父の影

翌日の日没後、一郎は村上家の裏庭に向かっていた。昨夜の出来事が、まだ生々しく脳裏に焼き付いている。地下に潜む巨大な機構。そして、お由の言葉。


「父上は、なぜ」


心の中で何度も繰り返したその問いは、まだ答えを見つけられないままだった。


裏庭に足を踏み入れると、そこにはすでにお由の姿があった。彼女は藤棚の下で何かの束を抱えていた。


「これを、お渡ししなければと」


お由が差し出したのは、古い巻物だった。薄れかけた墨で、無数の文字が記されている。そのほとんどは、一見して意味を成さない文字列。しかし、その中に見覚えのある筆跡を見つけて、一郎は息を呑んだ。


「父上の...」


「はい。高瀬様のお父様から、十年前に預かったものです」


お由は巻物の端を開いて見せた。そこには、昨日一郎が見つけた図面と同じような暗号文が並んでいる。


「機巧堤防は、単なる防波堤ではありません」お由の声は真剣だった。「この町を守る、もっと大きな力を秘めているのです」


その時、中庭の石灯籠の影が揺れた。誰かが、庭の外を通り過ぎたのだ。


「こちらへ」


お由は一郎を、庭の隅にある物置へと導いた。扉を開けると、中には工具や図面が整然と並べられている。まるで、小さな工房のようだった。


「先代から受け継いだ機巧の技。父は、これを守り続けています」お由は古い歯車を手に取った。「そして、高瀬様のお父様も」


「父上は、どこに」


「それは、私にもわかりません。ですが...」


お由は巻物の最後の部分を開いた。そこには、一郎の知る筆跡で、こう記されていた。


『南無や、月影の、いわおとどろに』


「和時計の刻みを表す和歌」お由が説明する。「これが、機巧堤防の鍵なのです」


突然、外で物音がした。お由は素早く巻物を巻き、床下に隠した。


「誰か来ます。もう行かれた方が」


一郎が物置を出ようとした時、庭の隅に人影を見た。提灯の明かりに照らし出されたその姿は、どこか見覚えのある後ろ姿だった。


「父上...?」


しかし声が届く前に、その影は塀の向こうへと消えていった。


「あれは」


「よく、見かけるのです」お由は静かに言った。「でも、近づこうとすると必ず消えてしまう。まるで、私たちを見守っているかのように」


「機巧堤防の真の目的は?」


「それは、この暗号を解いてからです」お由は微笑んだ。「でも、お一人では危険すぎる。私にも、手伝わせてください」


一郎は無言で頷いた。和歌に秘められた謎。地下の機構。そして父の影。全ては繋がっているはずだ。


その夜、一郎は父の和歌を何度も読み返していた。月影、岩音、轟...それぞれの言葉が、何かを指し示している。そして、その先には父の真意が。


窓の外では、相変わらずディアナ号の姿が月明かりに浮かび上がっていた。新しい時代の波が押し寄せる中、古の知恵は何を語ろうとしているのか。地下からは、今夜も歯車の音が響いてくるのだった。

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