予兆
高潮の一件から三日が過ぎた。機巧堤防の地下室では、ロシアの技術者たちが熱心に機構を調べていた。
「驚くべき精密さです」若い技師が図面を覗き込みながら言う。「特に、この振動検知の仕組みは、私たちも参考にできる」
一郎がその言葉を訳すと、老技師の浅井が照れたように笑った。彼は代々、からくり人形を作り続けてきた名工の一人だ。その繊細な技が、今や新しい時代を築く礎となっている。
「でも、まだ課題が」源兵衛が心配そうに見上げる。「この支柱の強度が」
確かに、地震で損傷した主要な支柱には不安が残る。その上、一郎は振動計の針が微かに揺れるのを見ていた。ここ数日、その揺れは少しずつ大きくなっている。
「この振動、何か違和感を」
お由の言葉には、確かな不安が滲んでいた。機巧堤防の振動計は、単なる地震計ではない。地下深くの変動を、より敏感に感じ取る装置なのだ。
「一刻も早く、補強を」プチャーチンの決断は早かった。「ディアナ号の補助蒸気機関を、すぐにでも」
彼は即座に部下たちに指示を出した。船の技術者たちは素早く動き始め、必要な機材を運び込んでいく。
「こちらが接続部の設計図です」若いロシアの技師が図面を広げた。「蒸気の圧力を分散させながら、既存の歯車に負担をかけないよう」
お由は図面に目を通しながら、頷いていた。
「確かに、これなら」彼女は自分の図面と見比べる。「私たちの機構との整合性も取れます」
地下室は今や、東西の技術者たちの活気に満ちていた。ディアナ号からは次々と資材が運び込まれ、仮設の動力装置が組み立てられていく。蒸気管の配置、圧力計の取り付け、そして何より重要な、古い歯車との接続部の製作。
その時、遠くで鐘の音が響いた。
「誰か、来たようです」
お由が階段を上がっていくと、そこには一人の老人が立っていた。一郎の目が見開かれる。
「父上...!」
高瀬宗弘は、十年の歳月を刻んだ姿で、静かに立っていた。その手には、古い革の鞄。
「これを届けに」父は鞄を差し出した。「地震の予兆を感じて、準備を進めていたのです」
鞄の中には、機巧堤防の詳細な補修記録と、新しい図面の数々。それは、蒸気機関との融合を見据えた設計図だった。図面の緻密さに、プチャーチンも目を見張る。
「見事な設計だ」彼は感嘆の声を上げた。「これなら、より効率的な接続が」
「急いで」宗弘の声には切迫感があった。「時間が、あまりないかもしれない」
その時、振動計の針が大きく揺れた。皆の視線が、一斉にその方向に集まる。
「これは」
プチャーチンが何か言おうとした時、地下全体に低い震動が走った。機巧堤防が、大きな地殻変動を感知し始めたのだ。
「準備を」宗弘の声が響く。「大地震が来る。それも、近いうちに」
作業の手を休めることなく、技術者たちは黙々と準備を進めた。蒸気機関との接続部は、既に形を成しつつある。しかし、それは果たして間に合うのか。
地下機構は、まるで生き物のように唸りを上げていた。時代の大きな揺れが、確実に近づいてきているのだ。
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