第4話 ルスラン
「いっこうに電話がつながらないから、わざわざ足を運んだ。何かあったのか?」
来客は保安省の制服を着た男だった。襟章から階級は少尉であることがわかる。
保安省とは、悪名高い国家保安委員会の後継組織だ。対外工作をおこなうスパイの親玉でありつつ、内政を仕切る公安警察という側面も強い。ロシア人にとって彼らはいまだに畏怖の対象であるが、目の前に現れた痩身の少尉はメタルフレームの眼鏡をかけ、じつに柔和な雰囲気を醸しだしている。おおよそ保安省職員らしくない男だ。
「電話?」
少尉にスリッパを与えたセルゲイがダイニングに戻って調べると、部屋の電話線が根元から切断されていた。こんな作為を死ぬ前のババアがするとは思えない。やはり強盗犯が押し入り、自殺に見せかけたという考えがセルゲイの頭を占めた。
「事件の発覚を遅らせようとしやがったんだ。ふざけやがって犯人の野郎」
「犯人?」
怪訝な顔をする少尉をよそに、ハンカチを取りだしたセルゲイは涙を拭うふりをした。もちろん演技である。彼がババアの死をやり直したのは、自分の所有物を壊され、胸くそ悪い思いをあじわったからだ。
「こいつを見てくれ、ルスラン」
ひとしきり悲哀に暮れる子供を演じたあと、セルゲイはリビングに少尉を連れて行き、ババアの遺体を見せた。
ロープを外した首には赤黒い索条痕があり、目玉は顔面からこぼれ落ちそうだったが、少尉は特に驚きを示さず、わずかに切なそうな顔をする。
彼は「警察に連絡はしたのか?」とセルゲイに聞いた。
「だとすれば、電話線の切断に気づいた。ついさっき帰宅したばかりなんだ。そうしたらババアが死んでいやがった。強盗犯の仕業に違いねえ」
セルゲイは感情の起伏に乏しく、冷酷とさえいってよいほどだが、他人の前で「普通の男」を装えないほどバカではない。
言葉は乱暴だが、悔しそうにしゃくりあげ、ハンカチを瞼に押しつける。愛する里親を殺されたのだからせめて三十秒は悲しむふりをしなくては。
セルゲイは自分の本性がバレないよう、人間という種族を演じて生きている。面倒臭いことこのうえないが、そうしないと人間は自分とは違う異物を排除して、除け者にする。ガキの頃はいじめくらいで済むが、いまのセルゲイは資産家だ。注目を集める以上、より用心深く振る舞わなくてはならない。
「ところで、ルスラン。お前は何の用事だ?」
芝居の効果が十分に発揮された頃、セルゲイは制服の少尉に問うた。距離感の近さからわかるとおり、彼らは長年の友人どうしだった。下の名前、もしくはあだ名で呼び合うほど親しい相手は、セルゲイにとっていまやルスランしかない。
「ああ、連絡をとろうとしたのは認知症の療養施設に空きができたんだ。せっかくコネを使ってベッドを確保したんだが、まさかこんなことになるとは……」
途中で言葉を失い、ルスランはババアの遺体に目を落とす。知り合いの死に心を痛めているように見えるが、それが本心かどうかはわからない。
「せっかく骨折って貰ったのに悪いな」
「気にするなよ」
ルスランはゆっくりと表情を変え、元の柔和な空気をまとい直した。学生時代に柔道をやっており、黒帯という段位を有しているため、どこか神秘的な雰囲気もある。
セルゲイはルスランと遺体を片づけ、ひとまず目につかない場所に移した。ルスランは嫌な顔をせず、二人はダイニングに戻って会話をかわした。
「警察にはどうやって届け出るんだ?」
「携帯電話があるから、それで連絡をつける。夏じゃないし、腐るにはまだ早い。ゆっくりやるつもりだ」
セルゲイが切り替えの早いことはルスランも知っており、彼は「なるほど」とつぶやき話題を変えた。
「きょうは国際婦人デーだったね。何かプレゼントを用意してたのか?」
ルスランが水を向けたとおり、きょうは女性の日だった。毎年三月八日は男が女に贈り物をしたり外出に誘ったりする。愛を告白する者もいるらしい。
「晩餐をレストランで過ごすつもりだった。どんなに金持ちになっても、ババアは質素な生活を望んだ。近所の店に予約をとっていた」
「それは残念だ」
寂しそうにいうルスランだが、頭では違うことを考えているかもしれない。市場経済の導入は多くの市民生活をめちゃくちゃにし、家を失う者、餓死する老人も出ている。そういう人々に比べればババアはまだましなほうだ。セルゲイのおかげで昔と変わらぬ生活は維持できた。
「急に思い出したんだが」
近くの椅子に腰をおろし、ルスランが顔をあげた。穏やかな眼差しだが、銅像のように瞳は動いてない。
「きみ、このあいだ休日のテレビに出ていたよね?」
「よく知ってるな」
さも当然とセルゲイは応じたが、ルスランは真面目くさった顔で話を継いだ。
「国営テレビにきみがデビューするとはね。犯罪者として検挙される以外の理由で」
「おれは詐欺師じゃねえぞ」
セルゲイはふて腐れたように頬をかき、撮影当日の様子を思い出す。世間に名前を売るメリットはなく、バーで知り合ったメディア幹部に頼まれ、仕方なく出演した収録だった。
番組の趣旨は、資本主義化の進むロシアの希望に満ちた部分に光をあて、早くも頭角を現した新興実業家にインタビューするというもの。政府の方針に迎合する意図は明らかで、撮影に呼ばれたのは三名。セルゲイはそのうち、バウチャー買収に奔走する投資家として登場し、スタジオで司会者の質問に答えていった。
バウチャーの買収資金に関しては最初から嘘をつき、手持ちの現金を西側の株式市場に投資して財をなしたこと、いまは投資家という立場だが、国営企業の株式取得に成功した暁には経営者として辣腕を振るいたいと将来の野心を述べた。
司会者はセルゲイがソ連邦英雄の称号を手にした事実をクローズアップして、新時代を担う若者を支援すべきだ、是非バウチャーの売却を検討して欲しいと視聴者に訴えた。
「新聞広告を出しております。ご連絡はそちらまで」とつけくわえるセルゲイ。自分の宣伝をして貰うのが出演の条件だった。
しかし、最後に際どい質問が待っていた。いわゆる元手はどこから出たのか、その額はいくらだったのか。下世話な興味だろうか、かなり失礼な問いである。
セルゲイはしかし、堂々たるコメントを返した。親がモスクワ郊外に別荘と農園を持っていたこと。それを西側のブローカーに売ったこと。売却益は千五百万ルーブルに上ったこと。じつにゆったりとした口調で。
司会者もほかのゲストもこれには驚きを示し、彼がソ連時代の特権階級に属する人間と決めつけ、収録後の態度はよそよそしかった。格が違うと勝手に悟ったのだろう。
「とりあえずさ」
セルゲイが頭を切り替えると、ルスランが暗い声を放ってきた。
「おばさんの遺体は、これ以上動かさずに。地元警察にはぼくのほうから連絡を入れる。きみは事情聴取で缶詰だろうけどね」
「待ってくれ。そういうのを不問に付すのが友人ってもんだろ?」
セルゲイは不服そうにコネを持ち出したが、ルスランは「無茶だよ」と肩をすくめる。
「家族は真っ先に疑われるんだ。ぼくがとめたところで、警察は勝手に動くさ」
「ふざけやがって、おれは忙しいんだ」
そう、セルゲイは毎日忙しい。バウチャーの買収にモスクワ周辺を飛びまわっている。警察の捜査とやらに協力する暇はないのだが、保安省のコネを使えないとなれば、もはやお手上げだ。
そこまで考えてセルゲイは、ふいに先ほど発見した謎のメッセージを思い出した。
保安省に気をつけろ。
紙切れは咄嗟にポケットへしまい込んだが、あれは何を意味していたのだろう。犯行の直後にルスランが現れたことを思えば、彼を真っ先に疑いたくなる。
だがルスランはセルゲイにとって唯一の友人であるし、もしも犯人だとすれば訪問するタイミングがあまりに悪すぎた。動機もない。「気をつけろ」と警告するからには、次はセルゲイの番だと理解するほうが説得的だ。
その刺客がルスランなのだろうか。しかし彼の友人は、寂しそうな顔で部屋に飾られた絵を眺めている。
「テレビを見て思ったが」とルスランがいう。「きみは、ぼくらの手の届かない世界へと行ってしまったんだな。もし養成校の皆が知ったら驚くんじゃないか」
「おれが太ったことにか?」とセルゲイは混ぜっ返した。ルスランはその冗談につきあわず、眼鏡のフレームを外してため息を吐く。
「きみは祖国の解体をバネにのし上がろうとしている。こんなにも上手く立ちまわるとは思ってなかった。軍隊に行き、英雄となり、モスクワ市庁に籍を置く有能な官吏。ぼくの同類だと思っていた。それは勘違いのようだったね、
ルスランは古いあだ名でセルゲイのことを呼んだ。二人は養成校という、少年期をともに過ごした孤児院の同窓生だった。そこで子供たちは、みんなセルゲイのことをリェフと呼んだ。ライオンを彷彿させる風貌は当時から変わっておらず、見た目を理由にあだ名をつけたからだ。
警察に行くといい残してルスランがアパートを去ったあと、セルゲイはババアの隣に腰を下ろし、物言わぬ遺体をじっと眺めた。まるで蝋人形のようだ。あるいはレーニン廟に祀られた革命の父によく似ている。
死んではいるが、いまにも動きだしそうな気がするのだ。
親がモスクワ郊外に別荘と農園を持っていて、それを西側のブローカーに売って資金を捻出した。テレビ番組のなかでセルゲイはそう嘘をついた。確かに別荘はあったものの、土地はほとんど価値がなく、建物に到っては整備が行き届かず荒れ果てている。
ならセルゲイは、いったいどうやってバウチャーを買収する金を手に入れたのか?
「おれは人間とは違う生き物だ。初めっから……」
死んだババアの額をさすり、語りかける。それは恥という概念を知る者の自嘲ではなく、外科医の下す診断と同様、正確な自己洞察の産物だった。
リプレイ〜黎明のオリガルヒ〜 夏音 @Lelouch_0424
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