邂逅と疑惑

村上源兵衛の廻船問屋は、下田湾を一望できる高台に建っていた。一郎は階段を上りながら、昨日の水門の異変について考えを巡らせていた。結局、原因は潮の流れが変わったせいだということで片付けられたものの、どこか腑に落ちない。


「お待ちしておりました」


座敷に通されると、髭の濃い、がっしりとした体躯の男が迎えてくれた。村上源兵衛その人である。その横顔は、港に停泊するロシア船を見つめていた。


「ご足労かけます。幕府より、ロシア使節団の物資調達について」


一郎が言葉を続けようとした時、座敷の襖が静かに開いた。


「お父様、お茶をお持ちいたしました」


声の主は、二十歳くらいの娘だった。凛とした佇まいの中に、どこか機知に富んだ表情を漂わせている。


「これは私の娘、お由。近頃は家業の手伝いもしております」


お由は丁寧にお辞儀をすると、手際よく茶を運んできた。その仕草には無駄がなく、まるで精巧な機械の動きのような正確さがあった。


「高瀬様」お由が一郎に茶を差し出しながら、思いがけない言葉を投げかけた。「昨日の水門の件、不思議に思われませんでしたか」


一瞬、座敷に緊張が走った。源兵衛の表情が、かすかに強張る。


「由、余計な」


「いいえ」一郎は茶碗を受け取りながら、慎重に言葉を選んだ。「確かに不思議な出来事でした。まるで、誰かが仕掛けたかのような...」


お由の目が輝いた。「からくりってご存知ですか? 江戸にいた時、からくり人形を」


「由!」


源兵衛の声が、強く室内に響いた。お由は口を噤み、申し訳なさそうに頭を下げる。しかし、その瞳の奥に、なお何かを語りたげな光が残っていた。


その後の話し合いは、表向き、物資調達の実務的な内容に終始した。だが一郎の心の中では、お由の言葉が引っかかっていた。からくり。そういえば父は、よくからくりの話をしていたではないか。


「では、また参りますれば」


別れ際、源兵衛は一郎をわざわざ玄関まで送ってきた。


「高瀬殿」その声には、どこか懇願するような響きがあった。「お由には、色々と思うところがございまして。どうか、あの話はお気になさらぬよう」


一郎は黙って頷いた。しかし、下り階段の途中、ふと後ろを振り返ると、二階の窓辺にお由の姿があった。彼女は何かの図面らしきものを手にしている。その手つきは、さっきの茶を運ぶ時と同じく、不思議な正確さを感じさせた。


坂を下りながら、一郎は考え込んでいた。父の失踪、謎の振動、水門の異変、そしてお由の言葉。これらの背後に、何か大きな秘密が隠されているのではないか。


その時、また地面が震えた。今度は昨日よりも、はっきりとした振動だった。まるで、町の地下で巨大な歯車が回っているかのように。

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