自他境界線上のアリア

外清内ダク

自他境界線上のアリア



「何量子井戸様ですか?」

「一井戸です」

 暑い暑い夏の盛り、アイスコーヒー欲しさにカフェへ転がり込んだ僕は、店員さんへ向けて指を一本立てた。指一本! 整数だ! 安心する。何もかもが複素指数関数やら確率密度やらで表現せねばならなくなった現代、人間を整数で数えるなんてのは科学的にも政治的にも完全に誤った行為だと分かっちゃいるけど、昔ながらの『指一本』が僕は無性に懐かしいんだ。案内されるまま窓際の席に落ちつく僕。差し出されるメニュー。店員さんと絡む目線。

 そのとたん、ああ! 店員さんの右腕がいきなりモヤモヤと変形して、僕の腕になってしまった。対する僕の顔面も、いつのまにやらお肌サラサラになっている。あの脂性の僕がだ。ああ、やってしまった。

「すみません、混ざっちゃいましたね」

 僕自身は軽く苦笑する程度の気持ちだったが、店員さんはそうでなかった。贅肉で緩んだ中年男の腕を唐突に自分の腕と取り換えられてしまう、なんて事態は、若く美しい女性にとって耐えがたい悪夢だったんだろう。テナントビル全体を震わすほどの金切声をあげて彼女は逃げ去っていった。

 くそっ。そこまで嫌がらなくてもいいだろう。僕はしっかりお化粧の施された新しい頬をさすりながら、不機嫌にお冷をすする。まあ気持ちは分かるけど、僕のせいじゃない。自分と他人の境界がひどく曖昧で、ことあるごとに混ざったり入れ替わったりしてしまう……それがこの新しい時代の宿命ってやつなんだから。


 きっかけは一人の炭鉱夫であったらしい。麦や豆なら誰も一粒ずつ数えやしない。ある種の真社会性生物は全個体合わせて一つの生物と言ってもいい。同様に労働者なんてのは一山いくらの資源に過ぎず、市場に積まれて升で量り売りされるのが運命だ。炭鉱夫はもちろんその最たるもので、自他境界の不確定化現象がそこから始まったという事実は、皮肉な歴史的必然と言うほかない。

 記念すべき二〇三〇年ある日の午後、某国某炭鉱の労働者四十二名が一つになった。というのは政党立ち上げとか労働組合設立とかのたとえ話ではなくて、文字通りくっついて一個の人間になってしまったということだ。腕が八十三本、足が百二十六本のよく分からない生き物と化した炭鉱夫たちは、自分たちの変身を特に気にする様子もなくそのまま陽気に街へ繰り出し、ビールを喰らって上機嫌にゼロ年代の流行歌をうなっていたという。

 あらゆる医学的検査の結果、労働者たちは肉体的には疑う余地もなく人間そのものと判明した。自意識や記憶もおおむね全員分そろっていたし、なによりきちんとした身分証明書を持っていたから、問題なく人権も認められた。で、人々の興味は生物学的側面から物理学的領分へと移っていった。一体何なんだこれは? なんで四十二人なのに腕は八十三? というか足が多すぎない?

 結論から言えば、人間が量子力学的存在になっちまったってことだ。僕がいる。君がいる。でもその区切りは自明ではない。僕は『ここにいる』わけではなくて、『ここ』の周辺の空間に確率的に分布している。僕の近くは『僕っぽい』けど、遠ざかるほど『僕っぽさ』は薄れていく。そんなふうに僕の内側と外側の境界線は曖昧で、つまるところ、僕は雲みたいにぼんやり存在している。その存在確率を表す『人間関数』はシュレディンガー方程式から求まるけれど、そんなこと、数学者や物理学者じゃあるまいし、日常生活でいちいちやってられないよな。

 だから、混ざる。あるいは、くっつく。一定の距離まで接近した二人の人間は、どこまでが自分でどこからが他人なのか不確定になり、結果、ふとしたきっかけでお互いの量子状態が混合したり入れ替わったり重ね合わされたりしてしまう。

 肉体だけじゃない。心もそうだ。ちくしょう。受け継いだ彼女の肌のせいか? バックヤードに引っ込んだ店員の慟哭がここまで伝わってくるぞ。「嫌だ! 何この腕! 毛が生えてる!」うるせえよ。「それに臭い」やめてくれ。「死ねばいいのに、あんなオッサン!」分かってるよ。死ねばいいんだ。オッサンはみんな死ねばいい。本当にその通りだ。僕もそう思うよ。ごめんなさい、すみません……

 いたたまれなくて、胸が痛くて、僕は結局何も頼まずに店から逃げだした。外は地獄の炎天だ。ようやくおさまりかけていた汗がまた洪水のように流れ始めたのは暑さのせいばかりじゃない。僕はどうすればよかったんだろうな。また罪もない他人を傷つけてしまった。生きてるだけ、存在しているだけで人を不快にさせるだなんて、本当に僕は人間のクズだ。いや、こんな考え方もおかしいのか? 他人なんかもうこの世に存在しないんだから、他人を傷つけるってことは、つまり傷つくのは……

 容赦ない熱射にあえぎながら僕はアテもなく街をさまよう。街は静かだ。車道の車も最近めっきり少なくなった。というのも誰も信号を守らなくなったからだ。信号なんか気にしなくてもこっちが直進したいと思っていれば周りはそれを分かってくれるだろう、という認識が蔓延した結果、おそろしい数の交通事故が連発したのだ。だが事故を起こしたのが自分なのか他人なのかも分からない。個人がいなければ法でも裁きようがない。そのうえ誰も責任を取らないし、そもそも責任の『所在』自体が存在しないので、事故った車を処理しようとする者もいない。結果、道路はあちこちで寸断され、どこへ行くにも歩いた方が早い、という社会になってしまった。

「こんな世界でいいのか!」

 駅前のロータリーでは、若い政治家志望が必死に声を嗄らしていた。彼の周りにはとんでもない数の聴衆が詰めかけ、歩道にまであふれている。おいおい。やめてくれよ。通れないじゃないか。

「世界にはルールがある。ルールを守らない奴は人間じゃない。全員ルールを守るべきだ!」

「そうだ!」

「そうだそうだ!」

「ちょっと、あなた」

 人垣の向こう側へどうにか抜け出そうともがいていた僕の手首を、聴衆の一人が無遠慮に掴んだ。女の人だ。さっきのことを思い出し、僕は反射的に身を引いた。しかし背後に密集する人の壁と、彼女の異様に強い握力がそれを許さない。

「……なんです?」

「あなたはどう思うの?」

「なんですか、いきなり」

「そんな無関心でいいと思ってるの!?」

 女性は唾を散らして詰め寄って来た。近い。近い近い! 異性から前髪が触れ合うほどの距離にまで寄ってこられたら嬉しいって気持ちも多少は湧いてくるものだろうけど、僕は今ただただ怖い。あの血走った目。自分以外のすべての人間をバカだと思っていなければとうていできない剣幕。

「ルールを守らなきゃならないでしょう、人間は!」

「放してくださいっ」

「賛同しないならクズだろうがっ」

 女性から頭突きを喰らい、僕は悲鳴を上げて尻もちをついた。

 と、そのときだ。急にどよめきが起きた。僕は痛む鼻を押さえながら辺りを見回す。そうしたら……わあ! やばい! 聴衆が、そこら中にいる人間たちが、お互いに融けて混ざってくっつきはじめた。炭鉱夫現象だ! 自他境界線を見失った聴衆が隣同士連鎖的に結合し、どんどん巨大な人間へと膨れ上がりはじめたのだ!

 腕が二本、二本が四本、四本が八本、八本が十六本、十六本が三十二本……僕は大慌てで立ち上がり、わき目も振らずに逃走した。何十メートルも距離をおいて振り返れば、聴衆たちは、もうビルより大きな肉塊に成り果てている。危なかった。あと数秒遅ければ、僕もあの中に取り込まれていたに違いない。

 くそっ。くそっ。息が切れる。ただでさえ暑いってのに、運動させるなよ。死んでしまう。

 こんなことが、今や世界中で起きているんだ。政治家たちも必死だよ。というのは選挙制度がもうシッチャカメッチャカになってしまったからだ。「清き一票を!」と言ったって、そもそも「一票」という整数値が存在しない。オイラーの公式は知ってるだろう? 『人間関数』はeの虚数乗なんだから、要するに複素関数なんだ。それを足し合わせたらどうなる? 先日の衆院選なんかどうだ。当選絶対確実と目されていた現職総理大臣が、実際圧倒的な票を獲得していたのに、得票数の虚数成分がおかしな具合に溜まった結果、逆に絶対値が小さくなって負けてしまった。意味が分かんないだろ。僕にも分からん。

 とにかくこんな不安定な世情だから、政治家が発言権を得ようと思えば大勢の支持者と合体融合するしかない。信頼できる報道によれば、国会議事堂は数ヶ月前に取り壊され、融合巨人化した政治家たちの肉弾戦リングが跡地へ建設されたらしい。おかげで国会中継は人気沸騰。ドローン技術とプロジェクション・マッピングを駆使した迫力の映像で、肉体言語による熱い論戦の模様を日夜お茶の間に届けている。

 でも僕は、そんなものに興味がない。

 政治。正しさ。倫理。常識。そんなの好きにやってくれ。世の中にあふれかえる道徳家たちにはついていけない。いっそ完全にバカになり、肝臓へ酒を流し込み、無味無臭でストレスフリーのくだらない映画や小説に耽溺し、セックスの話や内輪ネタや弱い者イジメに血道をあげる、そんなしょうもない人間になれたら生きやすいのかも。でも僕は違う。そういう人間とは違う。違ってしまう。

 と、そのとき、いきなり背中をトンと押された。本当にそれだけだった、僕が感じたのは。「あれっ」急に体に力が入らなくなって、僕はうつぶせに倒れ込んだ。なんだこれ。ひどく熱いものが背中に広がり、どんどん肉体から実在感が抜けていく。

 背中の方に手を回すと、何か鋭い直線状の金属が指に触れた。そこでようやく僕は気づいた。これは包丁だ。僕はでかい包丁で背中を刺されたんだ。

 刺した奴が誰なのか僕からは見えない。というかそもそも、『刺した奴』という個人がもうこの世には存在しないんだった。地べたに這いつくばった僕はその『奴』の靴だけを見、ポケットから財布が抜き取られていくのを感じ、「なんだ強盗かあ」なんて他人事みたいに溜息をついた。えっ、これで終わり? 生きづらい生きづらいと思っていたら、あっけなく人生は終わってしまった。こんなことならもっと真剣に生きればよかった。他人とちゃんと付き合ってみたり。何かかけがえのない仕事に取り組んでみたり。それこそ政治のことを真剣に考えるのもよかったかも。でもそんな時間は残されていない。僕という個人はこれで終わり。そうか。こんなもんか、人生は……


 数秒して僕は、自分が道端にぼんやり立ち尽くしているのに気づいた。血まみれの手の中には、見慣れた僕の財布がある。僕のポケットから奪い取ったものだ。

「あ!」

 僕は声をあげた。目の前に僕が倒れて死んでいる。正確にはさっきまで僕だったものが。自他境界線の曖昧化だ。量子テレポーテーションだ。僕の意識が、強盗の肉体に入ってしまったんだ!

 強盗の意識はどこに行ったんだろう? 入れ替わりで僕の肉体に入って死んでしまったのかな? あるいは、この肉体にまだ強盗も残っているんだろうか。そういえば強盗の過去の記憶や後悔やなんかが脳みその奥底にこびりついている気がする。とすると、今こうして財布を握って震えている僕は、僕なのか? 強盗なのか? それとも、ぜんぜん違う何かなのか?

 いずれにせよ、酷暑はいまだ容赦なく僕を焼いている。

 くそっ。暑いなあ。本当に暑い。



THE END.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

自他境界線上のアリア 外清内ダク @darkcrowshin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画