秘密の継承

「南無や」一郎は和歌の一節を声に出した。「この最初の言葉こそが、重要なのではないでしょうか」


村上家の物置は、早朝の柔らかな光に包まれていた。一郎とお由は、父の残した和歌の解読に取り組んでいた。二人の前には、古い図面が広げられている。


「南無、これは方角を表しているのかもしれません」お由は図面の上で指を滑らせた。「でも、単なる方角だけではありませんわ。見てください」


お由が指し示したのは、図面の隅に描かれた小さな印。南の方角を示す矢印の中に、歯車の形が組み込まれていた。


「これは...」


「和時計の文字盤」お由の目が輝いた。「からくりの基本、時を刻む歯車です」


一郎は父の言葉を思い出していた。幼い頃、父に連れられて見た和時計のこと。複雑な歯車が織りなす時の流れ。そして父は言った。「時を制する者が、水をも制する」


「月影は、潮の満ち引きを表している」一郎は図面の別の部分を指さした。「そして岩音と轟は...」


「水門の仕組みです」お由が言葉を継いだ。「潮の力を利用して、自動的に開閉する装置。その音が、岩を打つ波のように聞こえるのです」


その時、物置の戸が軽く叩かれた。


「由、そろそろ昼餉の支度を」


母の声に、お由は慌てて立ち上がった。しかし、その手には何かを握りしめていた。


「これを」こっそりと一郎に手渡されたのは、小さな真鍮の鍵。「父の部屋にある箱、開けられるはずです」


夕刻、一郎は再び村上家を訪れていた。今度は表向き、ロシア側との交渉に関する書類を届けるためだ。


源兵衛の書斎で、お由は父の目を盗んで、例の箱を取り出した。鍵は完璧に合った。中には、古い技術書の束と、一通の手紙。差出人は、高瀬宗弘。


「父上...」


手紙には、機巧堤防の真の目的が記されていた。それは単なる防波堤ではない。津波や高潮を予測し、町全体を守護する複雑な機構。そして、その技術は代々、特定の家系によって守り継がれてきたという。


「由、誰かいらしたのか?」


源兵衛の声に、お由は素早く箱を隠した。しかし、一枚の図面が床に落ちる。一郎がそれを拾い上げると、そこには見覚えのある装置が描かれていた。


場所は、下田沖から流れ込む潮流の真下。巨大な歯車群が、港の地下深くに配置されている。そして、その中心には、これまで見たことのない複雑な機構が。


「これが、機巧堤防の心臓部」お由の声が震えていた。「そして、高瀬様のお父様は、この装置の最後の管理者だったのです」


夜が更けていく。港では、ディアナ号の灯りが静かに揺れていた。一郎は思った。新しい時代の波が押し寄せる今、古の知恵は失われてしまうのか。いや、むしろ今こそ、その価値を見出すべきではないのか。


地下から響く歯車の音は、まるでその問いに答えるかのように、規則正しく鳴り続けていた。

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