であった翡翠邸にやってきたところ事件に遭ってしまったらしい。全身を殴打されたような傷や、何かに噛みつかれたような痕があったそうだ。

 

 びいん、と微かに弦が鳴る音がした。

 昭典がギターを床に置いた音だった。窓枠から僕の横にやってきてどかりと座って横から記事をのぞき込んでいる。

「ほおん、随分原始的な方法でやっちまったんだなぁ」

 顎をさすりさすり、目を丸くして昭典が言った。

「妙だよなぁ、全身骨折だとよ」

 普通に考えれば、強盗やら暴漢やらに襲われてリンチされてしまったと考えるのが妥当では無いだろうか。

「犯人はシャブでもやってたんか……?」

 僕は首筋に流れてきた汗を手の甲で拭った。

 辰彦さんはフン、と呆れたように鼻を鳴らした。そして、長袖シャツを着た僕をじろじろ見てから麦茶を勧めてきた。

「暑苦しいから早く飲みなさいな。どうせその下にさらしも巻いてるんでしょ」

「すんません。近頃物騒なんで家族がうるさいんですよ」

 僕はシャツを捲ることなく、おとなしくリボンジュースの広告が印刷されているコップを持った。麦茶はかすかに薬缶の臭いがした。


「……で、ヒロポンのやり過ぎか、ヘロインってこと? 」

 シャブの量を間違っておかしくなった人は、自分が何をしているのか分からなくなることもある。

「瞬間的にすごい力が出るかもしれないけど、ヤクやってると身体痩せちゃうじゃない? 刃傷沙汰じゃあない肉弾戦ぽいし無理があるわねぇ。そうそう、この記事に書かれていないとっておきのことを教えてあげるわ。被害者はね、暖炉の煙突部分に、下から押し込められていたのよ」

 リボンジュースの広告が印刷されているグラスの中で、麦茶がちゃぷんと音を立てた。

「はあ? 確かに玄関ところに暖炉があったけど、どうやったら18の男の死体を詰め込めるんだよ。よっぽどの馬鹿力でないと無理だぜ」

 昭典が言うとおり、翡翠邸の玄関の真っ正面にあるホールに大きな暖炉があった。とはいえ、人が立って入れる程ではないし 中腰で死体を押し込めるなんてこと可能なんだろうか。

「ん、ひょっとして全身の骨折って」

「そーよ、どうやら生きたまま突っ込まれたせいみたいね。暖炉の煤に被害者の爪の痕が沢山残っていたみたいよ」

 ぱたぱたと団扇で扇ぎながら辰彦さんが言う。

 夏の暑さの中で、しんと冷たい手で背中を撫でられたような気分になった。

「げぇ」

 昭典は相変わらずだ。

「おい、俺帰りに、あの暖炉の中覗いちまったぞ」

「幽霊居たか?」

 からかって言うと、青い顔をしてへにゃへにゃと壁にもたれしまった。



 辰彦さんの膝枕で団扇で扇いでもらっている昭典。まったくどういう反応をしたら良いのか分からない光景だ。

「お前、そんな怖がりなのにどうして怪奇倶楽部入ったんだよ」

 ピースを口に銜えて火をつけながら声をかけると、蚊の鳴くような声で反論される。

「殺人事件は範疇外だ。俺ぁ、ばあちゃんに聴いたみたいな昔話を集めたかっただけだ。だってこのままじゃ妖怪やマレビトの話なんてすっかり消えちまうだろ」

 僕は口の中に入ってしまったタバコの葉を、窓に近づきぷっと吐いた。確かにこの高度成長期真っ只中にあって、民間に伝わる古臭い伝承なんてモノは消える運命にあった。ノスタルジィのようなものは感じるけれど、所詮役に立たないものならば仕方がないのだともいえる。

 図体が大きい、けれど根が優しい昭典は本当にそれを惜しんでいたんだろう。

 にしても、見れば見るほど奇体な光景だ。辰彦さんの膝枕は堅いだろうに。

 

 僕は昭典を放っておいて、辰彦さんに屋敷の主であるつかささんの話をした。一志、宗二という兄がいること。父と兄は翡翠邸で暮らしている訳ではなさそうだということ。そして、つかささんが暮らし始めたのは、事件のあった5年前であること。

「ふーむ、じゃあ殺されたという紅三はきっと末っ子よねぇ」

「弟が殺された場所に、娘を1人で居させるものでしょうか。まあ、お手伝いさんや庭師がいたみたいですけど」

「ふつーの神経してたらできないわね」

 つかささんは、引っ越してすぐに挨拶回りに行ってシカトされたと言ったけれど、この事件の後のことなら分かる気がする。


 昭典は目をつむって団扇の風を受けている。

 眠ってしまったのかと思ったけれど、どうやらつかささんの話が出たせいなようだ。つかささんの家族にまつわる悪い話をなるべく聞きたくないのだろう。

「そういえば、これ、犯人は見つかったんだろうか」

 僕はちゃぶ台に広げてある別の記事をつまみ上げた。前と同様のことが書いてあるだけで、犯人について憶測しか書いていなかった。

「未解決事件みたいよ。それか、スキャンダルを恐れた社長がもみ消したのか」

「もみ消しはありそうだな」

 商船会社Mは名の知れた会社だ。身内が得体の知れない亡くなり方をしたら諸々都合の悪いことも出てくるのだろう。

「……じゃあ、つかささんが危ないじゃねぇか」

 昭典が漸く目を開けて言った。

 また翡翠邸に向かうことはやぶさかではない。寧ろ幽霊よりも殺人事件の方が僕は気になった。でも人の恋路を邪魔するのはいかがなものか。

「だってよ、『モルグ街の殺人』みたいなことが起きた場所なんだろう」

 小説ならば犯人は言わずもがな。

 しかし、『モルグ街の殺人』みたいなことは日本でどうやったって起きるものではないと思うけれど、まあ状況は似ている。

「遊びに来てって言われたんだから、行ってもいいんじゃないか。だがお前、暖炉の前を震えずに通ることができるのかよ」

「なに言ってんだ。藤司も一緒に行ってくれるんだから大丈夫だろが」

 昭典は寝転がりながら爽やかな笑顔を見せた。なんの迷いもなく逢瀬に僕を連れて行くつもりらしい。



 蔑ろになっていた幽霊の報告も、殺人事件の話のあとで行った。地元にいた数人から聞いた話を辰彦さんに伝えたのだ。

「どれも庭で彷徨う女の幽霊の話でした」

「あらぁ、男じゃないのね。話の流れから紅三さんが化けて出たのかと思ったのに。じゃあそのつかささんという方が見間違えられたのかしら」

 現に僕らも赤い着物を着たつかささんを幽霊だと勘違いしたのだ。

「いえ、つかささんは引っ越し祝いを持って近所を回ってるんです。例え玄関のドアを開かなかったにしても、翡翠邸の新しい主人が女性だと、周りの人は分かっていたんじゃ無いかと思います」

 幽霊の話の流れはこうだ。

 夕方の夕焼け小焼けのサイレンが鳴る頃に翡翠邸の前を通ると、白いボロボロの着物を纏った女が、庭で身体を揺らしながら座り込んでいるのを見る。ずっと同じ調子で揺れていて、物音を立てたり柵に近づいたりして気がつかれると、ものすごい形相で睨まれる。あッと思って柵から離れた瞬間消えてしまうのだという。

「あれぁ、ヨミガエリだって言ってましたね」


 正直あんなに整然と管理された、どちらかというと文明の匂いがするお屋敷の中に、ボロボロの着物を着た人がいるところが想像つかない。例え幽霊でも、お手伝いさん達がその矜恃を持って身綺麗な格好に仕立て上げる気がした。幽霊は、本当にいたのだろうか? 地元の人がつかささんを追い出そうとして撒いた噂の可能性もあるし……。

 

 僕はまたピースを銜えて火をつけた。

 ぽんと空中に輪っかを作る。

「お前、七三に分けてるから真面目に見えるけどさ、案外不良よな」

「いいや、どこをどう見ても学業を愛するごく真面目な学生だぜ」


 にこりと笑うと、昭典の口が引きつった。


「目が笑ってねぇんだよ。眼鏡かけてても俺にぁ分かるぞ!」



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