第3話 不審死

 若者から三千枚のバウチャーを購入したあと、セルゲイはオフィスに戻らず、ひとりで遅い昼食を摂った。途中で古本屋に寄り小一時間ほど粘った末、自宅に直帰した。仕事が早く片づいた日はのんびり趣味を楽しもうと決めている。


 彼は保有する資産をキプロスの秘密口座に隠してあるが、まとまった現金と貴金属類は金庫に保管し、強盗対策はうっていた。金庫はイギリス製で簡単に破れる代物ではなく、防犯カメラを設置するなど特殊な警備は備えていない。


 アパートの二階のドアを開け、セルゲイはイタリア製の革靴を脱ぐ。そのままダイニングに行き、テーブルの上にいましがた購入した本を置く。


 部屋の壁には大小の絵画が飾られていて、そのすべてはセルゲイ自身の描いたものだ。素人にしてはレベルが高く、欲しがる友人にプレゼントしたこともある。休日は野外スケッチに出かけ、季節の変化を楽しむのが好きだ。危機的なインフレで多くの国民が生活に困窮するなか、彼はまったくの別世界に生息している。


 ついさっき購入した本も、浮世離れした趣味のひとつだ。セルゲイは旧ソ連各地で起きた未解決事件のマニアであり、発禁になった書籍をこっそり入手して読む。特に猟奇的な色彩の濃い事件であればあるほどよく、犯人の動機に想いを馳せながら考察を進めるのが堪らなく面白いのだ。


 こうした趣味にうつつを抜かし、コーヒーを飲みながらピスタチオを食う。それがセルゲイのほぼ唯一の愉しみである。彼はロシア人には珍しく酒をほとんど飲まないタイプの男だ。


 水を入れたヤカンを火にかけ、鼻歌を唄いながら脱いだ上着をクローゼットにしまおうとしたセルゲイだが、そこで里親のババアが死んでいた。彼は死体とそれ以外の区別が瞬時につけられる。戦場で飽きるほど目にしたからだ。


 見たところ強盗の仕業でなく、ドアノブに紐を巻いたうえでの縊死だった。おそらくは自殺だろう。生き絶えた同居人の姿を見ても、何も感じなかった。他人の苦しみに痛めるような心をセルゲイは持ち合わせていない。


 ババアは孤児だったセルゲイにとって唯一の家族で、老いても去年までは市の清掃局員として勤務し、年金生活に入ることを拒んでいた。


 そんなババアが最近死ぬようになった。死因は強盗のような手口による刺殺が目立ち、次に多いのが心臓発作で、好物のリンゴジュースに毒が入っていたこともある。自殺したケースは今回がはじめてだ。


 金庫のある部屋に入ると、他人が荒らした形跡はなく、セルゲイはババアの死は強盗犯のカモフラージュではない、純粋な自殺と結論づけた。


 同居人の死に同情も動揺もない一方で、リプレイというやり直し能力を持つ以上、その力を使わないという選択肢はなく、セルゲイはババアが死ぬたびに能力を使い、彼女が死を迎えない時間軸を探し求めた。


 しかしその試みは無駄骨だと段々わかってきた。


 タイミングや方法こそ異なるが、ババアはこの一週間のどこかで命を落とす。そのたび時間を遡行しやり直したが、さすがに今回の自殺で気持ちが切れた。


 ババアの遺体をドアノブから外し、セルゲイは「これは市役所行きだな」と洩らした。近所に話し相手がいる以外、ババアに親戚はなく、これという縁者もない。だとすれば埋葬式を執り行う理由はなく、公共サービスによる遺体処理、火葬を事務的に依頼するほかないだろうと。


 ババアは非常に熱心な無神論者であり、教会と無関係だった。黙っていれば共同墓地に葬られるため、彼女は不満だろう。だが遺体をどう扱おうとセルゲイの自由だ。


 電話帳をひっくり返したあと、セルゲイは彼女の遺体を抱きかかえ、リビングへと移動した。それからカーキ色のソファに降ろし、硬くなった体を横たえる。


 セルゲイは自殺した体についてひとつのイメージ、もしくは先入観を持っていた。それは急激に弛緩した体は大小の排泄物を外に排出し、遺体とその周囲がひどく汚れるというものだった。


 しかしババアにかぎった場合、そんなことは起きていなかった。強盗に殺されたときは確かに血みどろだったが、今回の遺体はきれいで、股間に染みらしいものもない。


 汚物にまみれるというイメージは一体何だったのか。根拠のない噂話を信じてしまったのだろうか。


 セルゲイは詐欺師に騙され続けたような気分がして腹が立った。そのとき、先ほど火にかけたヤカンの沸騰する様子が目に入る。感情を落ち着かせるべくキッチンに行き、コーヒーを淹れはじめよう。いま必要なのはカフェインで心をリラックスさせることだ。


 ちなみにいうとコーヒーのような嗜好品はかつてはとても稀少で、行列に並んだくらいでは手に入らなかった。それが市場経済の導入にともない、モスクワの街角に物が溢れるようになった。国家による規制が弛み、許認可を得ていない業者も輸出入ができるようになったからだ。


 もちろんインフレの影響もあって価格は天井知らずだが、セルゲイには資産が唸るほどあった。彼は卵黄とウオッカを溶かしたコーヒーを作り、リビングに移動して、ババアが昨日こしらえた粗末なパイを一切れ口にする。


 ババアは料理がそこそこ上手く、味に関しては文句なかった。ただ、店で食えるほどの味とはいえず、最近のセルゲイはもっぱらレストランで食事を摂っていた。


 ひょっとしてその寂しさこそが、ババアを自殺に追いやったのではないだろうか。


 彼はやがてある考えに到る。確証を得るために、セルゲイはババアの上着を調べだし、ポケットに手を突っ込んだ。彼女の死は大半が強盗によるものだった。だとすれば今回も第三者が関与し、ババアを自殺に仕立て上げたような気がやはりする。


 一度は否定した考えにセルゲイは囚われたが、あにはからんやと、上着のポケットには何も入っていなかった。自殺を偽装するトリックが施されていると思ったのだが。


 落胆するセルゲイは、かわりにある異物を見つけた。ポケットの奥に紙が詰まっていたのだ。

 引っ張りだしてみると、それは何の変哲もないメモ帳の切れ端だった。注目したのは、そこに記されたメッセージである。


 保安省に気をつけろ。


 セルゲイの目の前で何度もその骸をさらしたババアだが、今回はセルゲイ宛てのメモを遺して死んだ。いくどもやり直したケースと照らし合わせても、その意図はまったく浮上してこない。


 慎重に筆跡を確かめるが、暴れる蛇のような文字は判別が難しい。ババアが書いたようにも見えるし、他人の手によるものとも思える。


「…………」


 セルゲイは空いているソファに座り込み、ウオッカ入りのコーヒーを飲みながら、冷めたパイを噛み締める。味はさほどせず、かわりに心がざわつきを覚えだす。


 不可解なものを放置するのはストレスだが、少ない証拠で考察しても神経をすり減らすだけだ。

 仮眠でもとるか。ふいにそんなことを考えた。


 セルゲイはいかなる状況でも寝れる、軍隊時代に身につけた特技を持っており、カフェインの摂取は邪魔にならない。あとは目を瞑るだけだ。


 背もたれに太った体を預け、天井を見上げた。煤けた染みを数えはじめた直後、掠れた鳶の囀りみたいなブザー音が部屋中に響き渡る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る