僕だけが見ているエンドロール

泉田聖

僕だけが見ているエンドロール

 エンドロールが流れ始めたスクリーンを僕は虚ろに見つめていた。


 一時間四〇分。映画としてはごく平均的な尺で上映されていたイギリス映画。エンドロールの後に大した仕掛けがないことは知っているのに、僕は何故か席を立つことが出来なかった。

 余韻に浸っていたかと言うとそうでもない。この映画を見たのは二度目だったから。内容は暗くて世間からの評価も高くはない。

 なのに何故かこの映画のエンドロールから僕は逃れることが出来ないでいた。


「この映画。エンドロールがいいですよね」


 突然背後から聞こえてきたのは、やや低く気だるげな女性の声だった。

 振り返ると声の主らしい女性がいる。緩いパーマがかかったボブヘア。顔立ちはまだ薄暗い劇場のなかではよく見えない。


「え、まあ。そうですね」


 落ち着き払った声色の女性に対して、久しく異性と会話のなかった僕の声は上ずっていた。と思う。「え? なんて言いました?」女性が耳を傾ける仕草をして、まだエンドロールの最中であることを思い出した。


「そうですね。よく見に来るんですか?」


 彼女の言い草から察するにもう何度も繰り返し見ているのだろう。でなければ初めて見る映画のエンドロールなんて知っているはずがない。

 肩越しに女性を見やる。女性は眼鏡をしているようだった。スクリーンからの淡い光に触れて、眼鏡のフレームが黄金に光った。


「六回目」


「それは随分と……その……物好きなんですね」


 彼女の感性には申し訳ないが、つい数分前まで上映されていた——厳密にはいまも上映中なのだが——この映画にはそこまでの魅力はない。

 脚本は破綻こそしていないが観客が求めた結末は迎えないし、映像は演出のせいでやや見づらい。いくらなんでもPOV視点を使い過ぎだ。音楽もやたらと壮大で、主人公が旧友と取っ組み合いをするシーンでクラシックを流すなんてギャグシーンにしか思えない。界隈では監督が酔った勢いで書いた脚本で作られた駄作とまで言われる始末だ。

 こんな映画を見る為だけに六回目も劇場に足を運んでいる女性の感性は僕のような常人には理解できそうにない。

 お気の毒に、と内心で思いつつスクリーンに視線を向けた。エンドロールは終盤で、監督の名前が暗闇の中心でぴたりと止まった。


「ねぇ。お兄さん。この後時間あります? 少し語りましょうよ。同じ穴の狢ですし」


 言って女性が席を立つ音が響いた。

 薄暗い劇場。スピーカーは沈黙している。他に観客の気配はまるで無い。思えば皆、エンドロールに入った途端に席を立っていた気がする。

 スクリーンに浮かんでいた名監督の名前もやがて見えなくなり、程なくして照明が息を吹き返した。

 同じ穴の狢——この映画を六回目も見返す歪んだ感性の持ち主だと同類に扱われたのがやや癪に障る。

 とはいえ女性からの誘いを無下にするわけにはいかない気がした。それは僕が二四歳にして未だに童貞だからだろう。相変わらず異性tの接し方を学ばない自分に呆れつつ、僕は女性と並んで劇場を後にした。


 ― ― ―


「あの映画つまらないですよね。内容が酷いのなんの」


 酒がまわっているからだろう。

 仄かに頬を赤くしながら、女性がけらけらとあの映画を酷評しだした。


 映画館から徒歩数分。近所に住んでいるらしい女性の行きつけだというダイニングバーのテーブルで、僕たちはあの映画の感想を語っていた。

 互いに抱いていた感想は概ね同じだった。脚本の酷さは当然で、演出も音楽も絶妙に作品に嚙み合っていない。

 カリラを一口煽って女性が続ける。


「でも。あの映画の良い所は、エンドロールで完成するところ。そう思いません?」


「は、はぁ……」


 まったくもって理解できず、握っていたグラスの氷に視線を落とした。

 それで僕の内心を見抜いたらしく、女性が「あ。弁論を投げ捨てたな。顔を上げろ、マーティン」と主人公が旧友との取っ組み合いを始める直前に言い放った台詞を口にした。映画では次の瞬間に主人公の鉄拳がマーティンの顔を殴り、二人は幼少期以来の取っ組み合いをする。流れるクラシックが場違いで印象深いシーンだった。


「このシーン。実は色々仕掛けがあって、それを見抜けるかどうかで評価が分かれるらしいんですよ」


 女性が言って、テーブルの真ん中に置かれていたポテトを口に運んだ。

 隣に添えてある魚のフライには一向に手を付けようとしないのは、ここがイギリス料理の多いバーで、店主が見るからにイギリス人だからだろう。いわゆる本場の味という奴らしく、あの映画では日本を訪れた主人公とマーティンは同じように寿司を警戒するシーンがあった。


「他人事みたいに言うんですね」


「それは当然だ。何せ私はまだその域に達していないからな」


 問いかけると女性は肩を竦めて笑った。また映画の台詞だった。

 長いまつ毛がぱちぱち瞬いて、黒い髪の隙間から彼女の目が僕を見つめる。テーブルの上で冷え始めていた魚のフライを一瞥し「食べないならもらうよ」とナイフで切り分けて口に運ぶ。不意に女性から笑顔が消えた。


「あの映画。本編では一切描かれていないんですけど、マーティンは主人公のイマジナリーフレンドなんですよ」


「……え?」


「噓みたいに思えるでしょう? でも本当。エンドロールでマーティンの配役を探しても絶対に出てこない。マーティンは、主人公の世界にしか存在していないんですよ」


 そんな仕掛けがあったのか。

 徹頭徹尾作中ではマーティンは、麻薬取締官である主人公ビルの右腕として活躍していた。

 売人を追うビルのために車を用意したり、ビルが銃で撃たれた時にはいち早く駆けつけて救急車を呼んだり、日本に逃亡したマフィアのボスを追う為にプライベートジェットを友人から借りて来たり。活躍の回数は数知れない。

 最後にマーティンは組織を裏切った大罪人としてビルに銃口を突きつけられ、銃声と共に映画の幕は下りる。

 これらすべてがイマジナリーフレンドとのやり取りだというのなら、映画の内容は全く違う意味を持つことになってしまう。


「映画のタイトル『イフ』は作中に登場するドラッグの名前。強い幻覚を見ることが特徴的なダウナー系ドラッグ。冒頭で主人公が胃薬のように飲んでいたのは実はイフで、ビルのPOV視点には必ずマーティンの姿がある。ビルの自宅でも、警察車両のなかでも、マフィアのボスを追いかけた銃撃戦でも」


「それ、本編で言及してほしかったですね」


「そうですよね。そこさえ観客に伝われば、間違いなく大きい賞取れそうな映画だったのに。もったいないですよね」


 女性が最後のポテトを口に運んだ。

 ふ、と満腹を僕に知らせるように吐息を零して椅子を降りる。僕も彼女にならって椅子を降りて会計を済ませて二人でバーを後にした。


「あの」


 終電間際の駅に向かっていると突然女性が僕の手を握ってきた。

 柔らかい手。しかし冬の寒さにさらされて冷たい。躊躇いがちな手は弱々しく、握られているのかさえ定かではない。


「どうかしましたか?」


 問い返すのは無粋だったかもしれない。

 女性はちいさく「映画、行きませんか。もっと話したいです」と呟く。それは終電を逃してしまっても構わないと暗に口にしたのと同義だ。若い男女が終電を逃し、朝を待つための場所といえばひとつしかない。期待で心拍数が跳ね上がって、首の裏が痒くなった。


「え、はい。……行きましょうか、映画」


 だというのに映画を選んでしまう辺り、やはり僕はどこまで行っても童貞だ。

 女性を連れて映画館に戻って誰も入っていない劇場を選ぶ。チケットを買って、入場の時間を待っていた。

 すると何やらもじもじして女性が言った。


「ちょっとお手洗いに行ってきますね」


「ええ」


 応で答えて女性を見送る。

 それからしばらく女性が戻ってくるのを入場口で待った。しかし女性は一向に戻ってこない。妙な胸騒ぎがして彼女を探しに向かおうかとも考えたが、チケットを無駄にするわけにはいかないのでやむなく劇場に向かった。女性はきっと後から来るだろう。もしかすると先に向かっているのかもしれない。

 思いつつ入った劇場には僕以外には誰もいなかった。


「……あ」


 いやな記憶が、蘇る。


 僕は独りでエンドロールを見つめていた。

 劇場には誰もいない。

 隣には食べかけのポップコーンとコーラが二本。携帯が鳴る。「ごめん。もう別れよう 」と彼女から送られてきたメール。「映画好きだったのに。手ばっかり握ってこないでほしかった」僕を拒む意思が強く穿たれた文字。


 心臓がうるさくなって、ジャケットのなかをまさぐりながらトイレに走った。

 心臓が痛い。『薬』を飲まなければ。……薬を飲まなければ安心できない。

 脳が全身に指令を出していた。

 トイレに飛び込んで、ジャケットをまさぐって薬を取り出す。口に含んで洗面所の水道水で流し込んで、胃に落ちるのを鏡の前で待った。


 しばらくしてから訪れた尿意を処理してからトイレを出た。

 劇場の入り口には見覚えのある人影が佇んでいた。


 長い長い通路のなか。

 照明の温もりなど意にも介さない彼女の姿は幻のように美しい。

 これから見る映画も確かそんな題材を扱っていた気がする。


「あ。どこに行ってたんですか。探しましたよ」


 彼女の声に底知れぬ安堵を覚えながら、僕は劇場のなかへと足を踏み入れた。


 響く靴音はひとつだけだった。

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