太陽

月藤灯(つきふじともる)

太陽

 やっ、と声をかけられて、はっとして振り向くと日野さんがいました。わたしと同じで高くない身長が、けれどすこし日焼けして美しく幼げにみえます。ぎらりとわたしの背中を濡らす陽差しは彼女にはよく似合って、今日という日がとにかく彼女のためにあるような心地がしました。

「どうしたのてるちゃん、ぼんやりして」

 日野さんはやさしく眉をさげて訊きます。「こんなに晴れてるのに」

「こんなに晴れてるからですよ」かすかに笑いながら、わたしは答えます。「日野さんは、晴れた日が似合いますから」

「あと、てるちゃんはやめてください。わたしは輝香しょうかです」

「それ、何回目? もう直せないよー、慣れちゃったし」

「直してください」はっきり言葉を伝えるのにもずいぶん慣れてきていて、わたしは笑います。「じゃあ、行きましょうか」

「うん」日野さんも、口の端をぐいとあげました。「あついねえ、今日も」


 見つめることの喜びをわたしはよく知っていて、だから通り過ぎるすべてのひとを見つめていました。そういうことがほとんど趣味になっていて、たしなめられては反省します。日野さんも、やはり、わたしが車道をはさんだ遠くの歩道ばかり見るのに眉をひそめました。そうして言います。

「人の顔が気になるなら、あたしを見なよ」

 びっくりしました。だから――期せずして、言われたとおりに――わたしは日野さんを見ます。わたしのおどろいた顔に日野さんもおどろいたようで、どうしたのさ、と口がぐいぐい動きます。ぐいぐいと動くのを、やはり見てしまいます。顔は綺麗でした。ぱっと開いた目もとは、それを視線と呼んで捨ててしまうにはちょっと大きくて広すぎるかも、わたしを包みこんで大洋のような、黒いけれど、そういう爽やかな青さ、嬉しさの忍ぶ瞳でこちらを見ています。この国に生きて人を見るのなら、どんなに楽しくても、うれしくってもはしゃいでも、わたしたちの瞳はどうしようもなく黒くって、ただわたしと彼女の存在を規定する角度、身長差と地面の高さと姿勢の悪さ、それだけでそこにある光はだまされたように無くなってしまいます。わたしと彼女の、地面、いいえアスファルトの舗道、から一四九センチ、からすこし低い位置、そのほとんど平行な視界どうしのまじわり、そういう関係と、またじとりとわたしの背中を、それと彼女の頬とを濡らす陽光との関係で、きっと今はいい角度にあるのでしょう。こんなにもきらめく黒色は、雪にも、星にも、そこにあるなんでもない一軒家の中にも無い煌めきです。だからこそきれいな顔でした、吸い込まれそうというには快活すぎるほどに、よろこびが、つまり人と人が見つめあうことの微妙であたたかな輝きと美麗が、この真っ黒の大きくて丸い眼にあって、だからわたしはこの人を、人生のたった一部、つまり友人、愛のたもとに佇む人びとの一人、支える力、そういうものとして好きになったんだ、と、あらためて呼吸が詰まります。

「どうしたのさ」もう一度訊かれます。汗ばんだ頬が涙に見えました。

 すみません、とすこしつっかえる言葉を吐き出して、立ち止まったわたしたちは歩きだしました。かわいいですね、日野さん、と言ってみたのは、感情を落としこむのにずいぶん軽い程度の言葉だったからでした。えへと笑う日野さんはやはりかわいらしく見えました。

 日野さんはそれからよく喋りました、きっとわたしが見る先の固定のためでした、ぐいぐいと動く唇に確かに吸われて、きらきらと揺れる瞳に呑まれて初めてわたしは「はい」と返事をしたつもりで、その実、むう、ともあい、ともつかずに口元が鳴ります。てるちゃん単位はどう、あたし全然だめなんだこのままじゃリューネンかも、あはは、ふふ、笑うのが精いっぱいで呼吸が浅いけれど、わたしは大丈夫です、たぶん。そっかそうだよねてるちゃんは、ほら、真面目、真面目だし、あーうらやましい、いやあたしが悪いんだけどさあ、ふふ、あはは、でも日野さんは部活が忙しいでしょう、まーね、ほら、瞳が揺れました、テニスってちゃんとやるとほんと忙しいんだ、今日も朝練で来てたわけだし。小さな写真サークルでやんわりと花と空を撮ってばかりのわたしは、けれど彼女をはっきり尊敬していました。日野さんがテニスをしているところはほとんど見たことなんてなくって、でも、焼けた脚、汗ばんで朗らかな笑顔、そういうものはまさにスポーツマン、女の子だけれど。かっこよくて、かわいい、こんな魅力にあふれる女の子は運動に忙しいに違いありません。ようやくわたしの口も笑いました。嬉しくってたまりませんでした。ふと視線を落としたら脚があって、イヌホオズキがいくらか咲いて、続いて、写真は撮れなかったけれど素晴らしくて笑えました。わたしが笑うと日野さんはうれしそうに、唇がぐいぐい、喜んで、ゆっくり歩きます。どこに着くのか決めていない、普段の駅へ向かう道からはちょっと外れているこの路地まで包み込んで、一人で空と太陽をやってるみたいな笑顔で、今度は彼女もイヌホオズキに気がつきました。

「ひゃ、かわいい」。ね。黒の眼がきらと揺れます。「撮んないの、写真」

「遠慮しておきます」さっき見えた素晴らしさは、どうしてかあまり残っていませ

んでした。

「ちょっとおっきな葉っぱと、小さな花、ですね」当たり前のことを言いました。毒があると聞きます。

「かわいい」路地の雑草がそう揺れました。日野さんの瞳とわたしが繋がりました。

「やっぱ、撮っとく?」

「いえ……でも、うん、いいですね。こんな草花くさはな

「んー、そういうこと言ってるとカナタにもってかれるよお」しゃがみこんでそう草をすこし撫でて、奏太さんとは日野さんの恋人の名前でした。植物学をやっているそうでした。きゃは、と日野さんがやや高めに笑いました。

 ゆるゆると太陽が汗を照らしました。毒のあるイヌホオズキまで愛おしいのは不思議でした。


 ゆっくり歩いていても公園に着きました。目的地と思っていなくても、なんとなくここが今日のゴールでした。夏の日には緑、緑、やっかいなくらいに青い木々がじとりと風で揺れました。汗を吹き飛ばしてくれるようで、そうでもない風で、ふわりとわたしの髪は飛んだみたいで、髪の短い日野さんはわたしよりも止まって見えます。

「てるちゃんは風が似合うね」

 日野さんはあは、と笑いました。ふふ、とは返せなくってうう、ん、呻いて、「そんなことありませんよ」とまるで謙虚なふうに見えたらいいなと瞳を見つめます。すると「あたしを見なよ」と簡単に言い放った眼が豊かに笑っています。「そんなことあるよお、髪、長いし」

 ぐいぐいと笑顔でしゃべって、緑の草原がぼけて見えました。「それにさあ、春のさ、ほら、桜、見に行った日! あのときなんかさ、何、桜吹雪? 似合いすぎっていうか、ほんと、桜の妖精さんみたいじゃんって」

 こちらは素直に恥ずかしくて、謙遜というよりは否定、さっきの韜晦とは違うかたちでまた瞳を見つめて、素直に、恥ずかしいですよ、そんなこと、ありません。いやほんとさ、てるちゃんちっこいしあたしと一緒で、えーっと百五十ないんだよね、ほら、ぐいぐい、ぐいぐい、日野さんはでもスタイルが良いから、と言ってみます、すると笑って、太陽に濡れて、それてるちゃんが言うのお?…… わたしも汗がまた湧いて、ふふ、と、愉快で嬉しくって、また、たまりませんでした。

 原っぱに視線を逃がして、ようやくさっきのイヌホオズキの花の色は白かったと思い出しました。ぐうと黙り込んでしまいました、地面は緑の原っぱで、空は青ばっかりで、太陽が白くてぎゅっと目をつむります。どうかした、てるちゃん、てるちゃん、こうやって黙っていたからわたしはこんなにちっぽけなんでしょうか、ぐうと喉がなります。「ごめんなさい」

「なんでもありませんよ」まだ瞳を見ていました。「ありがとうございます」

「えっと、なにが」

「見ててくれましたから」

 ふうん? 心底不思議そうに笑っています。汗が拭われてうなじが、濡れた、から、湿った、に変わってようやく目を逸らせていました。

「きょろきょろしてちゃみっともないもんねえ」日野さんは、ふあ、と低くあくびをして、何時起きですか? んん、と、四時、かなあ、悔しそうに目もとの肌をつぶします。暑そうで、わたしも暑くって、ゆったりベンチに向かって座ると、ほう、と日野さんは笑って吐息を漏らして、きゃは、と笑いました。「ねね、カナタの昨日の話、聞いた」

「奏太さんですか」

 んー、とうなずかないけれど肯定して、知らないかあそりゃそうだよね、んん、あのさてるちゃん、リョーコちゃんっているじゃん、あの、関西の方の、ぐい、笑って、わたしはじっと見つめます。はっと気づいてうなじに目を逸らしたりもします。

「そのリョーコちゃんがさ、カナタにウワキもちかけてきたんだって」

 わたしはぎょっとしていました。佐藤さん、涼子さんはそんな名字です、のその勝算のなさとか、日野さんの失望とか、そういうものが簡単に想像されて、でも眼前にはうまく笑っている日野さんがいました。

「ま、さ、カナタがそんなのに乗るわけないって、リョーコちゃんも分かってたみ

たいなんだけど」日野さんのあきれ方、その笑い方はわざとらしくってかわいらし

く見えました。

「なんか、どうしても好きだったんだって、リョーコちゃん、あいつのこと」

 ぎらついた太陽が照らした汗が涙に見えました、うれしそうに笑っています。ずうっと空を見ています。

「すごいよね、なんか、あたしに言えよ! って思わない」また、きゃは、と大き

く笑いました。

「日野さんに、ですか」

「うん」わたしの方は見ないまま言います。「どうしても奏太クンが好きで、諦められない、んならさ、あたしの方見てさ、カナタ寄越せ! って叫んでくれたらさ、あたしだって……」

 きゃはは、また高く笑いました。わたしはその汗の、首筋に落ちて、まだ落ちたり染み込んだりするのを見ながら、ようやく自然に――それは多分この瞳を見ずに済んでいるから――笑っていました。

「さっきのイヌホオズキ、覚えてますか」

「イヌ……何?」

「イヌホオズキです。あの、道端に咲いてた」

「ん……ああ、あの、白いの」

「あの写真を撮らなかったの、日野さんがかわいかったからなんです」

 へえ? 驚いて、ぐいぐい笑ったまま、けれど本当に驚いているみたい、見開いた黒い瞳がわたしの口元を刺します。

「日野さんの目、ぱっちりしててかわいいですよね」

 日野さんは驚いたまま、でもわたしを受け入れています、笑っています。「うん」

「よく言われる」、あはは。わたしもふふと笑って、一息に喋らないでいられるように、ゆっくりと口を勢いづけます。

「案外、じっと見てることが多いっていうか……あんまりきょろきょろしないっていうか。さっき、言われちゃいましたけど」

「うん」

「なんだか、そういう、日野さんの視線を見てるのが、好きで」少し恥ずかしくて俯きました、そのちいさな時間も大切でした。

「イヌホオズキも、かわいかったんですけど、あの白い花がかわいかったのは、日野さんがじっと見てたからだなって」

 へえ、また驚いたみたい、でもいくらか余裕が、この余裕、佐藤さんも奏太さんも敵わないんであろうこの余裕を取り戻して、日野さんはにやりと笑っています。

「日野さんの瞳が揺れて、汗でちょっと濡れていて、そのままの景色が大事だったんじゃなくて……このとき、あっ、かわいい、って。そう思ったのは、多分写真じゃ残せなかったから、なんです。撮らなかったの。イヌホオズキの花が白いのとか、この茎とか葉っぱにはソラニンがあるから危ないなとか、そういうのは、写真で、覚えられるんですけど。日野さんがかわいいのは、多分、写真じゃなくって。明日とか、明後日とか、毎日話して、ほら、友だち、っていうか、人間、ですかね。人間の関係って、そういうもの、どうしても永遠っていうか、止まらないものだと思うんです。明日にも続いて、明後日にも続いて、たぶん私たちが死んでも、どこかの大学でだれか、二人組が、同じようにかわいい、かわいいって言いあうのかなって」

「ふうん」日野さんは笑ったままうなずきました、つまらない、とは言っていません。「それで?」

 それで、と訊かれてしまうとどうなのだろうと思わされながら、ぼんやりと一呼吸を置いたかたちになりました。「佐藤さんも、そうだったのかなって」

「へえ!」日野さんはついに嬉しそうでした。「これ、リョーコちゃんの話のつづきだったんだ」

「関係なかったんだと思うんです、奏太さんの恋人が誰、とか、あ、ううん、浮気を褒めたいわけじゃないですよ」分かってるよお、ぐいっと笑います。わたしがあははと笑いました。

「ぱっ、て、奏太さんの瞳が、多分、佐藤さんにとって、あまりに大切になって……この関係が、永遠だ、って。一瞬だけだったら見ないふりもできたと思うんです。それこそ、写真で我慢するみたいに……自分の中で考えて、折り合いをつけて、どうにか浮気なんてしないで、奏太さんも、日野さんも困らせないように、って。それがダメで……できなくって。だから、奏太さんを、奪い取ってやろう、とか、そんなことは考えていなかったんだと思うんです。日野さんの迷惑にはならないんだって、必ず信じていたから……奏太さんに、思わず、みたいな……」わたしは息を吐いて苦笑しました。「なんだか、結局、佐藤さんを守ってるみたいに……すみません」

「ううん」

「ありがと」日野さんは、きゃは、とは言いませんでした、にやにや笑って、「だからあんなにきょろきょろ周りばっか見てるんだ? てるちゃんは」

 びっくりして視線を合わせました。日野さんはなんともなさそうにしています。

「写真じゃ永遠は撮れない、うん、いいじゃんか! 確かに、見続けないと、見られ続けないと、残んないよね、この瞬間は」

 日野さんは、ううん、っと伸びをして、ベンチから足をぐっと、そしたらすらっと伸びて、へへと笑って、笑ってばっかりだねえ、とうれしそうにしています。

「好きだって、そういうことかあ。うん、あたしも、わかるよ。それ。ってか、やっぱカナタ見てると、ずっとそんな感じだし」

 ぶわうと風が吹いて、日野さんは気持ちよさそうに、でもわたしは髪の毛が揺れて邪魔で、掻き上げようとしたら日野さんが制して額に手をのべたと思ったら代わりに掻き上げて、ほんとに似合うねえ、風、きゃはと笑って、そうしてわたしの額をそのまま撫でて、やさしくキスをしました。

「へへ、アメリカ帰りの特権」

 驚いたままのわたしに、そうやって飄々と笑っている日野さんは憎らしくって、瞳が黒くてかわいくて、太陽がわたしたちを濡らしていました。

「もう」幼げで、座高となるとわたしの方がちょっと高いのに、余裕がある笑い顔でにやにやしています。「かわいいんですから」

「それほどでも」日野さんは立ち上がりました。わたしも遅れて立ち上がって、あと、てるちゃんはやめてくださいね、と笑います。わたしの足どりはひどく確実でした。日野さんは太陽に細く目をやって、白い光が視線と交錯していました。


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太陽 月藤灯(つきふじともる) @tsuki_fujitomo_rururu

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