潮の律動
早朝の下田港に、異様な空気が漂っていた。波の音が普段より荒々しく、潮の匂いが異常なまでに強い。港で働く漁師たちも、その変化を感じ取っていた。
「気圧の急激な低下です」プチャーチンの言葉を訳しながら、一郎は浮き桟橋の異常な傾きに目を留めていた。「これは尋常ではありませんな」
ディアナ号の船内では、次々と警報が鳴り響く。一郎の耳には、その音が地下の機巧堤防の歯車音と重なって聞こえた。
「港内の潮位、通常より6フィート以上」プチャーチンは計器を見ながら続けた。「この短時間での上昇は、私も経験が少ない」
機巧堤防の振動計は、既にこの異変を察知しているはずだ。しかし、昨夜見た老朽化の進行が気がかりだった。主軸の歯車の磨耗。導水管の亀裂。そして、制御機構の不安定な動き。
「提督」一郎は決意を固めて切り出した。「実は、この港には...」
その時、地響きのような音が響いた。港の水門が全て同時に動き始めたのだ。しかし、その動きは明らかに普段と違っていた。
ギシギシという軋みと共に、歯車の悲鳴のような音が漏れ聞こえる。お由から聞いた話では、こうした異常な動きは機構の限界を示す危険信号だという。
プチャーチンの鋭い目が、水門の不自然な動きを追っていた。
「自動制御システム」彼は静かに言った。「しかも、かなり古い。私の推測は当たっていたようですね」
一郎が答えようとした時、甲板の船員が叫び声を上げた。
「潮位が急上昇!第三水門が応答不能です!」
波が音を立てて岸壁を越えようとしている。機巧堤防は必死に抗っているようだったが、水門の動きは次第に鈍くなっていく。メインの歯車が、完全に限界に近付いているのだ。
「一郎殿!」
振り返ると、そこにはお由の姿があった。彼女は小舟で必死にディアナ号に近付こうとしていた。髪は風に乱れ、着物の裾は波しぶきで濡れている。
「地下の主機が、もう持ちません!」その声が風に攫われそうになった時、「制御室の計器が振り切れています。このままでは...!」
その時、プチャーチンが一歩前に出た。彼の目には、技術者としての確かな光が宿っていた。
「私に話すべきことがあるのではありませんか?今は、もう隠している場合ではないでしょう」
彼の声には、どこか優しさが滲んでいた。一郎は一瞬の躊躇の後、決意を固めた。
「はい。この港には、百年の時を超えて受け継がれてきた機構が」
潮が再び岸壁を越えようとする中、一郎は機巧堤防のことを語り始めた。プチャーチンの目が、次第に輝きを増していく。技術者としての魂が、この東洋の叡智に共鳴するのを感じたのだろう。
「素晴らしい」彼は感嘆の声を上げた。「これぞ東洋の機械技術。しかし、今は議論している場合ではない。すぐに行動を」
プチャーチンは即座に指示を出した。ディアナ号の補助蒸気機関を起動し、その動力を港の機構に接続する段取りが、矢継ぎ早に進められていく。
その時、お由が叫んだ。
「父上が!」
港の向こうで、源兵衛が必死に古い水門を手動で操作しようとしていた。潮は、今にも彼を飲み込もうとしている。
波しぶきを浴びながら、新旧の技術が交わろうとしていた。人々の知恵と努力が、時代を超えて繋がろうとする瞬間。それは、まるで百年の時を超えた和音のように、下田の空に響き渡るのだった。
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