コンビニを出て、再び雨の街を歩く。ユウトは一人で帰宅できると言い張るが、交差点で行き先を迷ったり、たびたび後ろを振り向いては泣きそうな顔をしているところを見ると、見栄を張っただけで本当は帰り道など覚えていないようだ。

「やっぱりさ、おまわりさんのところ行こう?」

 ユウトは口をぎゅっと結んで、頑なにかぶりを振った。きっと自分の不甲斐なさが許せないのだ。自分の不注意で迷子になってしまったこと。帰り道がわかると言っておきながら、いまだに迷い続けていること。そして、あまりの心細さに泣き出してしまいそうなこと。

「悔しいのはわかるよ。でも、このままだとおうちに帰れないよ?」

 早紀が差し出した右手を、ユウトはぴしゃりと払った。彼の歪んだ頰の上を、もどかしさの雫がするりと滑る。その勢いはたちまち激しさを増し、昼過ぎから急に降り出した今日の雨のようにどしゃ降りとなった。

 ユウトは肩を震わせるばかりで、もはや歩く気力もないようだ。早紀はその場に屈んで目の高さを合わせると、じっと彼の言葉を待った。

「ほんとに、知ってるんだもん……」

「うん、わかってる。帰り道、知ってるんだよね。だからなおさら、上手くいかないことがじれったくて仕方がない」

 母は何かにつけ早紀にケチをつけ、自分の考えを強引に押しつけてくる。今どき周りにそんな考え方をする友達なんていないし、母の指図はいつだって自分勝手で頭ごなしだ。それは現実的でも魅力的でもなく、早紀にとってはカビの生えた野暮ったい重荷でしかない。

 でも早紀は知っている。勝手気ままな母が命じる過剰な押しつけの根幹は、娘を案ずる気持ちだということを。だからこそ母は、苦くて不味いとわかっている薬を毎日飽きもせず飲ませようとする。今まさに早紀が、迷子という苦い現実をユウトに飲み込ませようとしているように。

「でも、大好きなお母さんがいるおうちに帰るためだもん。おまわりさんに助けてもらおう。私の言うことを信じて」

 急に言葉が詰まり、思い出したくもない光景がどっと押し寄せてきた。息苦しさと吐き気に思わず目元が歪む。


 あの日、母は残業で帰りが遅くなるとメッセージを送ってきた。だから早紀は、友達を誘ってファミレスで夕食をとったのだ。

 思いのほか話が弾み、帰りが遅くなったのがいけなかった。午後十時近くになって慌てて帰路につくと、家の近所に見慣れない車が停まっている。反対側の歩道から何気なく車内を覗くと、運転席の男が助手席の女に覆いかぶさってキスをしていた。女の顔は見えなかったが、首に巻いた涼しげな色のスカーフが印象的だった。

 まさかそれから十分も経たないうちに、そのスカーフと再会することになるとは思わなかった。帰宅した母の首元を飾る涼しげな色合い。早紀は先ほど見た鮮烈な光景を思い出し、母の目の前で激しい吐き気に襲われた。

 嘘だらけで汚らわしいケダモノ。帰り際にあんなことをするくらいだから、今夜の残業はさぞ帰りが名残惜しかったことだろう。


「ユウト君!」

 声のしたほうを向くと、今にも泣き出しそうな四十代くらいの女性がこちらに駆け寄って来る姿が見えた。

「この子のお知り合いですか?」

 彼女は英語教室の事務員だった。二時間ほど前、今日のレッスンを終えたユウトは、母親が目を離した隙に駐車場で迷子になったらしい。現在、通報を受けた警察官やスタッフが大勢で行方を捜しているそうだ。

 三人でタクシーに乗り、ユウトの母が待っている警察署に向かった。ユウトは警察署で母にきつく抱きしめられると、まるで必死に押し込んでいた固い栓が一気に抜けたかのように大声で泣き出した。母もぼろぼろと涙をこぼしている。ユウトがいなかった数時間、母は文字通り生きた心地がしなかっただろう。

 ユウトをずっと保護していた早紀は、後日警察から感謝状を贈られることになった。ようやく肩の荷が降りて、気分よく帰途につく。だが、ご機嫌だったのは束の間。次第に早紀は、先ほど警察署で見たユウトと母の再会に苦々しさを感じるようになった。

 口うるさくて、鬱陶しくて、家族が知らない別の顔を持つ私の母。同じ母には違いないが、子を抱きしめて涙を流すユウトの母のような心が、本当にあの母にもあるのだろうか。

 なおも辺りを埋め尽くす乾いた雨音を浴びながら、早紀は家に着くまでの間、ずっとそのことばかり考えていた。


 玄関のドアノブに手を掛け、何度も深呼吸を繰り返す。このドアを開けた先は、息苦しい空気に支配された冷たい世界。胸が早鐘を打ち始める。逃げ出したい気持ちがないといえば嘘になるが、逃げたところで行くあてなどありはしない。それに逃げたってどうせ、母が住むこの家に連れ戻されるだけだ。だったら私がこの手で、終わりの見えないこの世界にとどめを刺すしかないではないか。

 震える手でゆっくりとドアを開けると、思いがけない光景が早紀を待っていた。レインポンチョを着込んだ母が、二本の傘を手に持って玄関の土間に立っている。

「あら、早いじゃん。傘持ってたんだ」

「……うん。帰りに買った」

「そう、すれ違いにならなくてよかった」

 母はこれから、早紀に傘を届けるため中学校に行くつもりだったようだ。

「あのさ、帰りが早かったの、部活サボったから」

「ふうん、そういうときもあるよね。明日からまた頑張んなさい」

 傘立てに傘を戻した母は、レインブーツを脱ぎながら事も無げに言った。いつものようにねちねちととがめてくれれば、うってつけの淀んだ流れが出来上がったというのに。このままでは踏ん切りがつかない。こうなったら多少強引でも、逆戻りができないくらいの濁流を自分で作らなければ。

「だったらさ、小さい頃みたいに抱きしめてよ。できないなら、今日で全部終わりにする」

 目を疑わずにはいられなかった。あっという間に母の胸が迫ってきて、次の瞬間にはほのかな温もりが頰に優しく染みていた。

 思わず涙がこぼれた。いつもは自分勝手で口うるさいくせに、こういうときに限ってあの頃のお母さんに戻るなんて。やっぱり私の母は、ずるくて意地悪で鬱陶しい。でもあの頃と同じくらい、柔らかくていい匂いで、どしゃ降りの心をたちまち乾かしてくれるくらいあったかい──。

 迷子だった自分を、やっと見つけてもらえたような気がした。ホームセンターで傘と一緒に買った出刃包丁は、使わずにこっそり捨てようと決めた。

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頑固な迷子の対処法 塚本正巳 @tkmt_masami

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