トイレに閉じ込められた

速水静香

トイレに閉じ込められた

 オレンジ色の柔らかな明かりが、この密やかな空間を優しく包んでいた。

 午後十一時。毎晩この時間になると、私は決まってスマートフォンをリビングで充電しはじめて、トイレへと向かう。二十年前から変わらない儀式だった。


 早期退職してから五年。かつては終電間際まで働いていた日々も、今では遠い記憶の彼方だった。時計の針が止まったように、生活のリズムは同じ場所で歩みを止めていた。


 深夜の静寂の中、自分の吐息が普段より大きく響いていた。

 その呼吸音に意識を向けながら、白い陶器の便座に腰を下ろしていた。ウォシュレット付きの洋式トイレだ。その洗い立ての清潔な便器からは、わずかに消毒液の香りがしていた。


 もちろん、この部屋は狭い。両腕を広げれば壁に触れそうな距離だ。しかし、その狭さは、今の私にとって心地よい安息をもたらしてくれていた。

 この外界から完全に切り離された、小さな箱庭のような空間。毎日のトイレ掃除の甲斐あって、白い壁やそこに設置されている洋式トイレは、その清潔さを保っていた。


 本来なら単なる生理現象のための場所が、いつしか私にとって瞑想の空間へと変わっていた。暖色系の柔らかな光に包まれながら、今日一日を振り返る。特別なことは何一つない。そんな穏やかな日常の繰り返しが、私の生活のリズムを作り出していた。


 時間が止まったかのような、そんな安らぎの時間。この何気ない習慣だけが、私の生きている実感を支えているのかもしれない。壁に囲まれた静寂の中で、心はゆっくりと落ち着きを取り戻していた。


 異変は、便器から立ち上がった直後に起きた。ドアまでたった二歩。その最初の一歩を踏み出した瞬間。


 ドンッ!ドンッ!ドザッ!


 鈍い振動を伴う衝撃。崩れ落ちる音。

 重い音が響き渡り、マンションの床が震えた。

 ドアの向こうで何かが倒れた音だった。


「何だ?」


 声に出して確認する。肩幅のわずか二倍ほどの所にある白い壁で、自分の声が反響した。


 ドアノブを回し、外に出ようとした。

 びくともしなかった。ドアが開かないのだ。一瞬、ドアノブが壊れたのかとすら思った。しかし、そうではなかった。ドアが完全に固定されたように動かなかった。


 このトイレのドアは、内側から外側へと開く開き戸だ。

 そこで、私はようやく気がついた。

 つまり、さっきの大きな音の正体は…。おそらく、このドアの向こうで、何かが倒れたのだ。それも結構な重量の。


 今度は全身の力を振り絞った。ドアノブを回しながら、体重をかけてドアを押したが、まったく意味がない。

 僅かな隙間すら、開けることが出来なかった。

 それから何度押しても、蹴っても、叩いても、ドアは微動だにしなかった。それはまるで壁に向かって突進するように無意味だった。


 冷や汗が自分の背中を伝い始めていた。


 オレンジ色の電球色の光に満ちた空間。両手を広げれば届く距離。立ち上がれば天井まで手が届きそうな高さ。普段はむしろ心地よく感じるこの狭さが、今では重苦しい圧迫感を感じた。

 トイレの開き戸。その狭いスペースを有効活用するための工夫ですら、今は私を追い詰めていた。


「誰か、いますか!」


 この叫び声は壁を叩くように響いた。白い壁紙の壁に跳ね返されるだけだった。


 私は一人暮らしだ。ここでいくら叫んでも、誰も聞いてはいないだろう。しかし、叫ばずにはいられない。

 この均一に降り注ぐ明かりの中で、自分の声を確認せずにはいられなかった。


 …ああ、そうだ。


 隣には若い男性が住んでいるはずだ。引っ越してきて半年。廊下ですれ違いざまにあいさつを交わした程度の付き合いしかない。

 名前すらも知らない。

 トイレのドアを叩いてみる。コンコンという音が、私の焦燥感を反映するかのように空虚に響いた。この狭い空間で、その音が大きく聞こえた。


「すみません!隣の者ですが!」


 返事はない。深夜だから寝ているのだろうか。それとも外出しているのか。壁の向こうの気配を察しようとするが、何も感じ取ることはできない。

 その代わりに聞こえるのは、このトイレに設置された換気扇が回っている音だけ。

 立ち上がって数歩動くたびに、壁が迫ってくるような錯覚に襲われた。


 続いて、トイレの水を流してみることにした。大きな音を立てることで、誰かが気付いてくれるかもしれない。水が渦を巻いて消えていく様子を見つめながら、誰かが気付いてくれることを祈った。

 しかし、その音さえも空しく響くだけだった。水が流れる音は、私の希望が流れ去っていくかのようだった。


 冷静に考えてみる。


 私が住むこの部屋は三階だ。そして、鉄筋コンクリート造のマンション。分厚いコンクリートの壁。そのなかにあるトイレの中でいくら騒いでも、私の助けを求める声が周囲に届く可能性はほとんどないだろう。

 プライバシーの確保され、快適な住まい。皮肉にもその環境が今の状況を産んでしまっていた。


 それに、今…。私のスマートフォンはリビングのテーブルの上で、充電している最中だ。

 だから、私は誰とも連絡が取れない。あの画面が、今では遥か遠くの惑星のように感じられた。たった数歩の距離なのに、もはや別世界のようだった。


 汗が額から滝のように流れ始めていた。来ているシャツの背中が湿っているのか、肌に張り付く。息苦しさが増していた。

 肩幅よりも少し広いくらいの空間。その壁にある白い壁紙が、ゆっくりと、しかし確実に迫ってくるような錯覚すら感じる。それは私を押しつぶそうとするかのごとく。

 この一坪にも満たない空間が、棺のように感じられる。


 ドアの向こうに崩れ落ちた重量物は、一体何なのか。本棚だろうか。倒れた戸棚か。しかし、トイレの出入り口にそんな棚は置いていない。

 私の記憶の中で、部屋の配置を必死に確認する。そこにあるはずのないものが、なぜ倒れているのか。


 まさか…。


 いや、そんなはずはない。一人暮らしの私をトイレに閉じ込めようとする人なんているはずがない。そんな理由も動機もない。それなのに、なぜこんな状況に…。

 両手を広げれば壁に触れるこの空間で、私の思考は堂々巡りを続けていた。


 ドアの隙間から、また何かが動く音が聞こえる。ギシッ、ミシッという重量物のきしむ音。たぶん倒れたものが、自重で少しずつ沈んでいく音なのだろう。

 しかし、なぜトイレの前で物が倒れているんだ?この時間に、この場所で。


 もう一度、ドアを叩く。今度は強く。拳が痛むほどの力で。私は繰り返した。


「助けて!誰か!トイレに閉じ込められています!」


 大声の叫び。しばらく、いろいろと行った。しかし、どこからも目ぼしい反応はない。


 今の私には、このドアの向こうに、何らかの重量物があることしか分からない。

 そして、その重量物は意思すら持ったかのように、私をこの密室へと閉じ込め続けていた。


 ドアの隙間から漏れる空気は薄れ、酸素が希薄になっていくのを感じた。まるでこの空間が、世界から切り離されていくかのように。

 時間の感覚が曖昧になっていく。どれくらい経っただろう。30分?1時間?それとも、もっと?


 朝が来ても、誰も私を探しはしない。会社を退職してから、友人なんてのもまったくいない。今週は、宅配の予約すらなかったはずだ。


 そう、私の不在に誰も気付かない。スマートフォン、知人、家族。それら、救いとなるものは全て手の届かない場所にあった。

 ここで私は、私の不安と、そして…。壁という名の檻に囲まれているのだ。


 換気扇のファン音が、私を嘲笑うかのように聞こえた。


「落ち着け。」


 自分に言い聞かせる声が、虚ろに響いた。それは他人の声のように。

 その声は、この狭い空間に閉じ込められている現実を、より確実に突きつけてくるように感じた。


 何度も何度も、ドアを押し開けようとしても。

 ドアの向こうには、正体不明の重量物が邪魔をするのだ。

 それはまったく動く気配がない。むしろ、時間の経過とともに、より重く、より確かな存在として私を押し包んでいるような気すらした。


 重量物には意思があるかのように、そこにあった。

 それはまるで私をここに閉じ込めておくという、強い意志を持っているみたいに、そこに存在しているのだ。

 この窮屈な空間の中で、私は同じような思考をグルグルと繰り返していた。


 耳を澄ませる。ドアの向こうの物音に。生活音が壁を通して漏れ聞こえてくる。

 返事など期待できない壁に向かい、私は白い便器に腰を下ろして語りかけ続けた。


 誰かの足音。テレビの音量を絞ったような、かすかな声。外の世界をのぞき込むかのように、私はいた。

 しかし、私の存在は決して彼らに知られることはない。


 一体どうすればいいのか?


 分からない。

 そのまま私は、壁に耳を押し当てながら、時間の感覚を失っていた。

 どれだけ時間が過ぎたのだろう。かつての暖かくすら感じていた明かりは今や無機質なものとなって、永遠に続くかのようにこの密室を照らし続けていた。


「誰か…。」


 声は、もう掠れて途切れがちだ。喉は乾き、舌は砂を噛むように痛い。

 周囲を壁に囲まれた中で、私の声だけが反響する。


 私は見た。


 白い陶器の便器。その背後に据え付けられた給水タンクが目に入った。

 そのタンクの上部には小さな手洗い用の洗面があり、クロームメッキの蛇口が見える。


 私はトイレのレバーを回す。操作に従って、細い水流が白い陶器の小さな洗面に落ちていった。もう躊躇している場合ではない。それに顔を近づける。流れ出る水に唇を寄せた。生温かい水が、喉を通り過ぎていく。その味は、水というより薄められた金属のような味がした。

 喉の乾きは僅かに潤されたものの、代わりに吐き気が込み上げてきた。


「私はここにいる。」


 もはや、それはまったく意味のない独り言だった。

 私は、白い便器に座り、返事のない壁に向かって話しかけていた。自分の声を確認せずにはいられない。

 それが、自分がまだここに存在している証のように思えてきたからだ。


 私だけが、この世界から切り離されてしまった。


 私は、目を閉じた。強い疲労感。酸素が薄くなってきたのか。それとも、ただの疲労か。もう判断する力さえ残っていない。

 光が、閉じた瞼の裏で踊っていた。意識が波のように揺らめいている。


 ドアの向こうから、何かが動く音が聞こえる。しかし、それが現実なのか、私の錯覚なのか、もはや区別がつかない。

 体を僅かに傾けただけで壁に寄り添ってしまう空間の中で、私の意識が完全に落ちていく直前、確かに何かが聞こえた気がした。


 誰かの足音。近づいてくる気配。そして、かすかな人の声のようなもの。


 それは救いの手なのか。それとも、この密室を作り出した犯人なのか。最後までその答えを確かめることはできなかった。

 日常という地平が、非日常という闇の中へと沈みゆく。意識が遠ざかる中、かすかにドアノブの軋む音が聞こえた。


 それは救いの手なのか、それとも――。

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