隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明
社会人と女子大生
俺は
大卒四年目のサラリーマンだ。
自分で言うのもなんだがそこそこの大きい企業の一員として働いており、同年代の連中に比べたら好待遇だと思う。
しかも、五年前に亡くなった父さんの遺産もあるから、生活に窮屈さは全くなかった。
まあ、今後どうなるかわからないし、今は将来のために五階建てのマンションの角部屋に住んでいる。
部屋は1LDK、家賃は6万円。都心からは少し離れているにしても破格だと思う。
周りに話したらよく羨ましがられたりする。
でも、デメリットもある。
それは——
「……今日も始まったか」
7月の深夜0時。隣の部屋から男性の怒鳴り声と女性の悲鳴、激しい物音が聞こえてきた。
隣の部屋にはかなり若い女性と、妙齢の初老男性が二人で暮らしている。
親子ほど離れた夫婦? なのかカップル? なのかわからないが、何度か見かけたことがある。
女性は髪が伸び切って野暮ったくて、顔は見たことない。男性は七三分けでビジネスマンって感じのイケてる部類のおじさんだ。
今日で一週間目だ。
毎日毎日、隣からものすごい音が響いてくる。
「そろそろ管理会社に言うか? いやでも……クレーム沙汰になったら嫌だし、トラブルに巻き込まれるのはめんどくさいし……」
小心者の俺は悩んでいた。実は一週間前にうるさくなった時から全部録音しているのだが、いじいじとしてなにもできないでいた。
心の中ではわかっていた。
女性の泣き叫ぶような悲鳴と、常軌を逸した男性の鋭い怒鳴り声は普通ではない。
「いや、やっぱりここは警察だろうな。管理会社って紛争対応はやってくれないだろうし」
重い腰を上げた俺はそーーっと静かに部屋を出た。
忍足で廊下を歩き、隣の部屋の玄関ドアに耳を当てる。
本当はすぐに通報しても良かったのだが、勘違いで通報したってなったらもっと面倒になるから確証が欲しかった。
玄関ドアの前からだと、部屋の中から聞くよりもより鮮明に声が聞こえてきた。
「お前に私の何がわかるんだ! 親戚に捨てられたお前を拾ってやった恩を忘れたのか!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「叔父である私が養ってやってるのを忘れるな! 朝は私よりも早く起きて部屋の掃除をして食事を作れ! 帰ってきたら温かい風呂を沸かして静かにしていろ! 汗水垂らして働いてきた男に命を賭けて尽くすのが女の役目だろ! そんな常識も知らんのか! これだから女は困る」
詳しい事情はわからない。ただ、男性の言い分に無理があるのはわかった。
なんていうか、嫌な上司を相手にしているような感覚だ。昭和の悪いところを凝縮したような……とにかく、考えも古いし伝え方も良くない。
女性の震える声を聞いていると胸が痛くなる。
「……すみませーん」
俺は右手にスマホを持ちながら、左手でインターホンを押した。
小心者の俺にしては良い判断だったと思う。
「ちっ……そこで待ってろ」
部屋の中から男性の威圧的な声が聞こえてくる。
来訪者である俺に向けた言葉ではなく、それはおそらく部屋の中にいる女性に向けられた言葉だった。
やがて、十数秒待っていると、静かに部屋の扉が開いた。
チェーンロックはかかっていない。
「はいはーい、こんな時間に何か?」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、60歳手前くらいの白髪の男性だった。
口元はニコニコと笑っているが、目の奥には光がない。
上はシワだらけの白いワイシャツ、下は細身のスラックスだった。かなり酒臭いし、仕事終わりで飲んできた感じか?
「あー、いきなりすみません。実はお宅のベランダに会社の資料が飛んでしまいまして……今日は真夏日で暑かったので窓を開けてたもんですから」
口からでまかせだった。
「そうでしたか。ベランダを見てきます」
「お願いします」
「少しお待ちくださいねぇ~」
初老の男性は扉を閉めて部屋の中に戻っていった。
一つ感じたことは、こんな時間に来訪したというのに、気味が悪いくらい外面が良いという点だ。
普通はもっと不機嫌になるはずだし、文句の一つや二つは出る気がするが……きっと何かやましいことがあるんだ。
それは多分、女性のけたたましい悲鳴が関係していると思う。
チラッと見えた廊下にはゴミ袋が溜まっていたから生活環境は良くなさそうだったし、割れたガラスの破片も見えた。他には壁に穴があいていたりもしていた。
明らかに様子がおかしい。
「……通報しとくか」
俺は機を見て警察に電話を入れた。
小声で情報を共有し、早急に駆けつけてもらうように頼んだ。
ちょうど近くを巡回していたらしく、3分で到着できるらしい。
『おそらくDVを受けている女性がいるから早く来てほしい』
そう伝えたら警察は声色を変えて対応を急いでくれた。
さて、警察が来る前に部屋の女性に意識が向いたら大変だし、ここは勇気をだして時間を稼ぐ他なさそうだ。
「お待たせしました」
少しすると初老の男性が戻ってきた。
手には何も持っていないが、手のひらは赤かった。
まるで何かを強く叩いたばかりかのように、手のひらには赤みがさしていた。
「ベランダには何もありませんでしたか?」
「そうですねぇ」
「……困りましたね。大切な資料だったのですが」
「うちではないと思うので他を当たってみてください」
「いえ……確実にこちらのお部屋のベランダに飛んだんですよ」
「でもなにもありませんでしたよ」
「……直接探したかったんですが、お部屋の中に入らせていただくのは難しいですかね?」
「はい? 夜中の0時に他人の部屋に立ち入るつもりですか?」
「ええ、まあ、実は明日の会議に使う大切な資料でして、ここだけの話ですけど名の知れた企業の機密情報やらなにやらが記載してあるんですよ。少しでいいんです。部屋の中を見るつもりはないので、ベランダだけ見せていただけませんか?」
本当に入るつもりなんてさらさらない。ただ、警察が来る前に玄関ドアを閉められるのはあまりよろしくない。
「……おかえりください。さすがに部屋の中には入れられません」
「そこをなんとかお願いします!」
「警察呼びますよ?」
「警察ですか?」
「ええ。不法侵入しようとしてくる人がいると通報しますよ」
「どうぞ」
「はぁ? お、脅しじゃありませんから! 本当に通報しますよ?」
「だから、どうぞ? それくらいの覚悟を持って探さないといけないくらい大事な資料なんですよ」
俺は粘った。
初老の男性の顔が徐々に歪んでいく様を見ながら、その時を待ち続けた。
そして、ついにその時は訪れる。
廊下の向こうにあるエレベーターが五階で止まると、二人組の警察官がおもむろに近づいてきた。
「こんばんは」
「通報された方ですか?」
「はい。時田と申します」
「緊急性が高そうなのでお話は後で伺います。ご自身のお部屋に戻っていてください」
「わかりました」
俺は男性警官の指示通り、そそくさと自分の部屋に戻った。
離れ際、ギョッとした顔の初老の男性と目があったが、特に言葉を交わすことはなかった。
それからはどうなったかはわからない。
部屋に戻ってから数十分後に警察が俺の元に来たが、詳細を聞いても教えてくれなかった。
だが、三日後にふとテレビをつけてみると、例の初老の男性が実名で報道されていた。
どうやら逮捕されたらしい。
報道によれば、男は両親を亡くした実の姪っ子を引き取ったはいいものの、ちょうど事業が失敗してしまいその腹いせにDVをしてしまったんだとか
自分の鬱憤を他人にぶつけるなんて最悪だな。
まあ、一つ良かったのは、その姪っ子とやらに大きな怪我はなかったことか。
これで一件落着だ。俺の行動が善行なのかお節介だったのかはわからないがな。
◇◆◇◆
DVの一件から一ヶ月ほど経ったある日、残業終わりでくたくたの俺がマンションに帰ると、部屋の前に見知らぬ女性がしゃがみ込んでいた。
「ん?」
疲労で霞んだ目を擦っていると、ふと女性と目があった。
女性は花が咲いたような笑みを浮かべながら、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「と、時田さんですか?」
「えーっと、時田ですけど……あなたは?」
こんな若くて綺麗な女の子、知り合いにはいなかったと思う。大学生くらいに見える。
美人局? それとも立ちんぼ? いや違うか。わざわざ俺の部屋の玄関ドア近くで待ってたみたいだし、大きいリュックサック背負ってるし……誰だろう?
「さすがに覚えてないですよね……」
「すみません。どこかで会ったことありましたかね?」
「はい。私は——以前お隣に住んでいた東堂
「東堂……って、え!? 君、お隣に住んでたあの女の子?」
苗字を聞いて思い出した。この子は例のDV男の姪っ子さんだ。
ぼさっと野暮ったい雰囲気から変わりすぎててわからなかった。
「お久しぶりです」
「いやいや、お久しぶりとかじゃなくて……体は平気?」
詳しくは聞いてないしそもそも話したことすらないのだが、結構大変な目に遭ってたらしいし心配になる。
助けた(?)自分が聞くのも他人事のように聞こえてしまうが……
「今はもう大丈夫です。ただ……」
「ただ?」
「行く宛がなくて困ってます。この部屋は叔父さんの名義で契約していましたがご存知の通り逮捕されましたし、私はまだ大学生なのでそのまま住んでも家賃を払えません」
「あー……そうだよね」
可哀想だ。本当に。
「頼れる親戚もいません。お金だって一銭も持ってません」
「……うん」
涙ぐんでしまって言葉が出てこない。たった数時間の残業で根を上げている自分がバカみたいだ。
「ですが、私を助けてくれた人ならいます。そして、私はその人に恩返しをしたいと思ってます」
「えと……ん? つまりどういうこと?」
「よろしければ時田さんの部屋に住まわせてもらえませんか! お願いします! 頼れる人が誰もいないんですっ! 見ての通り黒髪ロングの清楚系で美人だとよく言われますし、スタイルにだって自信があります! 未経験ですが時田さんのために頑張りますので!」
東堂さんはそれはもう大きな声で言った。ガバッと頭を下げて、長い黒髪を靡かせている。
「ちょ、声がデカいよ!」
「あ! ご、ごめんなさい!」
「廊下だと他の人の迷惑になっちゃうから、続きは部屋に入って話そう。変なことはしないからさ」
「はい……男の人の部屋なんて初めて入ります……」
なんてことを言ってるが、そんなことはどうでも良かった。
話が急展開すぎてついていけない。
まずは落ち着いて食事でもして、話はそれから聞いてみようかな。
◇◆◇◆
物がほとんどない閑散とした部屋は退屈極まりないだろう。
「ごめんね、カップ麺くらいしか用意できなくて」
「いえ、それでもありがたいです。実は今月いっぱいで部屋を出ないといけなくて食事すらまともに摂れていなかったので……」
東堂さんはリビングの座椅子に座り、ちゅるちゅるとカップ麺を啜っていた。
食べながらもお腹の音が鳴っている。
よく見たら服装も汚れているし、長い黒髪にも潤いがない。相当ギリギリな暮らしをしていることがわかった。
というか今月いっぱいって……今は8月の末だからあと数日しかないぞ。
「大変だったんだね。警察はなにもしてくれなかったの?」
「いえ、精神病院の紹介とか、DV被害者用の専門的な検査とか診断とか色々とやってくれました。さすがに住む場所やお金をくれたりはしませんでしたけど」
「そう」
「時田さんは働いてるんですよね?」
「うん。毎日夜の8時か9時くらいに帰ってくる感じかな。夜中の1時に寝て、朝の7時に出社しての繰り返しだよ」
給料や残業代はきちんともらっているし、ブラック企業なんかではない。
ただ、俺自身の生活に潤いがなさすぎて、どうも神経がすり減る毎日を過ごしていた。このままいけば知らず知らずのうちにガタがきて壊れてしまいそうだった。
「……お料理はあまりされないんですか?」
東堂さんは洗い物の溜まった台所を見ていた。
「その洗い物は三日くらい前にレトルトカレーをチンした時に使ったやつだし、まともな料理なんてかれこれ半年はしてないかな」
ごく稀に冬になると鍋やカレーを作ったりするが、料理する時間を惜しんでいたら自然とやらなくなった。
「それがどうかしたの?」
東堂さんは部屋中に視線を向けて何か考え込んでいた。
「あ、その……私、実はお掃除とかお料理が得意なんですよね」
「……そ、そうなんだ」
もじもじして言い淀んでいるけど、次になにを言われるかは大体見当がついていた。
「だから、その、えとえと……時田さん、私と一緒に暮らしてくれませんか!? 家事全般できますし、もし不満があるなら私の純潔を差しあげる覚悟だって——」
「——待って待って! 話が飛躍しすぎだし、そんな簡単に自分を売らないほうがいいよ! 俺みたいなよくわかんない男なら尚更だし、ね?」
俺は東堂さんの言葉を遮った。
しかし、東堂さんもまた首を横に振り言葉を続ける。
「でも、そうしないと私は野垂れ死んじゃいます……本当に、本当に頼れる人がいないんです。それに時田さんは私の命の恩人なので、誰でもいいわけじゃないですから!」
「っ……」
俺を見つめる東堂さん瞳には揺らぎがなかった。
覚悟や信念の強さがわかる。
東堂さんは本当に困っている。
そして頼れる人が俺しかいない。
だが、俺は小心者だから決意ができないでいる。
どうするのが生活なんだろう。
女子大生と26歳のサラリーマンが一緒に暮らしてもいいのか? しかも血縁関係のない赤の他人だぞ?
「……ダメ、でしょうか……?」
俺が強張って黙り込んでいたからか、東堂さんは下唇を噛んで泣きそうな顔をしていた。
放っておけない、そんな気がした。
「わかった。一緒に暮らそう」
「ほ、ほんとですか! ありがとうございます!」
「お礼なんていいよ。東堂さんは本当に困っていて、事情が事情だから仕方ないと思うしね。だから、明日から家事全般をお願いしてもいいかな?」
吹っ切れた俺はもう後戻りするつもりはなかった。
平坦でつまらない毎日を送るくらいなら、こんな風な刺激があってもいいと思った。
「は……はいぃ……あ、ありがとうございますっ……! 私、私、本当に頼れる人がいなくて、悩みを打ち明けられる人もいなくて、お母さんとお父さんが死んじゃって、その後にお爺ちゃんとお婆ちゃんも死んじゃってからは本当に辛くて、あの人からずっと逃げ出したくて、でも何も言えなくて、助けを求められなくて……」
「大丈夫。大丈夫だから、安心して?」
俺は慟哭する東堂さんの肩に手を置いて言葉をかけ続けた。
そして、東堂さんはぽつぽつと自身の境遇を口にしていった。
両親が亡くなったのは一年ほど前。
最初は近隣に住む祖父母の家で暮らしていたが、不運なことに二人とも病に倒れてしまい亡くなったらしい。
その話を耳にした叔父が東堂さんを引き取った。
それが半年前。それから東堂さんは一人で暮らしていたが、突然叔父の会社の経営が傾いてしまい、先月のようなDVに発展したみたいだ。
「……隣の部屋は経営者をしていた叔父さんのセカンドハウスなんです。会社の経営が傾いてから一緒に住むようになりました。最初は些細な文句を言われたり舌打ちをされるくらいだったのですが、次第にエスカレートしていって先月のような感じになりました」
東堂さんは絞り出すように語った。
「ですが、時田さんが助けてくれたんです。あの時の叔父さんは精神が錯乱していて包丁を手に持っていました。あと数秒遅かったら私はここにいなかったかもしれません」
「……助けられてよかったよ」
ちっぽけな正義感と小心者の情けない勇気が東堂さんを救うことに繋がったようだ。
なんとかなれって気持ちでしかなかったが、人ひとりの命を救えたのなら善行で間違いない。
「本当にありがとうございました……幸い、暴力を振るわれたりはしませんでした。警察の方から聞いた話だとDV被害にあった女性は心身喪失状態になるみたいなのですが、私は時田さんのおかげでこうして普通に生きられています。感謝しかありません」
東堂さんは潤んだ瞳で見上げてきた。熱に浮かされたような表情だったが、それはきっと俺も同じなんだと思う。
どこか不思議な感じがした。
学生以来、全く女っ気がなくて仕事ばかりしていた俺にこんな出会いがあるなんて、夢じゃないかって思えた。
でも、目の前で感情を露わにする東堂さんを見ていると、どこか生きている実感が湧いた。
◇◆◇◆
翌朝、目が覚めたら体が痛かった。
そりゃそうだ。薄いカーペットに寝転がって座椅子のクッションを枕にして寝てたんだもんな。
話を聞いたらお互い寝落ちした感じか。
「……いい匂い」
体を起こしたらすぐに香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「おはようございます。もうすぐ朝ごはんができるので顔を洗って待っててください」
あまり広くないキッチンには、新品同然の黒いエプロンをつけた東堂さんが立っていた。
服は俺が枕元に置いておいたハーフパンツとTシャツを着ている。臭いとか言って嫌がられなくてよかった。
「……まだ朝8時前だけど寝てなくて平気?」
今日は土曜日で会社は休み、大学も休みのはずだ。
「はい! 久しぶりにリラックして眠れたので大丈夫ですよ」
「そっか」
俺はお言葉に甘えて洗面台へ向かい顔を洗った。
鏡の中にいる自分はいつもと変わらない。無表情なのに少し不機嫌そうな顔つきだ。
なのに、今日は少し変な感じがする。
「朝起きたら誰かがいるって幸せなんだな……」
ぼそりと口にした。
同時にキッチンから声が聞こえてくる。
「時田さん、準備できましたっ!」
「ん、ありがとう」
お礼を言ってリビングに向かうと、小さな食卓テーブルには所狭しと料理が用意されていた。
綺麗な卵焼きにこんがり焼き目のついたウインナー、ほかほかの白米と味噌汁、随分と豪華な朝食だ。
「……凄い豪華だね」
俺は座椅子に座ってそれらを眺めた。
「豪華でしょうか? もしかしてどれも高級食材でしたか?」
東堂さんは首を傾げて黒髪を揺らした。床に両膝をついて少し離れたところにいる。
「いや、そういう意味じゃなくて俺基準だと凄い豪華ってこと。俺って普段の朝はエナドリか水を飲むだけなんだ」
卵もウインナーも期限ギリギリだったと思うし、白米に限ってはレンチンでできるパックのやつだ。味噌汁は多分作ってくれたんだろうな。
「そういうことですか。これからはしっかり朝ごはんを食べてもらいますからね?」
「……実は朝は弱いんだけど、こんなに美味しそうに作ってくれるなら頑張れるよ。それよりこっちに来ないの?」
「え? いいんですか?」
「いいもなにも東堂さんが作ってくれたんだし、せっかくなら一緒に食べようよ。そんな旅館の女将みたいなポーズしないでいいからさ」
「で、では、お言葉に甘えて。お口に合えばいいのですが……」
東堂さんはおずおずと俺の向かいに座ると、心配そうな面持ちでこちらをみてきた。
「食べていい?」
「はい」
「いただきます……」
俺はまず味噌汁を啜った。
うまい。
「うまい」
心の声がそのまま出てきた。
「ほんとですか! よかったです~!」
東堂さんは胸の前で小さく拍手していた。満面の笑みになりながら体を横に揺らしている。
「インスタントじゃない味噌汁なんて久しぶりに飲んだよ。白だしかな? すごい濃厚で美味しいね」
「亡くなったお母さんに教えてもらった作り方なんです」
「料理上手なお母さんだったんだね」
「そうなんですっ! 色々と教えてもらったんですが、私なんてまだまだお母さんに敵わないんですよ。特にお母さんの作る肉じゃがは絶品です! 時田さんにもぜひ食べてほしいくらいです!」
お母さんの話をする東堂さんは一番生き生きとしていた。
未だ箸を持つことすらしてないし、食事を忘れちゃうくらい素敵なお母さんだったってことがわかる。
「また今度お母さんの話聞かせてよ」
「もちろんです! それじゃあ私もいただきますっ」
東堂さんは育ちが良いのか、綺麗な箸使いで幸せそうに食べていた。
俺も久しぶりの豪華な朝ごはんに舌鼓を打ち、気がつけばお皿は空っぽになっていた。
「ごちそうさま。洗い物は俺がやるよ」
「いえ、そんな! だめですよ、家事全般を私がやるって話でしたから」
立ち上がった俺の腕を東堂さんが引っ張ってきた。
「本当にいいの? 昨日は流れというか勢いで決めちゃった感じがあるけど、大学の勉強の負担にならない?」
「勉強には自信があるので大丈夫です。それよりも私は時田さんの負担になりたくないので、仕事以外のことは全部私にやらせてください」
「……そこまで言うなら任せるけど、もし辛かったらすぐ言ってね。その時は役割分担制にするから」
「お任せください! 一生懸命頑張ります!」
ふんすっと鼻息荒く胸を張っていた。
「うん、よろしく。それと話変わるけど今日って何か予定とかある?」
「いえ、特に何もないですけど、どうかしましたか?」
「この部屋に住むってことは隣の元の部屋の整理をしないといけないよね? だから手伝おうかなって思ったんだけど」
「それなら心配不要です。逮捕された叔父は今更罪悪感が芽生えたらしくて、自費でものの撤去とか色々としてくれるみたいなので、私物はこのリュックに詰め込んできました」
東堂さんはそう言ってくすくす笑った。
「じゃあ、後は日用品を買うだけかな。シャワーを浴びて着替えてから出発しようか」
「はい。あ、でも……ごめんなさい、お金がないので立て替えてもらってもいいですか? 必ずお返ししますので……」
「もちろん」
「ありがとうございます! では、私は洗い物を済ませちゃいますね」
「うん、よろしくね」
俺はリビングに東堂さんを残して浴室へ向かった。
まだ9時前だし、時間はたっぷりある。
詳しい話を聞くにはまだタイミング的に早いと思うから、今日はできるだけコミュニケーションを取ってみようかな。
「……年下の女子大生と何話せばいいんだろう」
俺はシャワーを浴びながら苦悩したが、結局何も思い浮かばなかった。
なるようになるとは思えないが、考えても無駄だってことだけは理解したのだった。
◇◆◇◆
歩いてやってきたのは、家の近くのイヨンモールだ。
ここら辺だと一番まともな買い物ができる。
場所は入り口に入ってすぐのところ。
土曜日の喧騒を感じながらも、人混みの隅の壁際にいた。
「まずは何買おうか」
「色々とあるんですが、まずは文房具とか小物がほしいです。実は叔父さんに全部捨てられちゃったので」
「わかった。こっちだよ」
俺は東堂さんよりほんの少し前を歩き始めた。
女の子に必要なものとか全然わからないから案内くらいしかできない。
それに俺みたいな凡人が、東堂さんみたいな若い美人と歩いていたら好奇な目で見られてしまうしね。
今日は完全な荷物持ちとして活躍させてもらおう。
最近は仕事ばかりで運動不足だったしちょうどいいと思う。
少し歩くとショッピングモールの隅にある大きな本屋さんに到着した。隣接した位置に文房具が大量に売られている。
「えーっと……これとこれと、これもお願いします」
東堂さんは真剣な顔で悩みながら、迷わず文房具を手に取りカゴに入れていく。
「こんな感じでしょうか」
一通り文房具を選び終えた東堂さんだったが、選んだ文房具はどれも一番安いものだった。
間違いなく遠慮している。
負い目を感じているのかもしれない。
気にしなくていいのに。
「本当にこれでいいの?」
「はい。私がよく使ってたやつばかりです」
嘘だ。目が泳いでいるし、他の文房具に視線が移っていたのを俺は見逃していない。
「そう。でも、こっちのシャーペンの方が使いやすいよ。ボールペンも細いのと太いのどっちも買おっか。もちろん色も分けてね。蛍光ペンも淡くて綺麗なやつの方が板書する時に楽しいし、ノートだって消費は早いだろうからたくさんあったほうがいいよね。ルーズリーフもあると便利だよ」
「あ、あの……いいんですか?」
「遠慮しないで。俺は君の力になるってもう決めたから」
「っ……」
「会計するから次に行くところ決めておいてね」
東堂さんは目を丸くして驚いていたが、俺はそそくさとレジに向かい会計を済ませた。
気負う必要はない。散々な目にあって、悲しい気持ちになって、頼れる人がいなくて、それなのにまだ女子大生で、俺が東堂さんの立場なら生きる希望を失うと思う。
それでも彼女は目の光を失っていなかった。
僅かな希望であろうと理解しながら俺を頼ろうとしていた。
安易かもしれないけど、俺もその気持ちに突き動かされた。だからそれでいい。それだけでいい。
軽い気持ちで家族みたいなもんとは言えないが、それに近しい関係になれたらいいと思う。
「おまたせ。次に行くお店決めた?」
俺は会計を済ませて東堂さんに声をかけた。
「あ、は、はい……」
「どうしたの? 具合でも悪い?」
東堂さんはベンチに腰掛けながら、さらさらの長い黒髪を垂らして俯いていた。
男性な顔立ちは髪のカーテンに覆われて見えない。
「なんでも、ないです……あの、次は洋服が欲しいです。いいですか?」
「もちろんだよ。2階に行ったら色んなお店があるから気に入ったお店を見てみなよ」
俺は俯く東堂さんに声をかけると、また先導するような形で少し前を歩き始めた。
斜め後ろからついてくる東堂さんの体は少し震えていたが、あえて触れることはしなかった。
だってその理由はわかっていたから。
きっと外に出るのが、人の視線にさらされるのが、奇異な目で見られるのが少し怖いんだろうなって。
◇◆◇◆
一通りの買い物を済ませると、俺と東堂さんは大量の買い物袋を手にしていた。
今はフードコートの片隅に腰掛けのんびり過ごしていた。
「いやぁ、たくさん買ったね。ついでに俺の私服まで選んでもらっちゃって悪いね。見ての通りこんなダサい服しか持ってないから助かったよ」
「いえ、私もたくさん買ってもらっちゃったので……洋服とか日傘とか化粧品とか、色々とありがとうございました」
モノトーンのシンプルな服しか買わないので、女子大生の意見を聞きながら服を変えたのはありがたい。
大学生時代はもう少し服に興味があったんだけど、やっぱり働かなくなると変わってくるもんだ。
「まだ遠慮してる?」
「え、いや……まあ、はい……申し訳なくて」
「買い物中も何度も伝えたけど、本当に気にしなくていいよ。さすがにスーパーカーをねだられたら話は変わるけど、必要なものならしょうがないしね」
俺は笑い飛ばすように言った。
「無駄遣いはしません、絶対に」
「うん。まだ大学生だし、社会人の俺に金銭感覚を合わせるとあまり良くないと思うしね」
余計なお世話だと思うが、大学の同期の金持ちのボンボンが独り立ちしてからそのせいで苦しんだ話を聞いたことがあるので注意が必要だ。
「……その」
「まだ何かあった?」
もじもじとする東堂さんは何か言いたげな様子だった。
一通り買ったと思うけど……文房具に他の日用品に洋服に下着類、食材から何から何まで……あとは何かあったかな?
「あー」
俺は考え込みながらも東堂さんを見ているとあることに気がついた。
彼女の視線の先にあるお店だ。
「アイスが食べたいの?」
東堂さんがしきりに見ていたのは、『13』というアイスクリームのお店だった。
多種多様なアイスクリームが売られていて俺も大好きだ。まあ、大学生以来食べてないんだけど。
「……すみません。ここしばらく甘いものを食べていなくて、甘いものが恋しいんです。大の甘党なのでそろそろ摂取したくて……」
「いいよ。一緒に選ぼっか。俺もちょうど甘いものを食べたかったしね」
「わぁぁ……っ! ありがとうございますっ! そ、その! ダ、ダブルにしても!?」
「当然OKだよ。俺もダブルにするつもりだったしね」
「やった! 行きましょう! 並びましょう!」
俺は東堂さんに引っ張られて、お店の列に並んだ。
土曜日の昼時だからか、家族連れなんかが多くてかなり混んでいる。
人気店だし子どもは大好きだもんな
それより、何にしようかな
久しぶりすぎて自分がどのアイスを好きだったかのかすら忘れたな。
「続いての方、どうされますか?」
そうこうしているうちに順番が回ってきた。
「ダブルを二つお願いしたいんですが……んー、東堂さんは何にするの?」
「私はチョコクッキーとパチパチのやつですね。昔からこれしか食べてないんです」
「あー、定番だね。じゃあ俺はレモンとストロベリーにしようかな」
「かしこまりました。カップかコーンで選択できますが?」
店員さんが俺たちを交互に見やる。
「俺はカップで」
「私もカップでお願いします」
「では、お会計はお隣でお願いします」
人気店だからこそ回転率が高い。
あっという間に会計を済ませると目当てのアイスがすぐに出来上がったので、俺は東堂さんと一緒に席へ戻った。
東堂さんはずっとソワソワしていて、今か今かと食べるのを待ち侘びている。
「……っ……美味しそうです」
まだ食べない。
「食べないの?」
「え、いいんですか?」
「いいも何も、早く食べないと溶けちゃうよ?」
「……先に食べてください」
東堂さんは自分のアイスを凝視して息を呑んでいた。
また遠慮してるらしい。
食べたいのに、俺が許可を出さないもんだから我慢しているんだ。
まるで「待て!」と言われた忠犬のようだ。
「お先にどうぞ」
「……では、お言葉に甘えて。いただきますっ!」
東堂さんはスプーンですくったアイスを口に運んだ。
その瞬間、顔がとろけた。
幸せそうに笑いながら、くねくねと体を揺らしている。
本当に甘党らしい。
「どう?」
「お、おいひぃですぅ!」
「よかった」
東堂さんが幸せならそれでいいや。
俺も食べよ。
「うん、やっぱうまいな」
ワンコインで買えるアイスとしては最上級だと思う。味も値段も提供スピードもピカイチだ。
「……あの、レモンとストロベリーも美味しいんですか?」
「うん。定番の味だからこそ美味しく感じるよ。もしかして食べたかった?」
「い、いえいえ! そんなことは……思ったり、思わなかったりですけど……」
口ではそう言っているが、東堂さんは俺のアイスをジーーーっと見つめ続けていた。
見た目は物静かな大和撫子系の雰囲気だけど、内面は素直で感情豊かで接しやすい。
「分けてあげる。せっかくならシェアしたほうが美味しいからね。ほら、口開けて?」
「え? えぇ!? えーっ!?」
「あ、ごめん。俺が口つけたスプーンだと嫌だよね。待っててよ、店員さんから新しいスプーンもらってくるから」
東堂さんがギョッと驚いたことで俺は自分の過ちに気がついた。
これじゃあ間接キスになってしまう。ほぼ初対面の男が相手なのはさすがに嫌だろう。
心のどこかで妹のように思って接していたが、実のところ俺は一人っ子だから距離感が掴めない。
「あ、あの! 時田さん!」
「なに?」
立ち上がったところで東堂さんが呼び止めてきた。
「別にそのままで大丈夫です、よ……?」
尻すぼみに言葉が小さくなっていく。顔がほんのり赤くなっているから恥ずかしいんだと思う。
無理はさせられないな。
「じゃあ、よかったら東堂さんのスプーンで食べてよ。まだ手付かずな部分も多いからさ」
一番の解決策はこれだった。
俺は無頓着だから気にしないタチだが、やっぱり女の子は違うのだろう。
「で、では、失礼します」
東堂さんは俺のアイスをすくってパクッと頬張った。
うん、幸せそうだね。
でも少し溶け始めてるから急いで食べないと。
「あの、時田さんは私のアイスいりますか?」
「ん? いや、俺はいいよ」
「そ、そうですか……」
東堂さんは少し眉を顰めているが、それ以上は特に何も言うことなくアイスを食べ進めていった。
俺も本当は食べたかったけど、まあ仕方ない。
久しぶりに甘いものを食べたっていうし、せっかくなら独り占めしてもらいたいしね。
というわけで、アイスはうまかった。
あっという間に食べ終えた俺たちは席を立った。
「帰ろっか。疲れてない?」
「アイスでエネルギーチャージできたので元気になりました!」
東堂さんは胸の前で拳を握りしめたが、その表情には若干疲れの色が見えていた。
まともな外出すら久しかったのかもしれない。それも見知らぬ男と二人だなんて疲れるに決まってる。
「外は暑いからスポドリを買っていこっか」
「助かります」
俺は東堂さんと並んでフードコートを後にした。
それから自販機でスポドリを買ってから外へ出た。
「……暑いですね」
8月の下旬はまだまだ夏日だ。
俺は営業で走り回ったりしているから慣れたもんだが、きっと東堂さんは違う。
今も足元が少しおぼつかない。
荷物が重いんだ。まとめてたくさん買いすぎた気がする。でもまあ、全部一人で持てなくもない量かな。
「荷物、もらうね」
俺は東堂さんが両手に持つ買い物袋を全部奪い取った。
「え?」
「代わりに買ったばかりの日傘をさしてよ」
「……わかりました」
東堂さんは不服そうな、不思議に思うような、ちょっと曖昧な表情だったが、言われた通りに買ったばかりの日傘をさしてくれた。
「あー! めっちゃ涼しいね。助かるよ」
体感気温が5度くらい下がったと思う。
でも、一つ欠点もある。
「ごめんね、こんなに近く歩いたら汗臭いよね」
「いえ! そんなこと全くないので大丈夫です! それよりも私の荷物を全部持ってもらっちゃって申し訳なくて……」
俺が笑い飛ばして言ったのに対し、東堂さんの頬には涙が伝っていた。言葉と震えて鼻を啜っている。
「泣いてるの?」
「はい……嬉しいのに申し訳ないのもあって涙が出ちゃいました」
「そっか。でも、しょうがないよ」
「……しょうがないですか?」
「うん。だって辛い目にあったばかりだし、しばらくは不安定なままでいいんじゃない? 落ち着いたら元の自分に戻ればいいし、俺は他人なりに理解してるつもりだからサポートするよ」
我ながら良いことを言えたつもりだった。
しかし、東堂さんは日傘の持ち手を強く握りしめるばかりで口をつぐんでいた。
変な空気感ではない。ただ夏のじめってした暑さに加えて、俺の全身には妙な汗が流れていた。
昼過ぎに部屋に戻ると、東堂さんはシャワーを浴びて早々に眠ってしまった。
買ってきた部屋着は着ずに、昨夜俺が用意した半袖短パンを着ている。
なんでかはわからない。
ただ、今は疲れているだろうからそっとしておく。
「はぁぁぁぁ……冷静になってみると大変なことになったなぁ」
まさか26歳にして年下の女子大生と一緒に暮らすことになるとは思わなかった。
しかも相手は元々は隣人で、経緯はそれとして俺が助けた相手だ。
大丈夫だよな……捕まんないよな?
成人は18歳からだし、いきなり警察が来て逮捕されるとかないよな?
そもそも東堂さんって何歳なんだ?
不安だ、不安すぎる。
でも、それを考えたところでどうしようもない。
「……それよりも俺の理性が心配だ」
東堂さんの寝顔を見て息を呑んだ。
すごく美人だ。
顔立ちが端正すぎる。人気モデルや売れっ子女優と言われても遜色ないレベルだろう。
肌はシミひとつなくて真っ白だし、化粧っけがないのに目がぱっちりしていて完成されている。
おまけに身長もそこそこ高くてスタイルも良い。
性格だって素直で感情豊かで、人を思いやれるタイプの良い子だ。
欠点がなさすぎて怖いくらいの女性だった。
正直、仲良くなるにつれて変な感情が芽生えた時、俺は罪悪感に押しつぶされてしまうと思う。
純真な気持ちで助けを求めてきたこの子のことを考えたら、理性を保てたくなった俺はおかしくなってしまう。
だから、心に留めておかないといけない。
何があっても傷つけない、何があっても手を出さない、何があっても理性を保て。
「……落ち着け。シャワー浴びて勉強でもしよう」
俺は一つ深呼吸を挟んでから立ち上がった。
そそくさとシャワーを浴びて汗を洗い流し、こっそり買っていた本を手に取り読み始める。
恥ずかしいことに俺は女性経験がほとんどないし教養もないから、DVのことなんてきちんと知らなかった。全く関係ないことだと思っていた。
この機会に学んでおくことにする。
心中は傷ついているであろう東堂さんのために。
◇◆◇◆
私は東堂琴音です。
一年前にお父さんとお母さんを事故で亡くし、引き取ってくれた父方のお爺ちゃんとお婆ちゃんは病気で倒れてしまいました。
母方のお爺ちゃんとお婆ちゃんはだいぶ前に亡くなっているので、もう私が頼れる身内は残されていませんでした。
そんな時、叔父さんが現れました。
十何年も顔を出していなかったのに。
叔父さんのことはよく覚えていました。
若い頃から小さい会社をいくつか経営していて、忙しいと理由をつけて親戚とは会おうとしない人だってお母さんが言ってました。
お母さんとお父さんのお葬式にも来ていないくらいです。
そんな人が急に現れたのです。
「よう、琴音」
馴れ馴れしい挨拶は苦手でしたが、無視するわけにもいきませんでした。
「……こんばんは、叔父さん」
「行く宛がないんだろ?」
開口一番の言葉がそれでした。
「はい」
「セカンドハウスに使ってる小さいマンションの一室を使っていいぞ」
「……」
「不満か? 無料で一部屋借りれるなんて破格だろ? お小遣いなら毎月くれてやるし、大学のお金だって出してやる。どうだ?」
「…………お世話になります」
私に断る選択肢はありませんでした。頭を下げることしかできません。
「そうか。鍵はこれだ。私は忙しいから顔を出すことはない。何かあればここに連絡してくれ。ではな」
叔父さんはそれだけ言い残していなくなってしまいました。
私の手には一本の鍵とメモ用紙だけが握られていました。
これが叔父さんとの再会でした。
この時の私は叔父さんの助けを借りながらも、一人寂しく暮らすものだと思っていました。
しかし、そんな現実はたった数ヶ月で変わり果てるものとなります。
叔父さんのセカンドハウスのマンションに暮らし始めて半年ほどたったある日、叔父さんから電話がありました。
「珍しいですね……もしもし」
私はスマホを耳に傾けました。すると、すぐに叔父さんの怒声が響いてきたのです。
『琴音! 今日から私もそちらで暮らすことになった! 美味い飯を作って風呂を沸かしておけ、いいな!』
言うだけ言って電話が切られてしまいました。
当時の私は叔父さんの冗談か何かだと思い真剣に考えていませんでしたが、その日の夜になると考えが一変しました。
叔父さんは帰宅して早々に玄関ドアを蹴り付けると、頭を掻きむしりながら部屋に入ってきました。
「くそ、くそくそくそくそくそ! なんでうまくいかなかった!?」
狂気じみていました。声が掠れ、目が血走り、スーツは乱れています。
横柄ながらも堂々とした叔父さんの姿はありませんでした。
「あ、あの……叔父さん?」
「あぁ!?」
「っ……」
明らかに様子がおかしかった。顔が真っ赤でお酒臭いのです。
「なんだ? 居候の捨て犬女」
「……」
酷い言われようでしたが間違っていないので何も返せませんでした。
「用がねぇなら話しかけんな……おい、風呂が沸いてねぇじゃねぇか。どうなってんだ?」
「ご、ごめんなさい。最初の電話は冗談かかけ間違いかと思ったので……」
「私のせいにするのか!?」
何を言っても怒鳴られました。
その度に私の精神はすり減っていき、緊迫した空気を吸うごとに怖い気持ちになっていきました。
「……チッ、もういい。寝る」
「朝は何時に起こしますか……?」
「起こすなッ!」
「は、はい」
叔父さんは寝室へ向かって扉を閉め切りました。
私のベッドで寝るみたいです。
「……どうしたんでしょうか」
偉そうで変わった人ではありましたが、実害があるようなタイプではなかったはずです。
実に半年ぶりに会ったので、その間に何かがあったのでしょう。
セカンドハウスのここに来るくらいですから、それも大きな何かがあったのかもしれません。
とにかく、私の日常が著しく崩れ始めたのはこの日からでした。
次の日の朝は「なんで起こさないんだ!」と理不尽に怒鳴られ、お昼ごろになると「昼食を作れ!」と命令され、夜になると「風呂を沸かせ!」とか「足を揉め!」とか、まるで奴隷のように扱を使われました。
その度に叔父さんは度数の高いお酒を浴びるように飲み、次第にその行動はエスカレートしていき、ついに一週間が経った頃には物に当たり始めました。
「くそくそくそ! どうなってんだ!」
叔父さんはどこからテーブルや椅子を破壊したり、壁を殴りつけたりドアを蹴り飛ばして穴を開けてました。
明らかに常軌を逸していました。
私はただ部屋の隅で小さくなり、叔父さんの視界に入らないようにすることしかできませんでした。
そんな時、叔父さんは包丁を手に持ち私の元にやってきたのです。
「おい、これからどうするかわかるか?」
「……いや……やめ、やめてください!」
いきなりのことに私の恐怖は一瞬にして限界を超え、声をならない声を上げました。
そんな私を見た叔父さんは楽しそうに舌なめずりをすると、ヘラヘラと笑いながらこちらを見下ろしてきました。
一貫の終わりかと思いました。
しかし、そこへ救世主が現れたのです。
「……んだよ、こんな時間に! チッ、そこで待ってろ!」
深夜0時だというのに、インターホンが鳴りました。
傲慢でプライドの叔父さんは少しでも自分をよく見せたいタイプなので、文句を言いながらも軽く身なりを整えて玄関先へ歩いていきました。
リビングの戸は閉められているので玄関先で何を話しているのかまでは聞こえません。
ただ、おっとりした落ち着く男性の声と、苛立ちながら丁寧語を話す叔父さんの声が耳に入ってきました。
それから少しすると叔父さんが戻ってきました。
「ベランダに大事な資料なんて飛ばしてんじゃねぇぞこの野郎」
何を話していたのかわかりませんが、叔父さんはなぜかベランダに出ました。
しかし、すぐに戻ってきました。その表情は苛立ちを隠せなくなっていて、眉間によった皺と歪んだ口元を見たら誰にでも感情がバレてしまうことでしょう。
「ったく、あいつ隣の角部屋のやつか。冴えねぇ顔でおかしな真似しやがって」
叔父さんは再び玄関先へ向かいました。
その瞬間。不意に窓の外に視線をやると、そこにはなんとパトカーが止まっていたのです。
音もなくサイレンだけを回したパトカーからは二人の警察官が降りてきました。
え? 一体誰が……叔父さんのことを通報した人がいるのでしょうか?
私は戸惑い何もできませんでしたが、そこからは早かったです。
「お部屋見させていただきますね~」
「や、やめてください! 警察でも勝手に入るのはまずいんじゃないですか!」
玄関先には警察官が来ていて、それを必死に止めようと叔父さんの声が聞こえてきました。
しかし、叔父さんが警察官を止められるはずもなく、すぐにリビングへ警察官が入ってきました。
「……あ、あの……助けて、ください」
蚊の鳴くような声しか出ませんでしたが、私の言葉を聞いた警察官は目の色を変えて叔父さんを挟み込みました。
結局、叔父さんはその場で警察官から詰め寄られると、こうなった経緯や諸々の事情なんかを全て白状しました。急激に酔いが覚めたみたいです。
叔父さんはパトカーに詰め込まれて連行され、私も事情聴取を受けるために別の場所へ移されました。
最後に見た叔父さんは申し訳なさそうに頭を下げていましたが、私は謝罪を受け取らずに睨みつけてやりました。
お父さんとお母さんからは「誰に対しても敬意を払いなさい」と教えられてきましたが、さすがに叔父さんに対しては守れない約束でした。
「……怖かったです」
事情聴取や色々なメンタル面の検査の終えた時には、もう一ヶ月近くの時間が流れていました。
行く宛はありませんでしたが、検査入院していた精神病院を退院させられてしまいました。
警察としても衣食住の保証はできないみたいで、ここからは一人で生きていくしかないと暗に言われました。
「どうしましょうか……」
手元にあるのは充電の切れたスマホと2度と戻りたくないあの部屋の鍵、そしてちょっとした着替えと日用品くらいです。
財布はありますが、お金はもちろん持っていません。叔父さんが来てからは使用を制限されていましたし、お小遣いを貯めていた分のお金も全部なくなりました。
なんとかしないと野垂れ死ぬことは確実です。
「頼れる人、頼れる人……やっぱりいませんよね……」
時刻は夜の8時くらい、私はあの部屋の前でしゃがんで考え込んでいました。
いくら考えても何も現状が変わることはないのに、ずっと考え込んでしまうのです。
まるで目に見えない空気を手で掴み取ろうとするように……
「はぁぁぁ……」
私は途端に自分のことが嫌になってため息をこぼしました。
するとその時、エレベーターが5階で止まりました。
「あー、疲れたぁー」
エレベーターから降りてきた男性は、俯きがちで歩きながらぼそっと口にしました。
あの人……
私はこの男性のことを知っていました。
この方は私の救世主です!
命の恩人です!
全部を捧げても良いと思えた人です!
「と、時田さんですか!?」
考えるよりも先に駆け出してました。
名前は時田宗利さん。私より年上の男性で、おっとりした口調と物静かな雰囲気、優しい言葉遣いが印象的です。
何度か見かけたことはあります。向こうは覚えていないみたいですが。
それでも、私は時田さんを頼るしかありませんでした。
本当に、本当に、本当に、頼れる人がいないんです。
だから、ああやって出会えたのは奇跡であり運命でした。
まだ少し緊張していますし、どうしても遠慮してしまう気持ちは強いですが、時田さんのことは嫌いじゃありません。むしろ、好きな気持ちが強いです。
「……私、時田さんのために頑張りますから、これからもよろしくお願いしますね?」
私は床で眠る時田さんの寝顔を見ながら言った。
すると、見計らったかのように時田さんが目を覚ましました。
「……いい匂い」
「おはようございます。もうすぐ朝ごはんができるので顔を洗って待っててください」
素敵な朝が始まりました。私にとって、これは正真正銘の再スタートなのです。
時田さんはまだ私のことをどうにも思っていない感じがしますが、私の心はたった1日で変わりつつあります。
これから一緒に歩んで行きたいと思えるくらいには……。
隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?) チドリ正明 @cheweapon
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