コンビニに入った早紀は、ボックスリュックから部活用のスポーツタオルを取り出して男の子を念入りに拭いてやった。彼は別段嫌がることもなく、早紀に頭を差し出してされるがままになっている。コミュニケーションは何一つ成立していないが、こうしてしおらしくしてくれるだけでも可愛く思えるのだから子供とは不思議なものだ。

 あらかた拭き終えると、男の子は一人でふらりと店の奥へ行ってしまった。リュックを背負い直して追いかけると、ドリンク類が並ぶ冷蔵棚の前で彼を見つけた。

「そういえば喉乾いたね。なんか飲む?」

 早紀が冷蔵棚の扉を開けてペットボトルを一本摑むと、男の子は初めて小さな声を出した。

「わーらー」

 驚いて見下ろすと、男の子が得意げに早紀を指差している。

「今、何て言ったの?」

 優しく問うてみると、男の子は突き出した自分の人差し指を、早紀が持っているミネラルウォーターにぐいと近づけた。

「ああ、ウォーター。英語で言えるなんてすごいね」

 頭を撫でようとすると、彼はまるで拒否するかのように激しくかぶりを振った。

「ううん、わーらー」

 早く水が飲みたい、ということだろうか。それにしても、外見はどう見ても日本人だがかなり流暢な発音だ。

「その発音、まるでネイティブの先生みたい。どこかで習ってるの?」

「うん、しおかぜモールのとこ」

 そういえば、近所のショッピングモールに子供向けの英語教室が入っている。そこに通っているなら慣れた発音も不思議ではないし、ひょっとすると今も教室に行った帰りなのかもしれない。

「だから英語が上手なんだ。ねえ、その英語教室に戻ってみようか。お母さんが捜してるかもしれないし」

 男の子はそれには答えず、早紀の目を覗き込みながら例の言葉を繰り返した。

「わーらー」

 早紀の笑顔が微かに歪む。どうやら彼は、早紀の発音の間違いを指摘しているようだ。自慢するほどではないが、英語は早紀の得意科目だ。十歳以上も歳下の幼児にダメ出しされるのは、さすがに面白くない。

「はいはい、ウォーターね。君も飲む?」

「ううん、わーらー」

「──えっとね、アメリカ英語だとそうだけど、イギリス英語だと〝ウォーター〟っていうんだよ。知ってた?」

 男の子はあからさまに眉を寄せた。思わず視線が泳ぐ。顔が燃えるように熱い。私は幼児相手に何をむきになっているのだ。

「う、うん。わーらーね、わーらー。もう覚えた、ありがとね」

 何とか土俵際で苛立ちをせき止め、精一杯の笑顔を作って見せると、男の子はすぐに満面の笑みを浮かべた。頑固なところはあるが、悪気があるわけではない。しかも目の前の笑顔は、早紀が一つ賢くなったことへの純粋な祝福だ。そう考えれば、いつも怒ってばかりの母なんかよりずっと優しくて思いやりがあるではないか。早紀は苦笑せずにはいられなかった。とてもじゃないが、今の自分はこんな風に人の幸せを喜ぶことはできない。

 早紀と男の子は飲み物を持って、コンビニのイートインカウンターに落ち着いた。ガラス壁の向こうは相変わらずの大雨で、建物も木々も道路もぐずぐずと灰色に滲んでいる。そして隣には、紙パックのオレンジジュースを嬉しそうに飲む男の子。この光景がやたらと長閑なだけに、外の荒天がなおさら陰惨に見えてしまう。

 嫌な気分に負けず部活に参加していれば、少なくとも目の前のどしゃ降りに辟易することはなかった。もちろんこの子に会うことも、ホームセンターに立ち寄って買い物をすることも……。

 早紀は改めて男の子の顔を盗み見た。もしかすると彼は、今日の自分を救うために現れた小さな王子様ではないだろうか。自分勝手な妄想かもしれないが、ひどく沈んでいた心がそう感じるのなら、もう少しこの偶然に付き合ってみるのもいいかもしれない。

 先ほどの英語のやり取りが功を奏したらしく、男の子は少しずつ会話に応じるようになった。彼の名前はユウト。思った通り、母親とショッピングモールにある英語教室に行った帰りらしい。だが、当初から母親の姿はどこにもなかった。帰る途中ではぐれたか、もしくは一人で教室を出てしまったのかもしれない。どちらにしても、今頃母親は血眼になって彼を捜しているだろう。

「これ飲んだらさ、一緒におまわりさんのところに行こうか」

 ユウトはぽかんとするばかりで、返事をする様子はない。いまいち要領を得ないようだ。

「おうちに帰りたいでしょ? お母さんも心配してるだろうし」

「今ね、帰ってるとこ」

「おうちがどこかわかるの?」

 力強く頷いたユウトは、少なからず口元を強張らせた。迷子ではなく、あくまで帰宅途中なのだという彼の主張はそこはかとなく怪しい。しかし本人がそう言い張るのだから、強引に交番まで引っ張っていくわけにもいかない。

 早紀の気苦労などどこ吹く風とばかりに、ユウトは機嫌よくジュースを飲み干すと、両手の人差し指を立てて頭の上に乗せた。まるで彼の頭に二本の角が生えたかのようだ。

「なあに、それ? お母さん?」

 何気なく訊ねると、彼はいかにも心外といった様子で目を丸くした。

「違う。スネイル」

「スネイルって何?」

「カタツムリ」

 どうやら頭の角は、先ほど植え込みで観察していたカタツムリの真似らしい。

「そっか、確かに似てる。角みたいに目を伸ばしてたもんね」

 それにしても、角を生やした姿を母と勘違いするなんてとんだ笑い草だ。確かに早紀にとって母は、いつも怒ってばかりで、口を開けば押しつけがましい小言ばかりの厄介な鬼に違いない。しかも母と話したり、母のことを考えたりすると、早紀自身も鬼に取り憑かれてしまったような気持ちになることさえある。

「じゃあさ、お母さんの真似できる?」

 彼にとって母とはどんな存在なのだろう。ちょっとした好奇心から出た何気ない質問だったが、ユウトが取った行動はあまりにも意外だった。彼はしばらく思案を巡らせたかと思うと、いきなり早紀に抱きついてきたのだ。

「──どうしたの?」

 早紀の胸に頰を強く押しつけるユウト。戯けている気配はまったくない。おそらく彼の物憂げな瞳には、目の前にいる早紀ではなく、いつも一緒にいる優しい母が浮かんでいるのだろう。ユウトにとって母とは、こうして安心や温もりを与えてくれる掛け替えのない存在のようだ。

 母の真似をしようと考えているうちに、母のことを思い出して恋しくなってしまったのだろう。そんなユウトの頭をゆっくりと撫でていると、心の中に不思議な感覚が広がっていくのがわかった。彼のような時期が、幼い頃の自分にもあったような気がする。不意に母の穏やかな笑顔が脳裡をよぎり、抱きつくユウトを抱きしめずにはいられなくなった。

「早くおうちに帰ろうね。帰ったらお母さんに、いっぱい抱っこしてもらおう」

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