あなたを愛してる

桂木 京

あなたを愛してる


「あなたを、愛してる……?」


俺がその本を手に取ったのは、本当に偶然だった。


あまり勉強が得意ではない俺。

母子家庭だったので高校を卒業したら就職するつもりだったし、もう内定も貰っていたので勉強する必要は、毎学期の中間・期末試験のためだった。


この日も、友人と期末試験の対策を立てるために図書館に来た。

赤点さえ取らなければいい俺と、どうしてもいい点を取って受験への足掛かりにしたい友人とは、入館当初より温度差があり……。


「少しだけ集中したいから、お前、暇なら帰ってもいいぞ。」


などと言われてしまう始末。

しかし、せっかく一緒に来たのだから、勉強後はカラオケやファミレスに行こうと思ってたものだから、適当に読みやすい本でも見繕って時間を潰そうと思っていた。


「マンガは……あるかな?」


俺にとって、読みやすい本=マンガだったので、そんなコーナーはないかと図書館の中を歩き回っていた。


そんな俺がたどり着いたのは、絵本のコーナーだった。

その中の1冊に、俺の目は釘付けになった。


青空の写真の拍子。

他に飾るような言葉はなく、中央に『あなたを愛してる』と一言だけタイトルの入っているその本。


気が付くと俺は、その本を手に取っていた。


表紙を開くと、鮮やかな水色が目に飛び込んできた。

文字は、あまり多くない。

パステルで丁寧に描いた絵と、短く簡潔で、それでいて温かみのある言葉が絶妙なバランスだった。


「……子供向け、じゃないよな……。」


絵本なんて、自分で開いて読んだ記憶などない。

幼い頃の記憶で、母の膝の上で読み聞かせてもらったような、そんなおぼろげな記憶しかない。


―――この街で生まれ、どんどん大きくなっていくあなたを見て、私は生きようと思った―――


―――高台にある、古いカフェ―――


(ん? これって……)


読み進めるうちに、俺はあることに気が付いた。


海辺の街。

高台のカフェ。

浜辺のクレープ屋。


どれも、聞き覚えや見覚えがあるものばかりなのだ。


「これ……この街?」


俺は、気が付くとこの絵本を借りていた。




「すみません、この絵本の作者、知ってますか?」


絵本を借りる際、俺は司書のお姉さんにこの本の作者について訊ねた。


「ごめんなさい。地元の方からの寄贈ということは知ってるんですが、それがどなたかというのは知らされていなくて……。いい絵本ですよね。」


司書のお姉さんも、絵本を読んだことがあるようだった。


「あの、この本の作者、どんな人だと思います?」


「あぁ……心優しい人だと思います。そしてきっと女性……でしょうね。」


「どうして?」


「ふふ、それは最後まで読んでみたらわかると思いますよ。」


俺の質問に、司書のお姉さんは優しい笑みを浮かべ、そう答えた。



まず、俺はこの絵本に描かれている風景を探すことにした。

もちろん、この絵本を読み進めながら。


読み進めていくうちに、この絵本はある誰かにあてて書いているものだということに気付いた。

呼びかけるような文言。

そして、時折目にする『一緒に~』の言葉。


「どんな人なんだろ、書いた人……。」


作者はどんな人なのか。

俺の興味は増すばかりであった。



結局、この日俺が訪れた場所では、作者に関する手掛かりは何一つとして得ることは出来なかった。


分かったことはどの建物も、どの風景も、実際に存在するもの。

カフェも、クレープ屋も、先々に出てくる古着屋も、全て実際に存在していた。

そしてどんな偶然か、そのお店の人たちは皆、俺の顔見知りだった。


「おう、ずいぶん大きくなったじゃないか!」


「見ない間にイケメンになって~」


「お、またサイズが合わなくなったのか?」


まるで昔からの知り合いのように、俺に声をかけてくれる店主たち。

中には、俺の母と同級生の人もいて……。


「久しぶりに同窓会でもしましょうってお母さんに言っておいて。」


なんて言われたりもした。



絵本の作者探し。

初日は空振りのまま、気が付くと日が暮れかけていた。



「おかえりなさい。あら……その本は?」


帰宅すると、母が夕食を用意して待っていた。

自分も夕方まで仕事で忙しいのに、これまでどうしても外せない仕事や用事の時以外は、こうしてしっかりと、きっちりと食事を用意してくれる。


店屋物で済ませた記憶など、数えるほどしかない。

家の中はいつもきれい。

洗濯ものが山になったことなどない。

かと言って、貧しい生活をしているわけでもない。


母のお陰で、俺は何不自由なく暮らしてきた。

反抗期に何度か母に逆らっては悲しい顔をさせるということもあったが、俺は母のことを心から尊敬している。


逆に、俺は母にとってちゃんと自慢の息子でいられているのか?

それが不安だった。

もし俺がいなければ、もっと母は自由に、そして伸び伸びと生きていけたかもしれない。

一度、そう母に言ったことがある。


その時、俺は生まれて初めて母に頬を張られた。

あの時の、母の涙に濡れた表情を、俺は一生忘れることはないだろう。



「あぁ……図書館で偶然見つけてさ。気になったから借りてきた。」


俺は、絵本を母に見せる。


「あぁ、綺麗な絵本ね。……ふ~ん、あなたが、絵本ねぇ……。」


母は、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、俺と絵本を交互に見る。


「良いじゃねぇか。別に子供向けって感じでもなし。俺だって、綺麗な本は見てみたいと思うさ。」


「綺麗な本かぁ……うふふ」


照れて語気が荒くなる俺を見ながら、なんだか楽しそうな母。


「絵本は文字が少ないから難しいけど、絵と一緒に文字をよく見て、作者がどんな気持ちで書いたのかを読み解くことが大切よ。作者の気持ちに、ちゃんと寄り添ってね。」


そして、これまで勉強関係のお小言を一切言ってこなかった母が、そう言った。


「珍しいな、母さんがそんな風に俺に言ってくるなんて。」


母は、いつもと変わらない笑顔で、一言。


「まぁ、お母さんは大学は文学部だったからね。そういうの得意だったのよ。」




――――――――――――




普段、勉強机になど向かわなかった俺。

小さいときに買ってもらった机は、今ではマンガ置き場になっている。

そんな勉強机にしっかりと座って、俺は絵本の内容を理解しよと夢中になっていた。


文中に出た地名・風景・店……そう言ったものは全てメモした。

すると、俺とほぼ生活圏が同じことが分かった。

何という偶然だろうか?

俺を作品の世界に没入させるには十分すぎた。


そして、司書のお姉さんが言っていた言葉の意味。


「最後まで読んでみたらわかると思いますよ。」


俺は、夢中になって文を読み、絵を眺め……

気が付くと、絵本を読破していた。


「この作者も、シングルなんだな……。」


直接的な表現はなかったが、文を読んでいくうちに、作者がシングルマザーであるような表現の分が幾つか見受けられた。


「みんな、シングルマザーってこんな風に思うのかなぁ……。」


母のことを考えた。

父と離婚し、小さな俺のことを一人で育てようと思った時、母は何を思っただろう。

俺のことを邪魔に思ったり、産まなかったらなんて思ったことは無いのだろうか?


「俺……親孝行、してないな……。」


一生懸命育ててくれた母に、俺は恩返しを何一つ出来ていない。

言いようのない申し訳なさが、心を満たしていった。


絵本の風景に実際に触れるたびに、そして同じ場所で同じ文字を読むたびに、作者の『相手』への愛情が流れ込んでくる。


何となくだが、分かったことがある。

離婚を経て精神的にダメージを受けた作者は、『子供』の存在を励みに日々必死に生きてきた。

そして、仕事も軌道に乗ったところで、作者はあることに気付く。


自分は『生きること』に必死になりすぎて、愛する息子の成長にちゃんと向き合えていたのだろうか、と。

美しい故郷の景色。

仲の良い店の人、親切にしてくれる近所の人……。

そんな人たちに触れ、自分の気持ちに余裕が出来てきたときに、作者は子供への愛情を再確認する。


そして、子供と一緒に生きていくことの幸せを、再度噛みしめる。


「何か、似てるな。俺たちに……。」


物語を読んでいくうちに、なんとなく境遇が俺と母に似ているなぁ、と思った。

俺は物心ついた時から母は仕事に出ていたし、その間は祖母が俺の面倒を見てくれていた。

毎日、寝る前に仕事から帰って来て、布団の中の俺の頭を撫でる日々。

その度に母はこう言っていた。


「ごめんね。」と。



母を恨んだことはない。

育ててくれたことに感謝している。

今まで、今でも必死に家族のために、俺のために昼夜働いてくれていることにも感謝している。


謝りたいのは俺の方だ。

高校を出たら働く、そう決めたのは母を助けたいと思ったから。

その気持ちに偽りはないのだが、それなら今までの18年間、俺は何を母のためにしてきたのか?


のうのうと飯を食い、綺麗に洗濯され畳まれた服を着て出かけては汚して帰り、恥ずかしいからと母の手作りの弁当を隠れて食べたこともある。


成績は決していい方ではなかった。

母は俺のために勉強がしやすい環境をと、自分の部屋を潰して俺の勉強部屋を作ってくれた。



そんな勉強部屋で、俺はテレビゲームに明け暮れていた。


母はそんな俺を見たとき、どんな気持ちだっただろうか?


直接そのことについて叱られたことはない。

それでも、がっかりはしただろう。


「母さんの厚意を、ことごとく無下にしてきて、今更親孝行とか言っても、響かないか……。」


奇しくも、この美しい絵本が、母に対する罪悪感を掻き立てていくのであった。




「……ん?」



気持ちが重くなりながらも、次のページを開いた、その時だった。


―――仕事が辛くたって、他の人に笑われたって、自分のやりたいことが出来なくたって、自分の服がボロボロだって、それでもいいの。あなたが生きていてくれること、あなたが笑ってくれることが、私の幸せ―――



この言葉、そしてこの風景。


俺には見覚えがあった。

高台の、海の見える丘の公園。

俺が物心ついた時に、母に手を引かれてやってきた公園が、確かこんな感じだった。


俺は、公園に向けて全力で走る。


覚えているのは、景色だけではない。

この文章の一字一句を、俺は覚えている。

この絵本を読むのは、初めてなのに。


それは何故なのか?



幼いときに、俺が直接聞いた言葉だったから。


しかし、まだ確信できなかった。

この絵本の風景の場所で、この言葉を思い出したときにきっと、この『作者』のことが分かる。


俺は、そう確信した。




―――――――――――――



「やっぱり、そうだったんだ……。」


丘の上の、海の見える公園。

そこに辿り着き、俺は確信した。


幼いながらも鮮明に覚えている、この光景。

優しく頬を撫でる海風も、少しうるさいくらいに響くカモメの声も、どこまでも続く水平線も……。


俺の記憶の片隅に、しっかりと残っていた。



「……何て偶然だよ……。」


手にした絵本を、パラパラと見ていく。


好きな色は、空色と海色。

青でもなく、水色でもなく、空と海、それぞれの色が好き。

いつだって前向き。

言いたいことはハッキリという。

凹んだり、悲しかったりしたときには、とりあえず海を見に行く。

そして、叫ぶ。


この作品の『一人称』の人物は、まぎれもなくその人。

そして俺は、この世で一番その人のことを知っている。



俺は、少し緊張しながらも、作者に電話をかけた。



「………作者だったら、昨日のうちに言えよな、母さん。」



もし、俺の言葉の意味が分からないでいたら、俺の思い込み。


しかし……。


「あはは、ついにバレたか。あなたにしては早かったじゃない。もう少しここまで来るには時間がかかると思ってたよ。」


母は隠すことなく、自分が絵本の作者であるということを白状した。


「絵、描けたんだな。」


「知らないかもしれないけどさ、これでも美大出身なのよ。もっと本格的な油絵を描いてたものよ。」


「絵は、もうやめたのか?」


「まぁ……描く暇もないし、画材買うよりも大切なものもあったし。」


そう言えば、俺が幼い頃に物置の隅で大量の絵の具を見たような気がする。

父と離婚したせいで、自分の趣味に時間を割くことも出来なかったのだろう。


「ごめん……俺のせいだよな。」


俺が父についていくことになれば、母はもっと自由に生きられたはず。

母の充実した人生を奪ったのは、この俺の存在だ。

そう思うと、自然と母への謝罪の言葉が出ていた。



「ちょっと待って。あなた、本当に私の本を最後まで読んだ?」


俺の謝罪を聞くと母は、予想に反して笑いだした。


「もちろん、全部読んだよ。」


「い~や読んでないね。読んでたらそんな謝罪の言葉なんて出ないはずだよ。」


母は笑いながら言う。

少しだけ苛立った。

俺は真剣に母のことを考えているのに、なぜそんなに笑うのか、と。


「だから読んだって。だから母さんに電話したんじゃないか……。」


「……最後から3ページ目。」


母はそんな俺に何かを教えるように、ページを開くよう指示する。

それはそれに素直に従い、最期から3ページ目を開いた。



―――やりたいこともたくさんあった。出来ないこともたくさんあった。でもね、そんなことはどうでもよくなった。私がやりたかったことよりも、もっと楽しい事、嬉しいことが見つかったから―――


私が全て文を読み終わるのを見計らったかのように、母が言う。



「……それは、あなたを育てる、ということよ。絵の見本よりも表情がコロコロ変わるし、毎日まいにち成長しているのを感じる。明日はどんな成長してるんだろう、明後日は何をしてくれるんだろう……それを考えるのが、私のいちばんの趣味になった。」


母のその声は、優しさに満ちていた。



「なんだよ、それ……。」


反抗期には散々母の言うことを無視し続けた。

せっかく作ってくれた弁当も食べずに持ち帰ったり、買ってきてくれた服も趣味じゃないと着ることがないままサイズアウトしたものもあった。


遊びに行こうという母の誘いよりも、友達とのくだらない遊びを優先させたこともあったし、理由もなく母を無視し、遠ざけたときもあった。


それでも母は、いつでも俺に笑顔を向けてくれていた。


「俺、今思うと結構ひどい事したぞ。今更謝っても足りないようなこと……。」


思い出せば思い出すほど、罪悪感が増す。

子供とはどうしてこうも向こう見ずなのか。

しっかりと考えれば、母がどんな顔をするかなど容易に想像できるはずなのに。


往々にして、反抗期は親に理不尽だ。

未熟な知識をひけらかし、ちっぽけなプライドを大きく掲げ、必死に親に逆らおうとする。



「それも含めて、子育てなのよ。一人じゃ何も出来なかった赤ちゃんが、プライドを持って一人で生きようと一生懸命背伸びする。親にとっては……まぁ、時々イライラはするけど、嬉しいものよ。」


しかしそれでも親は、子を見守る。

変わらぬ愛を持って。


「母さん……俺、頑張って働く。もっともっと母さんを楽させる。」


「若いうちは、自分のやりたいことをやればいいのよ。」


「母さんの絵、ちゃんと見たい。」


「一緒に描くか! それも楽しみねぇ。」


「もっとたくさん出かけよう。もっと美味いものたくさん食おう。」


「贅沢しすぎないように気をつけないとね。」


思いつく限りの言葉を母に伝えようとする。

しかし、未熟な言葉ばかりが口から出る。


「あとさ、あと……。」


「大丈夫だよ。気持ちは伝わってるから。あ~ぁ、反抗期は反抗期でまぁまぁ面白かったんだけど、もうおしまいかあ。ホッとするような、少し寂しいような……。」


母がまた笑う。

それは、冷やかしではなかった。

本当に、母は俺と接することを楽しんでいるのだ。


「楽しみね~。成人してお酒を飲んで、そのうち彼女を連れてきて結婚なんて話になって。婚約者さんとキッチンに立ってあなたの愚痴を言うの。その後は孫が生まれて、おもちゃ買い過ぎだ! なんて怒られて……。あぁ、子育てって、しばらく終わらないのね~」


母のその言葉は、希望に満ち溢れていた。

俺の将来に対する希望が、たくさん詰まっていた……。



「母さん……大好きだ。」


顔が赤いのは、いつの間にか水平線に近づいている夕日のせいだ。

俺は堂々と、母絵の気持ちを素直に伝えた。


「うん。ありがと。」


母はいつも通り。サラッと返事をする。

必死に言葉を絞り出した俺は、拍子抜けした。


「あのなぁ、これでも必死に……。」


「ねぇ、愛してるよ。私が死ぬまで、ずっとね。」


抗議しようと言いかけた俺の言葉を遮るように、母は恥ずかしがることなくこういった。


「……良く堂々と、そんなこと言えるな。」


「親になれば、分かるわよ。子育てはやり直しできないの。言いたいことを飲み込んでたら、恨み言にしかならない。あぁ、あの時言っていれば良かったって後悔の言葉しか出なくなるのよ。だから、言いたいときに気持ちを伝える。」


親とは、そう言うものなのか。


俺は、母の偉大さを感じた。




「愛してるよ。いつまでも。」


母はもう一度、俺に言った。





――――――――――――




俺が母の書いた絵本と出会い、母と互いに気持ちを伝えあうという出来事があってからというもの、俺と母は以前よりも互いのことを気遣い合える間柄になった。


いや、母はこれまでと変わらず、ずっと昔からおれのことを気遣い、見守ってくれていたのだろう。

変わったのは俺の方かも知れない。

母のために、母が喜ぶことを……そう考えるようになった。



「なんかさ、優しくなったよね。」


「昔から俺は優しいだろ。」


「まぁ……根は、ね?」


「なんだよそれ……。」


つまらないことでも笑いあえるようになったし、何が冗談で何が本気なのかを察することも出来るようになった。

結局のところ、互いに想い合う気持ちがあれば、特に特別なことをしなくても笑いあえる関係でいられるということだ。


そんな簡単なことを、俺は知らなかった。


母の絵本は、それを俺に教えてくれた、『運命の一冊』だった。


自分は愛されているのか?

本当に、大切に思われているのか?


そんな疑問を抱いたこともあった。

しかし、それは些末なことだったのだ。


「親はね、子供には無条件で愛を注ぐ生き物なのよ。子供が大きくなっても、ずっとね。」



いつも真っすぐで、会話は直球勝負。

不器用で小細工などできない、そんな母。



母が書いた絵本を読んで、俺はようやく『母の自慢の息子』に近づけたような気がする。

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