翡翠邸の幽霊

第1話 翡翠邸


 S県の北西部に、翡翠邸という屋敷がある。

 かわせみてい、と読むのだけれど、何故そんな名前なのか、きっと本当の理由を知っている人は少ない。高い塀に囲まれた屋敷は空襲以前からあり、やれ華族の生き残りが住んでいるだとか、やれ皇族の別荘地なのだとか、財閥の誰それが戯れに作った別邸だとか好き勝手な噂が地元で流れているようだった。

 そんな噂の一つに、幽霊が住んでいる、というオカルトめいたものがあって、しかもそれが最も有力視されていた。というのも、大きな門の内側を歩く女性の姿を何人もの人が目撃しているからだった。

 その女性は決まって夕暮れどきに現れる。赤い服を見に纏い彷徨うのだという。それだけならまだしも、奇妙な遠吠えが同じ刻限に聞かれるものだから、地元のものは次第に寄り付かなくなっていったのだった。


 僕は今、その翡翠邸に向かっている。懐かしさは感じない。時間が経ったなんて思えないくらい此処いらの景色が何もかも同じだったからだ。

 焚き火の匂いのする空気の中を歩く。青い空へとすんなりと伸びた銀杏の鮮やかな黄色が目に染みる。道にひらめくその黄色のかけらを踏んで、苔むした高い塀の角を回る。すると、川べりに建つ翡翠邸への入り口が見えてくる。建物の本体は見えなくて、門の上にわずかに屋根の上の風見鶏が見えるだけだった。


 深呼吸して呼び鈴を押した。

 今日の僕の格好を、彼女は気に入ってくれるだろうか? アイロンをかけたシャツにオーダーメイドのスーツ。靴はしっかり磨いておいた。手土産の風呂敷を持ち直す。

「誰だね?」

 やがてしわがれた声が聞こえた。

「宇賀神です。ご無沙汰しております」

 門に向かって答えると、足音が一度遠ざかる。待っているとしばらくして門が開いた。

 開けてくれたのは、庭師の猪狩という男だ。ごま塩頭で赤銅色に日に焼けた肌をしている。腰に下げた刺し子の手ぬぐいが泥で汚れていた。仕事の真っ最中だったのだろう。僕は一礼してから中に入った。猪狩は僕なんか眼中にないかのように門を無造作にがしゃんと閉めた。


 猪狩の背中はやがて植え込みの中に消えてしまった。僕は正面にある屋敷を眺めた。木製の外壁の塗装が一部はげている。車停めの向こうに大きな木の扉が見える。そこまでの道のりに石畳が敷かれていて、相変わらず綺麗に掃き清められている。ただ、ほんの一部に植木の葉が散っていた。猪狩が手入れをしていたのだろう。切ったばかりの植物の青っぽい匂いが爽やかに漂っていた。僕はお土産の包みを抱えて直して玄関へと向かった。

 左手側に広がる薔薇園では大輪の花がぽつぽつと静かに咲いているのが見えた。庭に色が絶えないように開花時期の違う薔薇を植えていると聞いたことがあるけれど、クリスマスのあの日はどうだったか覚えていない。


 石畳を踏んで建物に近づき、車停めの奥にある重たい木の扉を開けた。

 薄暗く感じる室内に入ると、玄関の床に模様が落ちていた。扉の上部にあるステンドグラスの模様だ。そいつを踏んで進み、上がり框をあがった。玄関の真っ正面にあるホールでは、昔と変わらず古びたピアノと火の無い暖炉がしんと押し黙って存在した。僕は暖炉をなるべく見ないようにして、バラ園に面した部屋へと向かうことにした。

 お手伝いさんが一人、緩いカーブを描く階段の手すりを磨いている。

 帽子を取って挨拶したけれど、あんまり一生懸命で気がつかなかったみたいだ。


 目当ての部屋をノックする。

「どうぞ」

 声が扉の厚みで柔らかくなって聞こえてきた。ほっと息をつく。

 ドアノブを握って中に入ると、ホールとうって変わって、南に面した部屋は光に溢れていた。格子の天井に細い線で描かれた薔薇の絵が、明るさでかすんでよく見えない。目が慣れると漸く真っ白な女性がこちらを向いて微笑んでいるのが見えた。

「久しぶりね、藤司くん」

「お久しぶりです、つかささん!」

 呼ばれるまま窓のそばの席へ向かう。お土産のお菓子を渡すとにこにこ少女みたいに喜んでくれる。

「お茶を淹れさせましょう」

「お構いなく」

「そんなこと言って、また何か話したいことがあってきたんでしょう? どうせ長い話になるんだから遠慮しなくても良いじゃない。にしても、こんなおばちゃんに相談しても大した役に立たないのに、相変わらずねぇ」

 いたずらっぽく笑うつかささん。薄く化粧した頬がほんのり赤く染まっていてとても綺麗だ。身に纏った柔らかそうな白い服に、赤い小さな花が染められていた。おばちゃん、なんて本人は言うけれど全然そんな風には見えない。少女みたいな見た目の人。

「……だってつかささん、僕なんかが考えもつかないようなアイディアを出してくれるだろう」

 ばつが悪くなってつい口を尖らせる。

「あらあら、折角かっこいい服を着てるのに、男前が台無しね!」

 つかささんは、ころころと笑った。

 若い時の微笑みを思い出して、思い出した甘酸っぱい気持ちに胸がぎゅっと痛くなる。

 つかささんは、手元の呼び鈴でお手伝いさんを呼ぶと紅茶を所望した。僕が持ってきたお菓子の箱を渡している。お手伝いさんは僕の方を一瞥してから白いエプロンを翻して去って行った。何回も見ているはずなのに、お手伝いさん達を見分けることが難しい。皆そろって同じ制服を着て、同じような背格好をしている。


「で、今日はどんな話なのかしら?」

 肘をテーブルについて、興味津々。少し青みがかった瞳を輝かせてつかささんが言う。細い指がゆるく組まれていた。

「某所の再開発に必要な人が消えてしまったんですよ。急に見えなくなってしまって」

 ふむ、といってつかささんは眉間にしわを寄せる。

「藤司君が見えないなら、もういないのよ」

「まあそうなんですが……」

 僕もぽりぽりと首を掻く。

 僕は探し屋だった。探偵に似ているけれど、違う。ただ人やもののありかが分かるだけの男だ。どんなに巧妙に隠した、または隠れたとしても、とある痕跡さえあれば見つけることができる。それは、つかささんとの交流で発見したある意味特技なのだけれど。

「はい見つかりません、という訳にもいかないんです。探し人がどうなったのか依頼主に言わなければならないものですから」

「でも藤司君にそんな義務もないでしょうに」

 目の前の女性は呆れたようにふう、とため息をつく。

 やがて二人分の紅茶のセットがやってきた。

 お土産のクッキーがちゃんと綺麗に盛られている。つかささんは、まだ落ちきらない砂時計をそうっとテーブルに置いた。

「うーん、それじゃどんなことが起きたのか教えてくれる?」

「ことのはじめは、8月に遡るんですが」

「あ、やっぱり待って」

 つかささんは落ちきった砂時計の砂を確認すると、ポットからティーストレーナーを通してカップに紅茶を落とした。なめらかな紅色の液体がするりとカップに入っていく。慎重に交互に二つのカップを満たした後、僕に片方を渡してくれた。しっかりと濃い香りがする。

「アッサムよ。ミルクはいるかしら」

「いただきます」

 温めたミルクの小瓶を渡された。

「で、続きは?」

「ああそう、8月に遡るんですが、僕のところに役場の人がやってきたんです。古くなった木造住宅を取り壊して公営団地にしたいというお話でした。でも団地を建てると隣接する土地にかかってしまうそうなんです。最初は土地の持ち主を探してくれという依頼だったんですが」

 ミルクをとっとカップの中に入れた。

 一回底に落ちたミルクはふわりと広がり、透明な紅を濁していく。真鍮のスプーンでかき混ぜると優しい色になった。

「別になんてことのない依頼でした。地主さんはすぐに見つかりました。先代から土地を受け継いで、今は離れた場所に住んでいましたがちゃんと生きていた。僕は結果を役所のひとに伝え、9月には地主さんに相応の額を支払うことで土地の売買は合意に至る手前までいったんです」

 口をつけると、紅茶の香りとミルクの甘さが口の中に入ってきた。

「おいしい!」

「良かったわ」

 つかささんはニコニコと僕を見ている。

「でも、肝心の売買の直前に遺言状が見つかって、地主さんの他に先代から土地を引き継いでいる人がいたのが発覚したんです」

「で、その人が見つからないわけね。田舎の土地にはよくあることねぇ。持ち主だって自覚がないと、あなたでも探せないものね」

 そう、そこからすったもんだあって、他の土地の持ち主をなんとか割り出したのだ。しかし、また見えなくなってしまった。

 ぽくっと軽く割れる音がした。

 つかささんが真ん中にジャムの乗ったクッキーをくわえていた。

「若い女性の方だったんですよ。なんでも先代のお孫さんだとかで。地主さんの姪御さんに当たる人だそうです。地主さんは、戦後のすったもんだで行方不明になったと思っていたとおっしゃっていました」

 そのままもぐもぐと口を動かしている。

 紅茶を飲みつつ話を進めるうちに、窓の外にある薔薇園に夕日が差しだした。猪狩が灯した灯りが丸く輝いて、手前に見える芝をきらめかしている。

 つかささんは紅茶のおかわりをお手伝いさんに頼んだ。ついでに軽食も持ってくるよう言いつけている。お手伝いさんが去ったあと、しばらくして口を開いた。

「その人は多分──」

 半月みたいに口を笑みの形にして得意そうに微笑むつかささんに、僕はほう、とため息をついた。



×××××



 僕とつかかさんの出会いは学生の頃。

 都市伝説を集める市民活動に参加していた僕は、友人の昭典と一緒に翡翠邸のことを調べていた。川沿いの広い土地の奥にあるという翡翠邸。幽霊が出るというありきたりな噂が土地に伝わっていた。僕らはチラシみたいな胡散臭い新聞の三文記事を信じてのこのこ見に行ったというわけだ。

 兄から借りたカメラを携えて、Y駅で駅そばを食ったあとに何時間か待つと、白煙を噴き上げてバスがやってきた。今はほとんど見なくなったトヨタの代燃車だった。バスの長椅子に腰掛けるとやがてガタガタと走り出した。当時、道は十分に舗装されておらず、バスが巻き上げた砂埃が開いた窓から入り込んで喉がイガイガしたものだ。

 到着したバス停Nから更に歩くこと三十分。

 石畳で有名な景勝地であることは知っていたけれど、地図は、賑やかな街中とは真反対の鬱蒼とした森の中を示していた。

 森に踏み入る前に、昭典に肩を叩かれた。

「んだよ」

「藤司よぅ、こんな努田舎にある屋敷なんざ、どうせボロボロの廃屋だろが。ほんとに行く意味あるんかい」

 汗でシャツを濡らした昭典は、強気な口調でそんなことを言った。昭典は所謂男前だ。大きな体で、活劇の俳優みたいにシャツの前を開いていた。対して僕は丸い眼鏡をかけた、見た目はガリ勉の神経質そうな男だった。正反対の僕らは、それでもたいそう仲が良かった。昭典は見た目に反して大いに真面目で、本を好み、そして実は怖いものが大の苦手な男だった。

「ここまで来て今更だなぁ。記事によればかなり立派なお屋敷らしいぞ。翡翠邸っていうくらいだから、翡翠色をしているんだろうか。楽しみだ」

「はあ、鹿鳴館みてぇな場所なら見てみるのも悪くなかんべえが」

「で、僕ら鹿鳴館の亡霊みたいなのを見ちゃうんだろう。いいじゃないか」

「よせやい」

 震え上がる昭典を放っておいて、僕は首から提げたカメラをさすった。まだ柔らかな皮のケースに入ったそれは、高級品の重さがした。実際胸が高鳴っていた。駅でバスを待つ間、地元の人にそれとなく翡翠邸のことを聞いたのだ。果たして幽霊の目撃譚はあった。

「お前、ボンボンのくせに勇気あるよな」

「好奇心があるだけさ」

 うまくすればこいつで写真を撮って、新聞社に売れるかもしれない。 


 蝉がうわんと鳴いていた。

 耳を澄ませると、みんみん、にーにーとそれぞれ別の音で鳴いているのだけれど意識を他にやると途端に一塊になって頭上から降ってくる。

 森に入れると道沿いよりも遙かに涼しい。

 朽ちた木の甘い香りを嗅ぎながら先に進んだ。叔父の形見の懐中時計で確認するとバス停を出発してすでに30分が経っていた。小道の両側は整えられており、昭典が言うようにこの先に廃屋があるとは思えなかった。

 更に30分歩くと、苔むした塀が見えてきた。

 塀の上には忍び返しがついていたのだけれど、その鉄の先端はまるで西洋の鎧が持つ槍のように特徴的な形をしていた。


 塀の周囲で森は切れて、ただ一本高い銀杏の木が青い葉をひらめかせていた。

 よく見れば木の電信柱が見えて、塀の中に人の営みがあることを知らせていた。僕らは塀に沿って歩き、角を曲がると屋敷の正門にたどり着いた。


 大きな鉄の門だった。

 やっぱり西洋風で、趣向の凝らされた装飾が施されている。塀が漆喰と瓦でできているのに妙な風体だ。

 鉄の門の隙間から中を伺うと、遠くに人形の家みたいな屋敷が見えた。


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翡翠邸の幽霊 @nekoken222

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