蠢く歯車
深夜の下田の町は、潮の香りと静寂に包まれていた。一郎は提灯の明かりを頼りに、港に続く石畳の坂道を下っていた。昼間見つけた図面の暗号を解読しようと、夜更けまで資料室に残っていたのだ。
その時、また例の振動が始まった。今までで最も強い揺れ。そして、どこからともなく機械的な音が響いてくる。カラカラと歯車の噛み合う音。チリンチリンと、まるで古い和時計の音色のような規則的な響き。
石畳を見下ろすと、薄暗がりの中に人影が映った。背の高い痩せた姿は、まるで十年前に見た父のようだ。影は静かに歩を進め、やがて月明かりの中でその横顔を見せた。確かに父の面影があった。しかし、その姿は一瞬の後、石垣の陰へと消えていった。
「父上...!」
声に反応するように、地面の歯車音が大きくなる。一郎は思わず足を進めた。その時、足元で違和感があった。石畳の一枚が、わずかに浮き上がっている。
慎重に石を持ち上げてみると、その下には鉄の環が。引っ張ってみると、予想外に軽く動いた。カチリ、という音とともに、目の前の地面が静かに開いていく。
「まさか...」
そこには、地下へと続く階段が姿を現した。錆びた手すりに提灯を掛けると、階段の先には広い空間が広がっていた。
「高瀬様?」
背後から聞こえた声に、一郎は思わず振り返った。そこにはお由が立っていた。彼女の手には、古めかしいランタンが握られている。
「お嬢様、こんな時間に」
「私こそ、その言葉を返したいところです」お由の表情は、いつもの飄々とした様子とは違っていた。「でも、やはり気付かれましたね」
「これは...」
「機巧堤防の入り口の一つです」お由は静かに言った。「この町を守るための、私たちの先人の知恵の結晶」
地下からは、相変わらず歯車の音が響いてくる。今までの謎が、少しずつ繋がり始めていた。
「父上も、この場所を?」
「はい」お由は頷いた。「高瀬宗弘様は、かつてこの機構の管理者でした。そして今は...」
その時、遠くで足音が聞こえた。お由は素早く一郎の手を取り、地下への階段を指さした。
「このことは、誰にも」
彼女の言葉は途中で途切れた。足音が近づいている。お由は手早く地下への扉を閉め、石畳を元の位置に戻した。そして一郎の袖を引いて、近くの路地に身を隠した。
通りすがったのは、奉行所の夜廻りの足軽たち。彼らが通り過ぎるまでの間、一郎とお由は息を潜めていた。お由の手が、かすかに震えているのが分かった。
「明日、日没後に」お由は足軽たちの姿が見えなくなってから、囁くように言った。「源兵衛の裏庭で。そこで全てをお話しします」
そう言い残して、お由は闇の中へ消えていった。残された一郎は、まだ地下から響いてくる機械の音に耳を澄ませていた。
カラカラ、チリンチリン。
歯車は、まるで時代の節目を告げるかのように、地下で静かに廻り続けていた。
石畳の隙間から漏れる光に、一郎は父の幻影を見た気がした。十年前、突如として姿を消した父。その背中には、何か重大な秘密が隠されているに違いない。今、その謎が少しずつ形を現し始めていた。
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