水の記憶
敷島 怜
水の記憶
「ママー、あの雲ミミズみたい!」
母親は幼い息子の指さす方を見上げた。晴れ渡ってどこまでも透き通る秋空を見ていると、水底を覗き込んでいるような気分になってくる。ゆっくりと流れてゆく魚影の群れのような雲の中に、ひとつだけ違う方角へと動いている雲がある。ずんぐりして、なんだか太ったシラスみたい、と母親は思った。
「飛行機雲? にしては短いな……え?」
その雲の真ん中あたりのところに、ぼんやりとした卵型のものが見える。あれって、なんだかまるで……人の顔?
*
九州――とある地方の山の中。
国道とは名ばかりの、普通乗用車同士がやっとすれ違えるような細い道が、くねくねと山肌を這うように登ってゆく。その途中、峠の中ほどあたりの左手に、枝分かれしたけもの道が見える。
そこから入ってしばらく進むと、古びて苔むした小さな石の鳥居が行く手に立ちはだかる。だがその先には、神社はおろか、いかなる建造物も見当たらない。ただ小ぢんまりした滝と、その流れを受けて深い碧色の水を湛える淵があるのみ。
滝の高さは五メートルほどで、水は稲光の形をした滑り台のように左右に揺らぎながら落下している。シャラシャラと小鈴が転がるような響きを奏でる落水の音は、聴く耳に気だるい眠気を誘う。
淵の周りはブナやシイやタブなどの鬱蒼とした木立が取り囲み、昼間でも薄暗い。その印象は、良く言えば神秘的、悪く言えば不気味。そして地元の人間の意見は、圧倒的に後者が多かった。
なぜなら、この淵には不吉な言い伝えがあったからだ。
昔むかし、鎧を身に纏ったツワモノどもが国盗りの野望を胸に抱いて野を駆け回っていた頃――この淵のそばには処刑場があった。戦さで敗れたツワモノたちは此処で斬首され、血まみれの首はこの淵の水で洗い浄められたと言われている。その際に、うっかり手が滑りでもして首が淵に落ちると、その首は二度と見つからなかった。
それが幾度も重なるにつれ、いつしか人々の間にはまことしやかな噂が浸透していった。この淵の底には魔物が棲んでいて、近づいた人間の生首を獲って喰うのだと。恐れを抱いた人々は、石の鳥居を祀って、この淵に近づくのを禁忌と定めた。だが実際のところ、この淵にいるのは恐ろしい魔物などではなく、一匹の白いミズチだった。
ミズチとは、水に棲む妖魔の一種である。蛇が五百年生きるとミズチになる。ミズチが千年生きると龍になる。
「蛇と龍の中間の生き物」という位置にあるミズチの姿は、「蛇に手脚と角が生えたもの」とされていた。
この淵に棲むミズチも、三メートルほどの身体の両端近くに短い手と脚がニョキッと突き出し、頭には羊のような螺旋状に渦を巻いた短い一対の角を持っていた。全身を覆う白いウロコは、上半身は普通の蛇のように頭から尾へと向かって生えているが、身体の真ん中から下に生えているのはすべて逆方向の逆鱗だった。両の眼は熟した
手脚の爪は前を向いたものが三本、後ろ向きが一本の合計四本。鳥の脚に似たそれは、鷲や鷹などの猛禽類よりもニワトリの脚を彷彿とさせた。まるで、子供が粘土を捏ねて造った、蛇とも龍ともつかぬ滑稽なオブジェ――それが、このミズチの全身像から受ける印象だった。
このミズチは、ミズチになってからおよそ八百年の歳月を生きていた。蛇であった前世も含めると、千三百年になる。
龍になるまでのあと二百年という時間は、ミズチにとってはそう長いものではない。それまではこの棲み慣れた淵でのんびり過ごそうと、深い水底でとぐろを巻いて惰眠を貪る日々を送っていた。
ある月のない真っ暗な晩のこと。
ポシャン、という水音に続いて、何か丸いものが淵に落ちてきた。それを眼の隅でチラッと見たミズチは、身をくねらせながらあくびをするように大きく口を開けた。顎の二つの関節が連動して上顎と下顎が一直線になる。落ちてきた物体を、キャッチャーフライを受けるミットの如くバクッとくわえると、下顎が風船のように異様に大きく膨らむ。下顎の骨は左右に分かれて靭帯で繋がっているだけなので、自分の頭よりもはるかに大きい獲物でも丸呑みにすることができるのだ。
「プフゥ……何十年ぶりだろうか、最後に喰ってから、もう百年にはなるか……この淵にニンゲンが落ちて来なくなって久しいからな」獲物を呑みくだしたミズチは満足げに呟く。
落ちてきたのは、まごうことなき人間の生首だった。
ミズチにとって、人間の首を喰うのは生命を維持するためではない。すでに生物を超越して神仙の領域に近づきつつあるその生態は、摂食、排泄、生殖などの営みからは大きく逸脱していた。滝や淵から立ち昇る水の
それでもこのミズチは、人間の首を喰うことを好んだ。それは人間がタバコやコーヒーを嗜むのと似ていた。人間の脳の中にある〈水に関する記憶〉を自分の脳内に再現して眺めること――それがミズチの唯一の趣味だった。
久しぶりに入手した貴重な珍味をよく味わおうと、岸辺にある大岩の上にとぐろを巻いて、ミズチは眼を閉じた。体内をゆるゆると移動する首に神経を集中し、その脳内へ、熱したナイフをバターに刺し入れるように、ヌルリと侵入する。瞬時に、ミズチの脳内へ夥しい映像と音が流入してきた。
「な、なんなのじゃ、これは!」今まで見たことも、聞いたこともない情報の洪水が、怒涛の勢いで押し寄せてくる。
長い年月を淵の底に引き籠っていたミズチにとって、その世界はあまりにも騒がしく猥雑で、得体の知れないものだった。まるで突然大都会の雑踏に放り込まれた縄文人のように、溢れかえる情報の津波に呑まれそうになる。
「いかん、悪酔いしそうじゃ。水の記憶だけに意識を集中せねば」頭をプルプルと振った。
やがて膨大な記憶の海の中から、お目当ての情報を引き揚げるのに成功した。ミズチの脳内に、その首が生前体験した〈水の記憶〉が映し出される。
「これは……」ミズチは息を飲んだ。
脳内に広がる風景は、今まで観た人間たちの記憶とはかけ離れたものだった。
――いにしえの塩坑を懐に抱く大山脈の、深奥部にひっそりと眠る天空の湖、山裾の断崖にへばりつくように広がる湖畔の街。
――眼が眩むような陽射しの下、翠玉色の海に突き出した長い桟橋、藁葺き屋根の東屋、そよぐ風に揺れる椰子の葉。
――渓谷の斜面に沿って棚田のように階段状に連なる百を超える池、それらの池と池をつなぐ滝、風がさざ波を蹴立てて水面を走り抜けてゆく。
――数百年の時を刻んで流れる氷河が地響きをたてて水面へと崩落する瞬間の豪快な水しぶき、一切の不純物が取り除かれた真なる水の色。
すべてが荘厳で神秘的。その幻想のような美しさに、ミズチは魂の根っこを掴まれて激しく揺さぶられるような衝撃を感じた。
そして何よりも圧巻だったのは、地平線いっぱいに連なるかのような広大な滝だった。激しい落差から生じる靄のような水煙が立ちこめて、水面を白いヴェールで覆い隠す。真上から覗き込むと、濛々と湧き上がる水煙に
その時、下の方から奇妙な音が聞こえた。
「いぐ……あ……す」
見ると、ミズチの腹の真ん中あたりに卵形のシワが浮き出ていて、そのシワの隙間からブツブツと泡がはじけるような音が発生していた。
「な、なんじゃこりゃあ!」ミズチは思わず素っ頓狂な叫びをあげた。
それは、人間の顔だった。瞼は腫れ、眼の下はたるみ、口はへの字に引き結ばれた、見るからに不健康で不機嫌そうな男の顔だ。突然、それがカッと眼を見開く。シワの口にあたる部分がぱっくりと開いて、赤い肉の色が現れた。
「やったー、ついに来た! イグアスの滝……って、夢か? あぁ? なんでおれはこんな池にいるんだ?」しゃがれた声が発せられた。
男の顔は不思議そうにぐりぐりと眼を動かしていたが、上から覗き込んだミズチと眼が合うと
「な、なんだ、蛇か!? でかっ」後ずさりしようとして身体が動かない、どころか手も脚もなく、首さえ動かせないことに気づいて「ひぃぃぃぃぃーーーー!」と悲鳴をあげはじめた。
耳障りなその声に顔を顰めながら、ミズチは遮るように言った。
「静まれ、ニンゲンよ」
「は? 蛇がしゃべった!」
「我はミズチ、龍の眷族にしてこの淵の
種族名:ニンゲン
個体名:
性 別:オス
年 齢:三十六
職 業:夢の売人(零細な悪の組織の末端構成員)
最後の見慣れない単語〈夢の売人〉を調べるために、ミズチは男のこれまでの仕事とやらを軽く脳内再生してみた。どうやらこの男は、他人にニセモノの夢を売りつけて金を騙し取る、ちんけな詐欺師らしい。
「ろくなものではないな……まあ、ニンゲンのやることじゃから」プフーーッとため息をもらすとミズチは続けて
「おぬしは首だけこの淵に落ちて、我に喰われたのじゃ。そしてなぜかは知らぬが、我の腹に顕現した」
「いや、意味わかんねーし。なんで頭の上から声が響くんだ?」
「おぬしの頭ではない、我の腹じゃ。水面を見てみよ」
白々と冴え渡る夜明けの光の中で、男は水面に映った自分の姿をまじまじと見つめた。不格好なトーテムポールのように、白く細長い腹板の真ん中に浮き出た、蒼ざめた自分の顔を。
「おれは、死んだのか……? でもなんで蛇の腹?」
「わからぬ。今まで
「そうか、連中はおれをバラしてこんな化け物のいる泥臭い池に放り込みやがったのか! チクショウ!!」
悪態をついて泣き喚く男に嫌気がさしたミズチは、男の頭が冷えるまで腹を水中に漬けたままにしておいた。
しばらくして……ようやく男はいくぶん落ち着きを取り戻した。改めて見ると、生前は顔が長く、彫の深い顔立ちだったようだ。美男子とは決して言えないが、他人の懐にスルリと入り込む、ある種の人懐っこさが漂っている。だがその陰には、何やら不穏な黒いオーラが見え隠れしていた。男はぽつぽつとしゃべり始めた。
「聞かないのか、おれが首だけになった理由を」
「不運な小悪党が仲間割れで淘汰されたのであろう」
「やめてくれないか、ひとの一生を一行でまとめるの」
「なんなら、念仏でも唱えてやろうか?」
「神だの仏だのが何の役にも立たねえことは、とうの昔に経験ずみだ。はぁ……そのクソみたいな人生の行き着く先が、まさか蛇の腹芸になるとはなあ……おれもつくづく運がない」
「それはこっちの言うことじゃ! それに、我は蛇ではない」
ミズチは、自分があと二百年で龍へと昇格することや、〈水の記憶〉を集めるという趣味について、男に説明して聞かせた。
「ミズチだあ? ぱっと見、デカいシラスにしか見えないけど。蛇からミズチ、さらには龍へと進化するってか。つまりあんたは、二回進化の中間のやつ、ポケモンでいうとカイリューの前のハクリューみたいなもんか。うわ、使えねー」
男が並べ立てる呪文のような単語がさっぱり理解できないミズチだったが、自分が馬鹿にされていることだけはなんとなくわかってむかついた。
「あーあ、憧れのイグアスに行けたと思ったら夢で、目覚めたら死んでるし。それどころか蛇の腹に同化してるし」
「その、『いぐあす』とはなんじゃ?」ミズチは男の脳内を検索して調べた。
〈イグアスの滝〉南米大陸のアルゼンチンとブラジルの国境に位置する世界最大の滝。大小二七五の滝の集合体で、幅約四キロメートル、最大落差およそ八十メートル。イグアスとは先住民の言葉で〈大いなる水〉という意味で……
「ほほう、そのようなものがあったとは……千三百年生きてきたが、初耳じゃ。ところで、さっきから気になっておるのじゃが、この四角い線は一体何じゃ?」
ミズチと男の脳内に同時に浮かんだイグアスの滝の映像には、横に長い長方形の枠がついていた。
「ああ、それはテレビだ」
「てれび?」
「このイグアスの滝は、おれが一番気に入ってるブルーレイディスク『死ぬまでに絶対行きたい!! 世界最高の絶景』の中の映像だからな」
次々に飛び出す未知の単語を、ミズチは脳内検索で理解しようとして脳神経のシナプスをフル活動させた。
「つまり、これはおぬしが実際に見た風景ではないのか」
「いつか、死ぬまでには絶対見に行くんだ!」
「おぬしはもう死んでおるがな」
こいつの〈水の記憶〉は全部ニセモノだったのか……ミズチは「感動を返せ」と言いたくなった。まったく、このニンゲンときたら、何から何までニセモノばかり。
「あ、今あんた、おれのことをニセモノと言ったな?」
「む、おぬし、我の脳に侵入したな? なんという恥知らずじゃ、勝手によそ様の脳の中を覗き見るとは!」
「あんたがそれを言うか!」
ミズチは神通力を使って、自分の脳への侵入を防ぐ精神的な防護壁を構築した。
「これでヨシ、と」
「でもさあ、あんただってどうなの? 自分がホンモノのミズチだと、どうしてわかる? ただの、突然変異の蛇ではないと、なぜ言い切れる? ミズチだって証拠はあるの?」
「愚かなことを。ならばその眼でしかと見よ」ミズチは眼を瞑り、空を仰いで精神を集中させた。ミズチの頭上に靄のように薄い雲が発生し、次第に渦を巻いて灰色の雨雲へと成長してゆく。
「雨ごいか!?」男はわくわくしながら叫んだが……いくら待っても一向に雨が降る気配はない。
「で、いつ降るんだ?」
「うむ、降るかもしれぬし、降らぬかもしれぬ。天の気持ち次第じゃ」
「なに、雲集めただけで終わり? つまんねー」
実は、雲を呼んで雨を降らせる術は、龍にならないと使えないのだ。白い頭に青筋を立てたミズチは、無言で空中へと浮き上がった。自分で呼び寄せた雨雲の中にすっぽりとはまり、身をくねらせて気持ちよさそうに雲浴を楽しむ。
「飛んでる! おれは今、空を飛んでるんだ!! アイ・キャン・フライ、ヒューー! これならどこへだって行けるぞ。よーし、イグアス目指してゴー!」眼を輝かせてはしゃぐ男に、ミズチは冷静に言った。
「それは、無理じゃな」
「なんでだよ、行こうぜイグアス」
「おぬしはもうじき消える」
「へ?」
「おぬしの首が身体から切り離されて、どれくらいの時間が経った? おそらく半日は超えているであろう。脳に血流が行かなくなると、脳細胞は壊死を起こしてゆっくりと融解してゆく。すべての細胞が溶ければ、魂も記憶も消滅する。おぬしも、もって今日の日没までであろう」
「おれが……消える?」
「案ずるな、もう死んでおるのだから」
「そんな……せっかく飛べるようになったのに……」
男はすっかり黙り込んでしまったが、ミズチは更に男の記憶を物色する。
「なにか、目ぼしいものはないか……これは、雨の記憶か」
――叩きつけるような雨の中、道路の端に転がる黒い小さな塊。少年の悲痛な叫びが響く「ジャッキー! ジャッキー!」画面がぐらりと揺れ、雨と涙と鼻水が渦巻いて、その中で溺れそうになる。
「あまり美味な記憶ではないな」ミズチは首をひねって、記憶のかけらを振り払った。フワッと浮いた灰色のかけらは、淡い煙のように散って消えた。
その時、男が口を開いた。「行きたい場所がある……連れて行ってくれないか?」
「なぜ我がそのような頼みを聞かねばならぬのじゃ? 外の世界には、いまやおぬしのような煩わしいニンゲンがうじゃうじゃおるのであろう? まっぴらごめんじゃ」ミズチは尖ったしっぽの先で鼻孔をほじりながら言った。
「集めてるんだろ? 水の記憶とやらを。とびっきりの、見たこともないようなやつを見せてやるよ」
「地球の裏側は無理じゃ」
「イグアスじゃない、もっと近く、ここからはそう遠くないはずだ。どうしても、もう一度見たいんだ。あの景色を」
「そこは水に関係あるところなのか?」
「水だらけの場所だよ、海なんだから」
「海など、飽きるほど見たわ。我が何年生きておると思って……」とぼやくのを遮って「ただの海じゃない。見てみろ」
ミズチは男の記憶の最も深い部分から浮き上がって来た、海辺の風景を見た。
「ややっ、これは……」たしかに、ただの海ではなかった。
「自分の眼で、本物を見たいと思わないか?」
ミズチは数百年ぶりに棲みかである淵を離れ、北へ向かって中空高く飛んでいた。
「すごいな! まるでドローンの空撮だ」その腹に浮き出た男の顔は、空から見下ろす景色に無邪気にはしゃいでいる。
だが市街地の上空に差し掛かると、男は急に人の眼が気になってきた。さっきから、下を歩いている母親と幼い子供がこちらを見上げていて、口をポカーンと開けている母親と眼が合ったような気がする。ちょっと気まずくなってきた。
「なあ、もっと高いところを飛べないのか?」
「あまり上昇すると、凍ってしまうぞ」
「ああ、高度が上がると気温は下がるんだっけ」
「左様、我は体温が極端に下がると、眠気を催してくるのでな。それにしても、ずいぶんと様変わりしたものじゃ」数百年ぶりに見る人間の街のわちゃわちゃした様子に、ミズチはため息をついた。男の記憶でちらりと見た時から感じていたことだが、実物はより一層ひどかった。
沿岸部に近づくにつれて、眼下には大きな建物が増えてゆく。だが幸いなことに、このあたりには飛び抜けて高いビルはない。空港が市街地の近くにあるため、高層建築物を建てることが法律で規制されているのだ。
「それにしても、もうちょっと速く飛べないのか?これじゃ日没までに間に合わないぞ」男は焦って言ったが、ミズチは首を横に振った。
ミズチが水中や空中を進む時は、上下方向に全身をうねらせる、水泳のドルフィンキックのような動きをする。そこが左右に身をくねらせて進む蛇と大きく異なる点である。ただし、ミズチのしっぽは蛇と同じく先が尖っていて、イルカのような幅広の尾ひれがなく推進力が弱いため、進む速度は遅い。
龍がジェット機並みの速さで飛べるのに対し、ミズチは全力でも自転車――それもハンドル前部と後ろの荷台に小さい子供を乗せた状態で漕ぐ自転車と同じ程度のスピードしか出せなかった。
「なあ、あんた、なんで水の記憶なんか集めてるんだ?」男は聞いた。
「第一に」頭を反らして「我は水妖じゃからな。水がなければ存在できぬ」ミズチは続ける。
「そしてすべての生き物も然り。水こそが生命の根源である。じゃが、水は定まった形を持たぬ。掴むこともできぬ。あらゆる生き物の身体を内側から形成しておるのに、取り出せば零れて散り、蒸発して消える。我は知りたい。水の様々な姿かたちを。水が存在する真の意味を」
「何言ってんのか、さっぱりわからん。まあ、いいけどべつに」
「おぬしは最後に会いたい相手はおらぬのか? 家族とか、恋人とか」
「いねーし。たとえいたとしても、この姿で行ったらショックで心臓止まるわ」
「うむ、たしかに……」
その時、一陣の突風が北西の方角から吹き付けてきた。ミズチの身体はフワッと浮き上がり、そのままぐんぐん上昇してゆく。
「あ……上昇気流に乗ってしもうた」
「なんだと!?」
周囲の温度は急激に下がり、ミズチの体表に霜が付き始める。パタパタと短い手脚を動かして、なんとか下へ向かおうとするが、努力の甲斐もなくミズチは凍り始めた。
「おい! どーすんだよ、これ」男が必死に怒鳴るが、返事はない。次第に男のまぶたと口は凍って開かなくなってきた。
「起きろ! 寝たら凍死するぞ!」だがすでに、ミズチは冬眠に入りかけている。
「ああ、もう、仕方ねえな! アイ・ハブ・コントロール!」
男はミズチの頭を下に向けると、錐もみ飛行のように旋回しながら地面めがけて突進した。高度が下がるにつれて、ミズチの身体を覆っていた薄氷が溶けて飛び散る。
「はて……?」
ようやく意識を取り戻したミズチは、キョロキョロとあたりを見回した。
「もう少しで冷凍シラスになるところだったぞ」
「我は何をしておったのかの?」
「北だ! 北へ行くんだ!」寝ぼけまなこのミズチに男は怒鳴る。
「おお、そうか」
ミズチと男は、ふたたび北を目指して進み始めた。
ザーーーーン ザーーーーン ザーーーー ザーーーーン
疲れを知らない永久機関のように、寄せては返す波の音だけが響いている。
「なんの変哲もない、ただの海ではないか」見回してミズチは言った。
「今はその時が来てないのさ。このあたりの海岸は〈鏡の海〉と呼ばれてるんだ。干潮で遠浅になると、水面が鏡のように空を映して、天と地がつながったようになる。そりゃもう、うっとりするほどの、果てのない青の世界だ。おれはガキの頃この近くに住んでたんで、毎日のように見に来たものさ」
広がっている風景はよくある普通の海岸だが、平日であるにもかかわらず、けっこう人がいる。波打ち際をランニング姿で走る男、犬を連れた女、三脚を立てて写真を撮る老人、砂に自分の名前を刻むのに夢中になっている高校生たち。
「ニンゲンどもに見つかると厄介なことになるからな」そうミズチは呟くと、全身を覆うウロコに神経を集中させた。途端にミズチの身体が透き通って透明になる。
「うわ、これって、光学迷彩かっ!」男は眼を見開いて叫んだ。
「なんじゃ、それは」
「昔観たアニメに出てきたんだ、透明人間になれるマントみたいなもんだよ」
「天狗の隠れ蓑か。我は何も纏っておらぬ。ウロコの色素細胞を変化させておるだけじゃ」
「ふーん、意外とハイテクなんだな」
ミズチは少し沖へと移動した。いくら姿を消していても、人間たちの近くにはいたくなかった。
「海風というやつは、ベタベタしてかなわぬな。早く帰って淵の水で身を浄めたいものじゃ」先が二股になった舌をチロッと出して、潮の匂いに顔を顰める。
不意に、男が叫んだ「あっ、あそこに浮いてるのは、人間の首じゃないか?」
「どこじゃ?」
「ほら、そこだよ」
ミズチは海面へ向かって下降し、眼を凝らして見たが、それは波間に浮かんで揺れている黒いブイだった。
その時、ミズチの身体がぐらりと揺れたかと思うと、頭を下に向けてくるくると錐もみ旋回しながら海へ突っ込んで――あっと思った時には、海の中だった。
ウロコの隙間から入り込む海水が沁みて、全身に焼けるような痛みが襲ってきた。眼が開けられない。なんとか浮かび上がろうともがくミズチだったが、網に絡まったように身動きがとれなかった。
「むう、これはおぬしの仕業か!」
「ああ、おれだ」男は短く答える。最後の力を振り絞って、ミズチの身体を支配しようと必死に精神を集中させながら。
「あんたは淡水の生き物だから、海水に浸かれば体中の水分が抜けて干物になっちまうだろ? 塩をかけたナメクジみたいに」
「なんと、我をあのような下等な生き物と一緒にするとは!」
「くたばれ! シラス野郎!!」
「何ゆえこのようなことをする?」
「おれはもうじきこの世から消える……だから、あんたを道連れにすることにした」
「なんじゃと!?」
「ショボい人生だったけど、最後の最期で悪と戦って散るのなら、
「待て、悪とは我のことか?」
「他に誰がいる」
「なぜ我が悪なのじゃ」
「人間を喰う化け物は悪だ」
一瞬、虚を突かれたが、ミズチはすぐさま問い返す。
「おぬしは豚を喰うか?」
「ああ、トンカツは大好物だ」
「それを喰う時、おぬしは豚を憐れに思うか? 罪の意識を感じるか?」
「そんなわけねえだろ。豚は食いもんだ」
「誰がそう決めたのじゃ」
「昔からそう決まってる。家畜は人間に喰われるために生きてるんだ」
「我から見れば、ニンゲンも豚も、変わるところは何もない」
「人間と豚は違う」
「どこがじゃ?」
「豚には、ものを考える力がない」
「では、ニンゲンの赤子は喰ってもいいのか? ものを考えられないであろう?」
「違う! 考える力がまだ育ってないだけだ」
「豚だって、そのうち進化するやもしれぬ。もしもおぬしの眼の前にいる豚が、言葉をしゃべり命乞いをしたら、おぬしはそれでもその豚を喰うか?」
「そんなこと、起こりっこない! 言葉をしゃべる豚なんて!」
「現におぬしの眼の前におるのは、言葉をしゃべるミズチじゃが」
「あんたは異常な化け物だ。この世に存在しちゃいけねえんだ!」
「ニンゲンこそ異常な生き物だと、我は思うがな。雑食であらゆる生き物を喰い尽くし、自然を破壊する。それも、たいして必要でもない目的のために。今まで我が喰った首も、みな一様に強欲で自分勝手で臆病者、計算高いかと思うと感情に流され、道端の花を愛でる一方で野山を焼き払う」
「人間は、他の生き物の頂点に立つ特別な存在なんだ」
「何を根拠にそのような世迷いごとを言う」
「人間には、魂がある」
「魂なら、動物にもあるぞ。豚や牛や犬にも、木や草にさえも」
それを聞いて、男は瞳のない眼を激しく揺らした。
「いぬ……犬を喰うのは悪だ」
「豚はよくて、犬はなぜ悪い?」
「だめだ、だめだ、絶対にだめだ。犬を殺すのは、人間を殺すよりも悪だ! 許さない! 一生許すもんか! かえせっ!!」肉色をした男の口は大きく裂けて、タールのように黒くて熱い血反吐が海中に拡がってゆく。ミズチは自分の内臓が零れ落ちるのではないかと思った。
「おぬし、脳の融解が相当進んでいるようじゃな。支離滅裂じゃ。もはや、これまで。戯れはお終いじゃ」
ミズチは大きく息を吐くと身体を激しく捻り、男の首が存在する部位に凄まじい圧力をかけた。グシャリ、と卵の殻が潰れるような感触とともに、男の頭蓋骨が砕ける。
その刹那、ひとひらの記憶のかけらが舞い上がってきた。
――木造の、小さな部屋。
真ん中の狭い通路を挟んで木の長椅子が何列も並び、そこに座る人たちは、みな黒い服を着ている。前方には祭壇、蓋が開いた細長い直方体の箱、そばには白い花を編んだリース。
「僕」はうつむいて自分の手を眺める。小さくて、なんの力もない手。その手をそっと温かい手が包み込む。母さんの手だ。横から見上げると、母さんはもう泣いていない。だけど伏せられた眼は赤く、口もとは固く引き結ばれている。
箱の脇に立つ黒い長衣の男が、黒い本を開いて静かに朗読する。
*『人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄と誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも……』
父さんは、どこへ行ったの。人は死んだらどこへゆくの――決して答えを得られない問いが、行き場をなくして、心の内で壁に当たって何度も跳ね返る。
「人は……何者……」男はうわ言のように呟く。
「これは水とは何の関係もないな」ミズチは最後の記憶のかけらを無造作に放って捨てた。かけらは海のような無意識の底へと沈んで見えなくなった。
「ニンゲンとは、一体何者じゃ」ようやく海の上へと浮かび上がって、ミズチはポツリと呟いた。
その時、あたりの空気が一変した。風が止み、波が消える。天と地が、上下対称の完全なるパノラマと化す。
〈鏡の海〉が始まったのだ。
水平線を境にして、向き合う空と空。我と彼。昨日の孤独と約束の明日。青の夢幻と無限の青。顔と顔を合わせて――鏡の世界は永遠の輪廻、失くしたものが還って来る。
ミズチは水鏡に映る自分の姿を見た。
――果てしなく続く青い空間を、僕は裸足で駆けてゆく。足首までひたひたと寄せる水を蹴って――空と海がつながった今なら、海の終わりまでだって、空の始まりまでだって、歩いて渡れる気がしたよ。
「来い! ジャッキー!」足もとにまとわりつく黒い子犬を従えて、どこまでも、いつまでも、このまま行けると信じてた。あの冒険の日々が、大切なひとたちと一緒の幸せな時間が、永遠に続くと思ってた。未来はいつだって輝いて、あの水平線の先に待ってるはずだった。
突然、空が燃え出した。太陽は天の腹に穿たれた致命傷、流れ出る血潮が空と海を紅に染める。金と紅と橙色の炎が水平線を焦がして、世界を焼き尽くす。あぁ……日が沈む。青のムゲンが終わる。僕も……行かなきゃ。
夜が、来る。
遠くから、懐かしい声が呼んでいる。
「蒼弥ーー! 帰っておいで! 晩ごはんの時間だよー」
帰らなきゃ……母さんが、待ってる……
ミズチが腹を見ると、男の顔は、いつしか少年の顔になっていた。顔の厚みがだんだん薄くなり、眼や鼻や口の輪郭がぼやけてくる。少年の顔はまぶたを閉じると、そのまま白い蛇腹に吸収されるように、スーッと消えた。
「やれやれ、五月蝿いやつがやっと居なくなった」ミズチは安堵のため息を漏らした。どこか遠いところで、微かな音がした。壁が崩れるような音が。
さあ、棲み慣れた我が淵へ帰ろう。静かで安全で邪魔なものなど何もいない、安息の地へ。
ミズチは平らになった自分の腹を見下ろした。元の状態に戻っただけなのに、腹にぽっかりと穴が開いているような感覚がつきまとう。風青く空ろな胴を吹き抜けど、水は忘れじ、
ミズチには、蛇だった頃の記憶はほとんどなかった。憶えているのは、自分がかつて蛇であったということだけ。気がつけばミズチとして存在し、周りには同じミズチはおろか意思を交わせるような生き物はなく、歳月は沈黙のうちに積み重なっていった。孤独とは、自らの他に確立した存在があって初めて認識できるものだ。ミズチには孤独を知るすべがなかった――今日という日が来るまでは。
自分が龍になったら、ミズチだった時の記憶は消えてしまうのだろうか。この奇跡のような風景も、海から吹きつける潮の匂いも、ウロコの隙間に突き刺さる海水の痛みも、腹に浮き出た馬鹿げた顔がしゃべっていた意味のない言葉も、今まで収集した水の記憶も、すべてが消え失せるのか――そう思うと、なぜだか前脚の付け根のあたりがモヤモヤと結ぼれる気がした。
これもみな、ニンゲンの祟りのせいだ。ニンゲンなんかと関わるのではなかった。長い年月を、龍になれる日を待ち望んでいたはずなのに、今ではその日が来ることにかすかな不安と苛立ちを覚えていた。
大切なものが指の隙間から零れ落ちて、二度と戻らない――いや、これはあのニンゲンの感情だ。我のものではない。我はこの自然界で、ただの蛇から進化してやがて龍へと昇格する、揺るぎない存在だったはずだ。
気がつくと、太陽は海の向こうに身を隠し、あたりを染めていた残光は、のろのろと色調を変えていた。水平線に帯状に残っていた黄金の混じった橙紅色を、藍色が容赦なく押し下げ圧縮してゆく。潮はふたたび満ち始め、潟にはひたひたと水が戻って、その上を波の白い線が走り出す。
ザーーーーン ザザーーーー ザーーーーン ザーーーーン
波の音がやたらと響く。海辺には、もう誰もいない。
宵闇の空に浮かんで、ミズチは呟いた。
「我は一体何者か」
このまま風に流されてゆけば、地球の裏側へたどり着くのだろうか……?あの大地を穿つ荘厳な滝の底には、我のような、いつかは龍になる存在が棲んでいるのかもしれない。
だけど、もう疲れた。ミズチはゆっくりと上昇していった。周りの大気が次第に凍てつく針のようにウロコに刺さり、薄い氷結が体表を覆いだす。痺れるような感覚に包まれ、ミズチは眠くなってきた。
その時、何かが囁いた。いや、実際にはミズチの脳の中で、虫が羽を震わせるような微かな振動が生じたのに過ぎなかったのだが、たしかにそれは聞き憶えのある声だった。
「しぬまでに……ぜったい……いくんだ」
*
泣きたくなるほど澄み渡った蒼穹に、いわし雲が浮かんでいる。ひとつ、ふたつ……幾重にも連なるその端に、長くずんぐりした雲が見える。よくよく眼を凝らして観ると、その両端の近くにはそれぞれ一対の小さな突起がニョキッと出て、時折ゆらゆらと身をくねらせているのがわかるだろう。
風に吹かれて漂いながらも、流されず、空の青にも染まらない。ずんぐりした白い雲は、鼻歌でピーターパンの「ユー・キャン・フライ」を鼻ずさみながら呟いた。
「地球の裏側までは二万キロメートル、カイリューなら八時間で行けるんじゃがなあ……まあ、時間はたっぷりあるさ」
*【引用文】
旧約聖書 詩篇 第八章四節―八節
水の記憶 敷島 怜 @ryo_shikishima
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