からくり海門 ―東西機巧綺譚―

風見 ユウマ

地下の鼓動

嘉永六年九月、下田の海は鉛色の重い雲に覆われていた。


高瀬一郎は下田奉行所の窓から、その曇天の下に浮かぶ異国船を凝視していた。黒々とした船体に立ち上る白煙。ロシア帝国の軍艦ディアナ号である。その存在は、この静かな港町に、得体の知れない緊張感をもたらしていた。


「高瀬殿」


背後から声がかかり、一郎は慌てて振り向いた。堀勘定奉行の険しい表情が、事態の重大さを物語っていた。


「ロシア側との交渉、心配はないか」


「はい。オランダ語での対応は...」一郎は言葉を選びながら答えた。「問題ないかと。ただ、ロシア語に関しては、まだ修練が足りず...」


堀は深いため息をついた。「長崎のオランダ通詞たちが到着するまでは、お前に頼るしかない。幕府の威信に関わる。心して対応せよ」


「承知いたしました」


堀が立ち去った後、一郎は再び窓の外に目を向けた。その時、かすかな振動を感じた。床下から伝わる微かな震え。まるで大地が呻くような、低い唸りとともに。


(また、あの振動か)


ここ数日、同じような振動を何度か感じていた。地震とは明らかに異なる、規則的な律動。下田の町でこの振動に気付いている者は、どれほどいるのだろう。


一郎の脳裏に、十年前の父の言葉が蘇った。


「この町には、まだ誰も知らない秘密が眠っている」


当時、意味の分からなかったその言葉が、今になって妙に気にかかる。父、高瀬宗弘は、かつて幕府の要職にありながら、突如として失脚し、その後姿を消した。その真相も、未だに闇に包まれたままだ。


振動は次第に強まり、やがて収まっていった。一郎は手元の書類に目を落とした。そこには「プチャーチン」の名と、その使節団に関する断片的な情報が記されている。明日には、最初の非公式会談が予定されていた。


その時、廊下を急ぐ足音が聞こえた。


「大変です!港の水位が急に...!」


一郎は素早く立ち上がり、廊下に飛び出した。そこにいた与力の顔は青ざめていた。


「防波堤の水門が、勝手に動き出したと...」


港に通じる階段を駆け下りながら、一郎の心の中で疑問が渦巻いた。父の失踪、謎の振動、そして突然の水門の異変。これらの間に、何か関係があるのだろうか。


下田の町を包む鉛色の空は、まるで今後の波乱を暗示するかのように、重く垂れ込めていた。

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