蒸気との出会い
父の手紙には、ただ一行だけが記されていた。
『新しき知恵と古の術、相和して道を拓かん』
その意味を考えながら、一郎はディアナ号の船内を案内されていた。プチャーチンの招きで、ロシア艦の心臓部、機関室の見学に来ているのだ。
「これが我々の誇る蒸気機関です」
プチャーチンの言葉を訳しながら、一郎は目の前の光景に息を呑んだ。巨大なボイラーから立ち上る蒸気。絶え間なく動き続けるピストン。そして、それらを繋ぐ無数の配管と計器類。
その構造は、昨夜見た機巧堤防とは全く異なっていた。しかし、どこか共通するものも感じる。規則正しく動く部品群。精密な制御機構。そして何より、それらを統べる人の叡智。
「このピストンの動きをご覧ください」プチャーチンは熱心に説明を続けた。「蒸気の圧力を変えることで、速度を自在に制御できる。まさに生命を持つかのようです」
その言葉に、一郎は古い和時計のことを思い出していた。天体の運行に合わせて時を刻む精巧な機構。潮の満ち引きを予測する複雑な歯車群。確かに、そこにも同じような「生命」が宿っていた。
「興味深いのは、この自己制御システムです」プチャーチンは調速機を指さした。「回転速度が上がりすぎると、自動的に蒸気の供給を絞る。まるで...」
「からくりのようですね」
思わず口にした言葉に、プチャーチンの目が輝いた。その瞳には、純粋な探究心が宿っていた。一郎は、この提督が単なる軍人ではなく、真摯な技術者でもあることを悟った。
「からくり? ああ、日本の機械技術のことですか。実は、とても興味があるのです。特に、あなたがたの時計技術には」
プチャーチンは、ポケットから一つの機械を取り出した。英国製の懐中時計だ。
「これほどの精度を持つ時計を作るまで、我々は長い時間を要した。しかし、あなたがたは独自の方法でそれを成し遂げた。その知恵を、私は心から尊敬しています」
その言葉には、偽りのない敬意が込められていた。一郎は、慎重に言葉を選びながら説明を始めた。和時計の基本的な仕組み。天体の運行との関係。そして、その精度を支える職人たちの技。
しかし、機巧堤防のことには一切触れない。まだその時ではない。しかし、いずれ来るだろう。この提督となら、真摯な技術的対話が可能かもしれない。
その時、船内に警報が響いた。
「高潮の予報です」航海士が報告する。「このままでは、船が岸壁に」
一郎は咄嗟に窓の外を見た。潮位が確かに上がっている。しかし、港の水門が既に対応を始めていた。昨夜、機巧堤防が察知した異変は、この高潮だったのだ。
「素晴らしい港湾設備ですな」プチャーチンが感心したように言う。「こうして正確に危険を予測し、自動的に対処する。まるで...」
彼は言葉を濁した。しかし、その眼差しは明らかに何かを察知していた。技術者としての直感が、この港の秘密に触れかけているのだろう。
帰り道、一郎は考え込んでいた。父の手紙の言葉が、新たな意味を帯びて響く。新しき知恵と古の術。蒸気機関と機巧堤防。両者は、決して相反するものではない。むしろ、互いに補完し合える可能性を秘めているのではないか。
下田の町に戻ると、お由が待っていた。
「図面の解読が進みました」彼女の声は興奮を帯びていた。「機巧堤防には、まだ使われていない機構があるんです。そして、その動力源として...」
お由は、蒸気の力を示す古い記号を指さした。一郎の目が広がった。先人たちは、既にその可能性を見据えていたのだ。
遠くで、ディアナ号の汽笛が鳴った。新しい時代の音が、古の知恵と共鳴する。その響きの中に、一郎は確かな希望を見出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます