第3話 海辺の町から

 女子大生の大橋は、砂浜町から地元へ返るための切符を大切に上着のポケットへしまった。

 車窓から見える景色は次々と流れ去り、列車は大橋を砂浜町から遠ざけていく。

 大橋は疲れていた。大橋はこんなことを考えていた。

 今日でやっと大学の授業が終わった。単位はなんとか取った。それで十分だろう。私はもともと、そんなに出来のいい人間じゃないんだから。にしても、次の大学の課題、憂鬱だなあ……。

 砂浜町なんてもうたくさんだ。あそこには海と砂浜しかない。田舎だし、店も少なくて不便だし、何より人が少ない。まあ、だからといって、地元にはたくさん人がいるというわけでもないけれど。

 海辺の町だったら、本に出てくるあの夢の島へでも行けたらいいのにな。できるわけない。そんなことは分かっている。ちょっと考えてみただけだ。

 それにしても、この車内本当に臭いな。公共の乗り物特有の独特の臭いがする。酔うのも時間の問題だ。早く気分を紛らわしたい……。

 ガラスの車窓を通る光が屈折して、広げた簡易テーブルの上に小さな虹を作っている。あいにく、そんなものを見てはしゃぐ年齢はとっくに過ぎてしまったけれど、車内の臭いから気分を紛らわすために、大橋はそれを見つめ続けた。何も見るものが無いよりは、助かる……。

 大橋は、ぼんやりとそれを見つめ続けているうちに、不思議な感覚になってきた。何かを思い出しそうだ。でも、何を?

 そしてその感覚と同時に、強烈な睡魔が大橋を襲った。眠ってしまえば、酔うこともない……。大橋は、睡魔に逆らうことなく、むしろそれに身をゆだねた。でも、なんだろうこの感覚。あと少しで思い出せそうなのに……。

 気づくと、大橋は暗い海の中に立っていた。膝から下がすごく冷たい。底は浅く、足が届いていた。大橋は浜の方へ歩いて行こうとした。だが、

「行くな!」

 後ろから、声が聞こえた。振り返ると、そこには一人の小さな少年がいた。少年も、冷たい海の中にいる。顔はよく見えない。

「その先は、今のあんたが行くべきところじゃない。あんたが行くべきところは、別にある。あれを見ろ!」

 少年はそう言うと、空を指した。

 夜空に、何か大きな影が見えた。ちょうど、雲に隠れていた月が顔を出して、大きな影を照らし、正体を明らかにした。

 見覚えがあった。それは、大きなクジラで、背中に大きな木が生えていた。

 大橋彩花は、全てを思い出した。あの菜の花遠足も、桜の木の下で見た虹のことも、シャラのことも、シャラと作った虹のことも。

 ここは、あの世界。あの島の浜辺だ。でも、砂の道がない。

 彩花は、慌てて少年を見た。その少年の顔を、月が照らし出している。

 少年は、藤色の瞳をしていて、黒髪で、子供ながら綺麗な顔をしていた。彼は、見た目は全然違うが、どこか雰囲気がシャラに似ていた。

「シャラはどこにいるの?あの図書館は、まだあるの?」

 彩花は、息急き切って少年に尋ねた。少年は、冷静な顔で言った。

「島も図書館もまだある。ただ、シャラはもう、司書を勤めることができなくなった。俺は、シャラの代わりに、ここにいる。こうしている間にも潮は満ちてくる。時間がない。あんたに言うべきことがある。黙って聞いて。図書館に、新しい本が来なくなった。それもこれも、『自由の国』が『自由』じゃなくなったからなんだ。見て。クジラの背負う桜の木を。もう長いこと花をつけていない。それもこれも、あんたのせいだ。」

 言われて、彩花はクジラの背中を見た。なるほど、確かに、桜の木は真冬のそれのように、花をつけていなかった。でも何故、それが自分のせいだというのか。

「あんたのせいだよ。あんたが、『かく』ことをやめたから。」

 初め膝まであった海水が、腰のところまで来た。本当に、時間がないようだ。

「どういうこと?」

「あんた、シャラや俺のことを、『かく』ことをやめただろう」

 冷静な顔つきだった少年が、初めて顔を歪めて言った。

「シャラ?シャラはともかく、あんたのことなんて、私知らない……」

彩花は言った。

 確かに、昔は日記にシャラのことを書いた。絵まで描いた。でも、『かいた』ところでシャラには会えなかった。何度会おうとしても、この島へは来れなかった。それで、馬鹿馬鹿しくなって、彩花は、その日記を捨てた……。

「『かいた』か、これから『かく』はずなんだよ!だって俺はここにいるんだから。でも、もうじき消える。いいか、よく聞いて、ここは『自由の国』と現実世界の境目だ。そしてあのクジラの上の『自由の国』ってのは、あんたの『自由の国』だ。あの桜の木は、あんたの『自由の木』。あんたの頭の中なんだ。シャラや俺は、あんたの頭の中で作られた。図書館の本もそうだ。あそこは、あんたの知識や想像なんかを収蔵している。なのに、最近全然本が入ってこない‼︎どうなってるんだ‼︎知識はともかく、百歩ゆずってともかくとして、なんで想像、『物語』や『絵』が入ってこないんだ‼︎勉強しないどころかあんた、創作までサボってるのか‼︎」

 何を言ってるんだこの少年は。かわいい顔して、説教かよ。先生じゃあるまいし。

 少年は彩花の思考を読み取ったかのように、

「真面目に聞けよ!俺消えるんだぞ⁉︎それでもいいのか⁉︎いや、今のあんたは俺を知らないのか。それはまだ聞くまい。でもさ、あんた最近ちょっと変でしょ⁉︎どーいうつもり⁉︎まさか、俺達だけじゃなく、あんたごと消えるつもりなんじゃないだろうな!そんなことしてみろ‼︎許さないからな‼︎シャラもきっと許さないって言う‼︎」

 今や海水は胸の位置まで来ていた。

「わかったか?あんたの行くべきところはあんたの島の図書館じゃない。現実世界だよ。さっさと帰れ。帰って、早く新しい物語を完成させろ‼︎何作、出来そこないの本や画集がこの島にあると思ってる⁇全部完成させるまで、この島には来るな‼︎せめて、あんたの『自由の木』をいっぺん咲かせてこい‼︎いいか、これは『課題』だ……ガハッ」

 胸から、だんだん首へと海水が押し寄せて来る。彩菜より背の低い少年は、もはやあごのあたりまで水が来てしまって、海水を飲み込んでせきこんだ。男の子は、苦しそうに続けた。

「さっさと帰れ。幸い、シャラから虹を預かって来ている。あんたが昔、シャラと作って消した虹を、シャラが復元してくれた……。こっちをちゃんと見ろ‼︎俺の目を見ろ‼︎」

 少年が、強い声でそう言ったので、彩花は少年の目にいやでも釘付けになった。それから、不思議なことが起こった。

 少年の藤色の瞳が、やけによく見えた。そして、なんと言うんだっけ、あの、虹彩とかいうやつまでもが、よく見えた。綺麗な虹色だ。

 強いショックを受けて、彩花は目を覚ました。そこは、列車の中だった。ショックは、単なるデカい車内アナウンスから来たものだった。

「次は、菜の花町、菜の花町」

 なんだ、夢か。

 夢で良かったと思った。だって、起きたら目の周りが濡れていたから。

 夢だとわかっている。なら、忘れればいい。

 なのに、彩花は、あの夢のことをすぐには忘れられなかった。

 彩花は、実家に帰った後、久しぶりに菜の花畑へ行ってみた。今は、まだその季節じゃないので、何も咲いていない。あの桜の木も、花をつけていなかった。

 春休み中、小学校の時の担任の先生から連絡があった。長い間預かって返しそびれていた提出物を返したいので先生のうちまで来てくれとのとだった。

 捨てればいいのに、そんなもの、と思いながら彩花は先生宅へ伺った。

 先生が取り出したのは、一枚のテスト用紙だった。

「こんなもの返さなくてもいいのに……」

「まあまあ、よく見てちょうだい!」

 テスト用紙は国語で、まあまあ良い点を取れていた。やるじゃん、昔の私。

「裏を見て」

 先生がそう言うので、彩花は紙を裏返した。途端、度肝を抜かれた。

「何……これ」

 それは、裏面いっぱいに描かれた、ラクガキだった。

「すごいでしょ〜。先生、これ見つけた時に感動したのよね」

 彩花は、まじまじとそのラクガキを見つめた。そのラクガキは、いわゆるお姫様とピエロのようだった。子供ながらに、お姫様のドレスやピエロの衣装を細かく描こうという努力が見受けられる……。でも、顔は……。……なんか、あれだな。この二人、どこかで見たような……。全く似てないけど……、雰囲気が……。

 先生は、考えている彩花に向かって言った。

「すごいわよねぇ。この二人の物語、完成したの?」

「え?」

「あなた、絵日記にこの二人の物語かいて、提出してたじゃない。あれ、返却したけど、まだ家にとってあるわよね?」

「絵日記……?」

「あなた、この二人のこと、よくかいてたのよ。二人とも、いい名前がついてたのよね。何て名前だったかしら?お姫様の方は、あなたが出会ったお友達が前身だったわね。たしか外国の方で、ザラとか、サラとか……」

「……なるほど」

 そうか、そういうことだったのか。


「大橋、何描いとるん?」

 声がして、彩花は顔をあげた。ここは、春休み明けの大学の制作室。彩花は、大きなキャンバスを前に座り、筆を握っていた。声の主は、同級生の馬場さんだった。

「絵だよ」

「そんなん見りゃわかるわ。これ、なんの絵?」

「姫とピエロ」

「ふーん、なんでこういうの描こうと思ったん?」

「課題だからね」

「まあ、そりゃそうやろうけど。そういえば大橋、小説も書くんやろ?」

「うん」

「大変やね。頑張ってな。あたしも気合い入れてこ」

 そう言って馬場さんは歩き去って行った。彩花は、少し休憩を取ろうかな、と立ち上がり、ふと窓の外を見た。

 制作室の窓の外には、桜の木が植えられている。その木は、少しずつだけれど花を咲かせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虹の記憶 おれんじ @orange_77pct

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ