地底の迷宮

月のない夜だった。一郎とお由は、港の石畳の隙間に隠された扉の前に立っていた。二人の手には、父から受け継いだ図面と、古い真鍮の提灯が握られている。


「本当に、この先へ?」


お由の問いに、一郎は無言で頷いた。父の手紙には、機巧堤防の核心に至る道筋が記されている。そして、その道は地下深くへと続いているのだ。


扉を開けると、錆びた階段が闇の中へ伸びていた。提灯の明かりは、湿った石壁に不規則な影を投げかける。


「気を付けて」一郎は先に立って階段を降り始めた。「この階段も、機構の一部なのかもしれません」


その言葉通り、階段の一枚一枚には微かな傾斜が付いていた。まるで、何かの装置に連動しているかのように。


地下の通路は予想以上に広く、幾筋もの道に分岐していた。壁には等間隔で銅の管が走り、その表面には細かな刻み目が刻まれている。


「これは」お由が管に手を触れた。「振動を伝える導管です。港の水位の変化を、中枢部に伝えているのでしょう」


通路を進むにつれ、機械音は次第に大きくなっていった。カラカラという歯車の音。チリンチリンという和時計を思わせる響き。そして、どこか遠くから聞こえる水の轟き。


「父上の和歌は、この音を表していたんですね」一郎は立ち止まって耳を澄ませた。「南無や、月影の、いわおとどろに」


「その通りです」お由は歩みを緩めた。「でも、不思議に思いませんか? なぜ、こんな巨大な機構の存在が、ほとんど知られていないのでしょう」


その時、通路の向こうで人影が動いた。提灯の明かりは、一瞬その姿を捉えたが、すぐに闇の中に消えていく。


「追いましょう!」


二人は足早に人影の後を追った。通路は次第に下り坂となり、空気は湿り気を増していく。そして突然、目の前が開けた。


「これが...」


巨大な円形の空間が広がっていた。天井まで届く歯車群。精巧な滑車装置。そして中央には、巨大な振り子が静かに揺れている。


「機巧堤防の心臓部」お由の声が震えた。「潮の満ち引きを予測し、水門を制御する中枢機構」


その時、向こう側の通路に、またあの人影が。今度ははっきりとその姿が見えた。長身の男性。その後ろ姿は、間違いなく。


「父上!」


一郎の声が地下空間に響き渡った。しかし返事はない。人影は、また別の通路へと消えていった。


「待って!」


追いかけようとした時、急に地面が大きく揺れ始めた。しかし、これは地震ではない。機構全体が、何かに反応して動き出したのだ。


「水位が急激に」お由が叫んだ。「これは、高潮の前触れかもしれません」


巨大な歯車が、軋むような音を立てて回転を始める。振り子の揺れが激しさを増していく。そして、遠くからは水門の開閉する重々しい響きが。


一郎とお由は、呆然とその光景を見つめていた。目の前で、百年の時を超えて受け継がれてきた技術が、今も確かに生きていた。そして、この町を守るために働いているのだ。


人影の消えた通路には、一枚の紙が落ちていた。手に取ると、それは父の筆跡で書かれた新しい手紙だった。

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