第2話 翡翠邸2
覗いた塀の内側は、公園のように整えられていた。
刈り込まれた生け垣も、屋敷の左奥に広がる庭も何もかもがあるべき姿で絵画のようにしっくり納まっている。
「なんだ、全然廃屋じゃないな」
思わずひとりごちる。昭典同様、僕もどこかでお化け屋敷みたいなおどろおどろしい外観を想像していたのかもしれない。
あたりをよく見れば、門の前から自分達がきた方とは別の方向へと、丁度車一台分くらいの幅の道が延びていた。森の中を通らずに来る方法があったのだろう。案外あのバス停のあった道をまっすぐ進めば、ここへと曲がる辻があったのかもしれない。
「にしてもこりゃすごい豪邸だなぁ。お前んちよりも広いんじゃねえか」
幽霊の出る浅茅が宿どころじゃない。僕の頭の上から中を覗いた昭典も嘆息した。
玄関前の車停めに、ぴかぴかに磨かれたいすゞのベレットが一台停められていた。
昭典は門から離れると、塀に体をもたせかけてポケットからハイライトを取り出した。それを横目で見て声を掛ける。
「マッチいるか?」
「おう、くれくれ」
僕は鞄から喫茶店のマッチを取り出すと、ぽんと昭典に投げてやった。昭典は汗で張り付いた髪を撫でつけ、早速タバコに火をつけて吸い出した。バタ臭い顔はどこぞの俳優のようだ。
僕はじっと息を殺して門の内側を眺め続けた。今見えているのは太陽の方角からして北東の壁だろう。南側は広がる庭に面しているらしい。青銅色の屋根の上に避雷針と風見鶏が一カ所……いや二カ所ある。そして煙突がやはり二カ所。ひょっとしたら正面から見ると左右対称の屋敷なのかもしれない。
壁は英国風に真っ白に塗られた羽根板で覆われていて、大きな窓がいくつも壁面に穿たれている。窓には鎧戸がついているが、今はすっかり開けられて風を通しているようだった。奥の方に倉らしきものが隣接して建っていた。
「どんな華族様のお屋敷なんだろうな」
幽霊の気配がなさそうだと分かると、昭典は余裕綽々でのんびりと鼻から煙を吐いた。
「さあ。此処いらは北条家の生き残りがいたらしいけどね。ああそういえば門に表札がないな」
屋敷から目を離さずに僕ものんびりと答えた。
開いた窓からカーテンの端が揺れているのが小さく見えたけれど、人為的な動きでなさそうだ。繰り返し同じように揺れては戻っているから、中で扇風機でも回しているのかもしれない。
森では相変わらず蝉の鳴き声が塊となって降っていた。
じわじわにいにい、と何時までも鳴いている。絵画のような景色はカーテン以外微動だにしない。
さて、幽霊は諦めようかと思ったその時、一向に動きのない門の内側に変化があった。昭典が三本目のハイライトの吸い殻を地面に落としたのと同時に、まるで世界にひと刷毛のペンキを刷いたように鮮やかな色が現れた。赤い着物を着た女性が、左手の庭から現れたのだ。
「あ」
僕がこぼした声に、昭典が門の中をひょいと覗いた。
「うひぃ、おばけぇ!」
そしてあろうことか情けない悲鳴を上げた。此奴はこういうところが駄目なのだ。
「おまえ、黙っとけや!」
思わずドスの効いた声が出てしまった。昭典は僕の声で益々ひるんで縮こまっている。片手で口を押さえて、片手で門の方を指す。
振り返ると、女性がすぐ近くで僕らの方を睨んだ。
「庭で薔薇を摘んでいたら、猪狩から妙な人達がいるって報告を受けたのよ。あ、猪狩はうちの庭師なんだけどね。で、私の名前は──」
屋敷の主は、藤井つかさという妙齢の女性だった。色白で、青みがかった不思議な瞳をした人だ。名前を知ったからには僕らも名を伝えなければならない。
「宇賀神藤司です」
「俺ぁ、東海林昭典だ」
名乗ると片方の眉を上げてから微笑んで、ついてくるように僕らに言った。
つかささんは長い黒髪を結って高く纏めていた。昨今のパーマネントなんてきっと一度もかけたことがないのだろう。艶のある美しい髪だ。
先に立って玄関のドアを開けるしとやかな仕草。露わになったうなじの後れ毛に色を感じてしまって、僕は慌てて目を逸らす。上がり框を上がった先にあるホールは吹き抜けになっていて、両側に二階にへ続く階段が緩いカーブを描いてしつらえられていた。階段の横には、天井付近まである高い窓があり、淡い光をホールへと落としている。ホールの真ん中には大きな暖炉があった。夏場だから火はなく、前に鉄の柵が置かれていた。
つかささんに案内されるままホールの左手へと進む。二つある扉のうちの一つが開かれた。明るい光が、目に飛び込んで来た。
「どうぞ、お入りになって」
床に敷かれた緋色のカーペットを恐る恐る踏んで光一杯の部屋に入る。
二基のシャンデリアが格子の天井から下がっていた。日光彫を思わせる細工を施した格子で仕切られた天井の中に一つ一つ細い線で絵が描かれていて、そのほとんどが薔薇の花のようだ。
招かれた客間は、庭に面した場所だった。
屋敷は薔薇園を見下ろすように作られていて、その薔薇園の向こうには日本庭園があるのだという。
「さあ、お話しましょう泥棒さん」
「……泥棒じゃないわい」
昭典は強気な口調で言ったけれど、あまりに説得力がない。泥棒でなくても、不審者であることには違いないからだ。僕はおとなしく窓際の席についた。窓の桟に埃一つなくて、見事に建物が管理されていることが分かった。
つかささんは先刻、覗きをしていた僕らのそばに来て門越しに睨んでいたのだけれど、途中で気分を変えたらしい。僕らがあまりに動揺してしどろもどろだったからかもしれない。何か言いかけた口を閉じ、キッと上がっていた眉を呆れたように八の字に下ろして門を開けてくれた。曰く話し相手がほしいからとのこと。肝の据わった人だ。
「ここにお一人で住んでいらっしゃるんですか?」
恐る恐る僕が尋ねると、つかささんはふきだした。
「まさか! ちゃんと同居人がいるわよ。お手伝いさん達もね。表の車は私の双子の兄のものだし。そうねえ、貴方たち二人が悪いことしようってもそうはいかないくらいの人数がこの屋敷にいるのよ。観念なさいね」
車は彼女の双子の兄の、宗二のものだという。宗二さんは県外で会社の役員をやっているらしい。今日も久しぶりの休暇だったのに、なにやら取引先と問題があったとかで迎えが来て、つい先ほど会社の車で連れて行かれてしまったそうだ。
「宗二兄さんたらいつもそう。顔を見せたと思ったら行ってしまって」
僕らはとうとうと話すつかささんを前に、鯱張って窓際のテーブルに向かっていた。
つかささんが言うように、やがてお手伝いさんがやってきた。真っ白なエプロンを着けて、滑るように音もなく扉を開けて、銀盆にのせた茶器をテーブルに次々と置いていく。その中に、砂時計が一つあった。
ことんと置かれた砂時計が不思議だったのだろう、昭典がお手伝いさんと時計を交互に見つめていた。お手伝いさんはそんな視線をまったく意に介さない。まるでからくり人形のように無表情。眉一つ動かさずに仕事を終えると踵を返して部屋から出て行ってしまった。
一人が下がるのと入れ違いにもう一人が今度はお菓子を持ってきた。二人ともそっくりな外見をしていて、正直悪い夢を見ているような心地になった。
菓子盆に乗ったお菓子。目の前に出されたけれど、手を伸ばすことは憚られた。居心地が非常に悪かった。お手伝いさんの態度から、僕らが招かれざる客であることを改めて知らされた気持ちだった。
そんな僕の思惑を他所に、屋敷の主は砂時計が落ちきるのと同時に行動を開始した。舶来ものとおぼしき茶器をこともなく扱って紅茶をカップに注いでいる。その所作がやはり美しかった。窓から差し込む光が彼女の白い指に当たって、ほのかに輝いているように見えた。
悪いことをしたという罪悪感と、思いがけず美しい女性と話すことになったことでいやに胸が高鳴っていた。ふと横を見ると、昭典なんか太い眉をきりっと上げてわかりやすく頬を赤くしていた。これじゃ益々居心地が悪い。会話の無い間を誤魔化すように、僕はつかささんに尋ねた。
「宗二さんの他にもお兄さんがいらっしゃるんですか?」
「あら、なんでそう思ったの?」
おかしそうにつかささんは言った。
「だって、宗二ってことは一のつく人がいらっしゃるんじゃないかって……」
語尾が情けなく小さくなる。他所の家の事情に踏み込むのは無粋だと、言ってから気付いたからだ。つかささんはころころと笑ってから頷いた。
「そうね、一志という兄がいるのだけれど。ただ事情があってこの屋敷は兄さんでなく私が継ぐことになったの」
「そう、ですか」
「ねえ、それより、貴方たち学生さんでしょう。外の……そうね、学校のことを教えてくださらないかしら。うちはこの通り田舎にあるものだから、新聞やラジオで外の世界のことを知るしかないのよ」
つかささんの瞳が輝いた。
僕らは顔を見合わせた。この子女は華やかな学生生活を期待しているのかもしれないけれど、実際そんなものは無かったからだ。
世間は高層ビルの建設ラッシュ。車だって都会で沢山走るようになったし、ノーベル文学賞だって日本人が取ったというのに、肝心の大学は退廃の一途を辿っているように見えた。学生の学ぶ自由がどうにも脅かされていた時代だ。
「あっちゃこっちゃでぶつかりやがって。授業どころじゃないですよ」
昭典が難しい顔をして言った。
「僕ら、権利を主張するのに暴力を使うことが嫌いなんだ。だから、学校に行けない間は趣味に興じることに決めたんです」
「だな、昨今のは思想も何も無い騒ぎたいだけのデモクラシィさ。ゲバルトに巻き込まれるのはごめんだ」
ポケットからハイライトを取り出した昭典に、つかささんは部屋の隅にあったガラスの灰皿を持ってきてくれた。昭典は格好つけて僕のマッチを擦っていたけれど、学生運動を避けた結果が覗きではなんとも情けのない二人組だ。
「大学、行けると良いわね」
つかささんは菓子盆から一つ、ガラス玉のようなジャムが乗ったクッキーを取り上げて口に放り込んだ。さくっと小気味良い音をさせて頬張っている。ふと当世風のミニスカートを履いていたら、さぞモテるのだろうなと埒もないことを思った。
昭典がむっつり口を結んで、それでも菓子盆に手を伸ばした。僕も、チョコレイトらしい包みを一つ取り上げた。つかささんが先に食べてくれたおかげで雰囲気が和らぎ、僕らもお相伴にあずかることができた。
つかささんは同世代の人だった。
お母様を早くに亡くしたのだという。お父様は、都内の会社の社長をしておりお兄さんの宗二さん共々滅多に帰ってこないのだそうだ。
「この家は、祖父が戦前別荘地として作ったものよ。近くの川で翡翠が飛んでいるのを見て翡翠邸って名付けたの。まさかここが自宅になるとは夢にも思わなかったわ」
翡翠亭の名前が伝わっているのはつかささんの祖父の世代ではこの屋敷が開かれていたからだという。
「ま、贅沢は敵、なんてその後のスローガンで、世間に疎まれて閉じていったんでしょ。私がここに来たのは五年程前だけれど、引越しのご挨拶に行こうと思っても誰にも相手にされなかったのよ。もう私達の親の代で戦争は終わったのに、おかしなひとたち。みんな誰と戦っているのかしら」
つまらなそうに肩をすくめるつかささん。
僕らは心底同情した。こんな美しい人が誰にも相手にされずにいる事実が信じられなかった。
僕らは次第に打ち解けて、帰る頃にはすっかり友人みたいな間柄になっていた。つかささんは、見送りの時に門まで出てきて別れを惜しんでくれた。
「本当に夕飯は良いの?」
「もう十分だよなあ、美味しいお菓子とお茶を頂いちまった」
昭典は熱っぽい瞳でつかささんを見ていた。
「また是非いらしてね」
「ああ、またきっと」
何か二人の間に特別な空気が生まれたような気がした。
再び森の中の道に入り、バス停へと向かう。
写真を撮りそびれてしまったことを思い出したけれど、忘れていた夏の暑さが纏わり付いてどうでも良くなってしまった。ひぐらしの鳴く声が暗くなってきた森の中で響いていた。
「なあ、昭典。お前……」
前を歩く友人の背に話しかける。
と、
背後で何かの遠吠えが聞こえた。
犬でもない、鹿でもない、聞いたことがない生き物の声が、確かに聞こえた。
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