第3話 錬金術師

 薄暗い賭場、その隅っこでクロは美女に腕を掴まれている。

 適当に話を終わらせてトンズラしようとしたのだが、がっちり両手で捕まえられてしまったため逃げられない。


 できれば面倒ごとには関わりたくなかった。

 会社を辞めて以来やりたいことだけやるのがクロのマイルールなのだが……男は美女に弱いのも、神が定めた絶対法則である。


 彼女は不満げに唇を尖らせてジト目でクロを刺す。


「もう逃げないでくださいね」


「……逃げるつもりなんて最初からなかったって」


 そう主張しようとも彼女は離してくれる気はないらしい。

 緑色の瞳には確かな意志を宿し、細い手を輪にしてクロの手首を拘束している。


 しょうがないのでクロは諦観の念を息として吐きだした。


「俺が何かお力になれるかな?」


 彼女は少しだけ拘束を緩めて、首を左右に二度ずつ振って内緒話が聞かれていないことを確認し、小声で囁いた。


「頼み事があるんです。あなたのように強いギャンブラーだったらとっても簡単なお願いです」


 ギャンブラーだったら。

 その言葉にクロは興味をそそられた。賭け事は大好きだ。


「ほほう?」


「まずは自己紹介をしますね。私の名前はルル。自分で言うのもなんですが若くて優秀な――錬金術師です」


 彼女――ルルは得意そうに鼻を膨らませながらそう語る。

 しかしクロは錬金術師がどういうものか知らないので短く、


「へえ」


 とだけ。


 ルルはむっと眉を寄せた。


「信じてませんね? 証拠をお見せしましょう。……ほら」


 ルルはそう言って少しだけ胸元をはだけさせ、首にかかった金のネックレスをクロに見せる。


 しかし、やはりクロはその首飾りがどんな意味を持つのか知らないので、ちらりと覗く白い谷間に視線を釘づけた。

 視線は吸い寄せられたというより能動的に向かっていったが、もはやクロに世間体なんて関係ない。


「いいもん持ってんな」


 クロの視線と言葉をどのように解釈したのか、ルルは頬を赤く染めてすぐに胸元を隠した。


「……とにかく、これで信じてくれましたか?」


「信じれないからもう一回見せてください」


 ルルは悩んだ様子でもじもじ体を揺らし、再度そーっと胸元をはだけさせようとして――


「やっぱりダメです。目つきがいやらし過ぎます」


「まじで学術的興味しかないんだけど」


「……とにかく。信じてくれましたね?」


 圧を滲ませるルルの言葉に、クロは頷いた。

 そもそもこの世界にやってきたばかりのクロに信じるも信じないもなく、ただ受け入れるしかないのだ。

 もっとも魔眼を使えばその限りではないのだが、むやみやたらに人心を暴いては人生の驚きが減ってしまうというもの。クロはそれを望んでいない。


「君はルル。若くて優秀な錬金術師だ」


「ありがとうございます。それで、私は錬金術師なので、当然”エリクサー”を求めているんですが……」


 エリクサー。

 万能薬とか不老不死の薬とかそういう意味の単語のはず。

 いよいよきな臭くなってきたなと思いながら、クロは耳を傾けた。


「そのエリクサーを景品とするポーカーゲームがもうすぐ開かれるので、それに出てくれませんか? というお願いです」


 ルルはクロの腕を掴んだままじっと見つめてくる。

 クロは唸った。


「うーん……」


 異世界に来てまでポーカーかよ、というのがクロの感想だ。

 エリクサーってのは面白そうだが、今の興味はポーカーよりもドラゴンレースに向いている。


 しかし――


「お願いしますっ!」


 ルルはおでこを膝にぶつけるほどの勢いで頭を下げた。

 よほどの事情があるらしい。


「お礼はします。今はないけど、錬金術師としてお金を稼ぎます。たくさんたくさん稼ぎます。だから……」


「お金かあ……」


 クロにとってお金はさほど重要でない。

 お金はギャンブルで勝って得るからこそ価値があるのだ。それに魔眼を使えば金などいくらでも生み出すことができるだろう。


 ルルはクロの声音からその思いを読み取ったようで、面をあげて「それなら」とつぶやいた。

 並々ならぬ覚悟を目に宿し頬を引き締め、上目遣いで言う。


「私の体を差し上げます」


 それは間違いなくそういう意味・・・・・・だろう。


 しかし、またもやクロは唸った。

 その誘いはとっても魅力的ではあるのだが、性的奉仕を代償に頼みを引き受けるというのはどうにも気が引ける。


 鼻の下を伸ばすどころか顔を背けたクロに対し、 目にうっすらと涙をためてしまうルル。


「だめですか?」


 クロは途端に気弱になって、どうしたものかと思い悩んだ。


「あー…… 俺って優しいから。なにやら可哀想な事情を想像してしまうと泣けてきて、体を頂くどころではなくなってしまった」


「それなら!」


 ルルは語気を強めてクロの手を握った。


「賭けで私が勝ったら頼みを聞いてください! 負けたら何でもします! それでどうですか?」


「それは――」


 クロはにやりと笑う。


「いいじゃないか。俺は賭博師なんだ。勝負を挑まれたら断るわけにはいかない」


 ルルは手をグーにして小さく跳ねた。


「ポーカーじゃ勝てないので、ルーレットをしましょう! 二人で反対に賭けて、当たった方が一点入手。十点先取で!」



▼△▼



 幸運の女神に愛されている人間ってのは実在する。

 あり得ない確率を連続で引き当てるとか、ここぞという場面では絶対に負けないとか。

 クロはそういう人間を知っているが、残念なことにクロ自身はそういう人間ではなかった。


 そしてどうやら、幸運の女神に憎まれている人間ってのも実在するらしい。

 それがクロの隣にいる女性――ルルだ。


 ルルはがっくりと項垂れて、ついにカウンターに突っ伏してしまった。


「こんな大事なときに、十連敗なんて、そんなことあり得ますか?」


「まあ0.1パーセントだから。なくはないな」


「なくはなくないです。神様の嫌がらせとしか思えません」


 ルルははあと重たいため息をつき、彼女のグラスが曇った。

 彼女はすでに一文無しなのでこの一杯はもちろんクロのおごりだ。


「幸運の女神はきまぐれだからそんな日もあるさ。――勝った俺の"頼みごと"は、美女に一杯奢らせてもらったということにしてやろう。事情はよくわからんが、がんばれ」


 クロは彼女の肩をぽんぽん叩き、席を離れようとした。


「じゃあドラゴンレースを見に行ってくるから――」


「待ってください」


 ルルの手が立ち上がったクロの手首をぎゅっと掴んでいる。


「…………」


「しつこくてごめんなさい。でも、もう一回だけ勝負をお願いします。これが最後です」


 ルルはまばたきもしない真剣な顔で訴えかける。

 それは浮草のように生きるギャンブラーたちでは作ることができない表情であり、何かを背負う人間だけが作ることができる表情であった。


 クロはその美しさに見とれてしまい、しばらく沈黙したのち、


「……ほんとに次はないからな」


「ありがとうございますっ」


「何で勝負するんだ?」


 ルルはピンク色のカクテルを飲み干し、頬を同じピンク色に染め、アルコール交じりの熱い息を吐き出した。


「キス我慢ゲームです」


「……え?」


 聞き間違いかと思って、クロは耳を寄せて聞き直した。

 ルルは湯気が出そうなほど顔を赤くして囁く。


「だから、キス我慢ゲームです」


「……なにそれ。頭悪そうなゲームだな」


「私が十秒あなたを誘惑します。それであなたが耐えられたらあなたの勝ち。なんでも命令してください。耐えられなかったら私の勝ち。ポーカーゲームに参加してもらいます」


 ルルは恥ずかしさのあまり視線を合わせてくれず、自分の膝の上で指同士をくっつけている。


 クロは一応聞いてみた。


「それはここら辺では一般的なゲームなのかは?」


「知りません。でも父と母は昔よくやっていました」


「ああ、そう。仲良しなんだね」


 クロとしては、このような飲み会ゲームの趣向も嫌いではない。相手が美人となればなおさらではあるが――


「勝負である以上、俺は本気でやるから」


「分かってます」


 その声に揺るぎはない。準備はできているようだ。


 クロも大きく息を吸い込んで、吐き出して、吸い込んだ。

 錬金術師がどんな誘惑をしてくるのか想像もつかない。


「なら、やりますね」


 二人は向かい合った。

 ルルが胸元をはだけさせて、豊かな谷間がちらつく。


 クロは深いところにあるホクロを見つけた。絶対法則に従って視線が吸い寄せられる。


 ルルは腕でぎゅっと胸を寄せた。谷間がいっそう強調されて艶めかしい。


 柔らかくて温かい手を触れ合わせてくる。

 恋人のように指が絡まる。


 クロは息を止めるつもりでいた。

 魅了の術でも惚れ薬でも我慢してやろうという心意気だ。

 可愛らしい美人が相手だが、まだ理性を失くすほど酔いは回っていない。


 見つめ合う。

 視線がぶつかる。

 濡れて艶を持つ唇が開かれて――


「う、うっふ〜ん」


 ルルはそんなことを言った。


 クロは思わず声を出して笑った。

 ファンタジー世界の錬金術師がそんな子どもじみた誘惑をしてくるとは思わなかったのだ。


 ルルはしかし本気で、胸をこれでもかと寄せ、クロの腕に縋りつくようにして抱き、押しつけてくる。

 彼女は目を閉じ唇を輝かせ、アゴを少し上向きにして待っている。


 クロはそれでも笑っていた。興奮よりもおかしさの方がずっと上だ。

 なんとか笑いを抑えながら息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。


「……そんなので我慢できなくなると思ってんの?」


 ルルはその顔のまま「ん!」とだけ吠えて待機している。


 しょうがない、少しからかってやるか、とクロは彼女の肩に手を置いて、唇を近づけていく。

 もちろんキスするつもりはない。とっくに十秒は経っている。直前でグラスでも押し当ててやろうかと考えていた。


 ルルは鼻にかかった息を漏らした。


 唇の間に指一本分だけの距離を残し、クロはいたずらっぽく笑って言う。


「目を開けて」


 まつげが震えて、ルルは静かにまぶたを持ち上げた。

 翡翠エメラルドの瞳がクロを捉える。


 綺麗な目だ。


 その瞬間、想定外のことが起こった。


 魔眼が勝手に発動し、彼女の心を読み取ったのだ。

 剥き出しの感情、秘められた思い、口には出せない気持ちを。


――『あなたが必要なんです』


 そんな思いが心から心に直接伝わってくる。

 誰かに必要とされるのなんていつ以来だろうか。

 クロは己の中で何かが抑えきれなくなって爆発するのを自覚した。


 魔眼で読み取った思いは、言葉より表情より直接的に心に訴えかけてくる。

 どんなセリフや仕草で誘惑されるより、なにより心に響いた。


 クロは結局――我慢できなかった。


 キスしてしまった。

 優しく唇を押し当て、彼女の柔らかい上唇に吸い付く。

 そうしたら彼女も同じように返してくれる。


 ほんの数秒だ。

 クロはすぐに我に返って体を離した。


 しかしルルは花のような笑顔を咲かせる。


「私の――勝ちです」


「……ああ、負けたよ」


 初めて目にした彼女の笑顔は、これが見られるのなら何度負けたっていいと思えるほど魅力的だった。


「ポーカーゲーム、参加してもらいます」


「そうだな。負けたからには従わないと」


「……なら移動しましょう。ここじゃゆっくり話せません。それともドラゴンレースを見てからにしますか?」


「いや、いいよ。ドラゴンレースなんていつでも見れるだろうから」


「じゃあ行きましょう!」


 スキップでもしそうなほど上機嫌なルルに手を引かれて、クロはグラスの中の飲み残しもそのままに席を立った。


「それで、あなたのお名前は?」


「クロだ」


 短く返せば、ルルは手を差し出してくる。


「よろしくお願いします、クロ」


「――よろしく」


 手を握り返す。

 こうしてクロはルルに敗北し、彼女の目的に力を貸すことになった。


 こんな幸せな敗北は初めてかもしれない。そんな感傷に浸る間もなく、ルルは夜の異世界街へと飛び出し、クロは後を追った。

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ギャンブル男と錬金術師は賭けをする 訳者ヒロト(おちんちんビンビン丸) @kainharst

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