決して来ない時

麻生 凪

落日の眩耀

 五時二十五分……

 また、同じ夢を見たようだ。


 不思議なことに夢の中に居ても、夢を見ているという意識がある。夢と認知して見る夢というものは、大抵が、日常との違和感を察知したときにそう気付くものだが、俺は夢の世界に入った瞬間からわかる。

 夕陽が枯れ葉を透かしながら山々に漆黒の訪れを告げていたあの峠に、どのような経路で辿り着いたかなどはどうでもいい。ただ遠い昔、 こどもの頃から脳裏に焼き付けられていたのか、初めて見る景色ではなかった。


 山道には枯れ葉が積もり、踏みつける度にガシャグシャと音をたてた。場所によっては膝近くまで埋まるほど積もっているため、歩みは慎重でやけに重い。気を付けなければ、底に貯まった腐葉に足をとられて滑りそうだ。

 右手に見える大きな白樺を過ぎると脇道がある。入り口には風と雨水にやられたのか、やけにいびつな顔つきをした地蔵が立っていた。木々のあいだから差し込む夕日に照らされた地蔵の影は脇道に沿って長く伸び、俺は影に導かれるまま道を逸れて行った。

 ゆったりと右に折れる石畳の先には平屋があった。その裏は断崖なのか、西陽に照らされた雲がオレンジ色に耀き遠くの山々迄見渡せる。山に映る陽は徐々に暗闇に支配され、上空に星々がうっすらと姿を現し始めると急に不安になり、俺は来た道を振り返った。

 そこには見知らぬ女が佇んでいた。

 背中越しの夕陽が眩しくて女の顔がわからず、手のひらで光を遮りながら細目で凝らすとわずかに唇が動いている。何か話し掛けている様子だ。なんですかと声を掛けても返事がない、じっとこちらを見つめている。俺は少しいらつきを覚えながら一歩踏み出した。女が消えた。刹那、人差し指と中指の間から西陽がもろに突き刺さり、思わず目を瞑ると瞼の裏には朱色の楕円が広がる。徐々に薄目で焦点を合わせていくと、それがデジタル時計の表示だと気づくのだ。

『――5:25――』


 あの景観……

 そうかあれはこどもの頃に登ったふるさとの山、松崎町の高通山だ。冬になると険しく細い山道は落ち葉で埋め尽くされ、道の窪みに貯まった枯れ葉の中に飛び込んで、遊んだ記憶がある。小一時間程かけて登って行くと展望台に着く。逢魔おうまとき、そこから見える雲見海岸、急傾斜で立ち上がる烏帽子山、千貫門の彼方に控える富士山。なによりも、これら一大パノラマの奥、駿河湾の水平線に沈む夕日がこどもながらに素晴らしく思えたものだ。たぶん、デフォルメされたその景色が夢に出てくるのだろう。だが、裏山には地蔵はないし民家などなかった。白樺が自生する環境でもない。しかしそれこそが夢の夢たる証し。全ては脳の記憶がクロスオーバーして創られた世界なのだと納得はできる。……が、平屋の家には何があるのか。そしてあの女性は、俺に何を話したのか。

 今夜こそ夢を進ませなければならぬ。謎が解けさえすれば、こんな奇妙な夢は見なくてすむはずだ。



 落日の山道、見た夢の足跡を辿るように慎重に進む。

 右手に大きな白樺。歪んだ顔の地蔵。石畳の小道……よし。崖の手前に平屋が見えた、不安はない。

 綺麗だな。玄関ドアの上部にはステンドグラスの細工が施され、室内の灯りが漏れている。ガラス細工の赤い花、真っ赤な彼岸花を模しているようだ。

 これは漆喰、床も壁も全て塗り尽くされている。高い天井からは無数の間接照明が様々な角度で空間全体を照らし、演出された自然な光は俺の影さえ落とさない。

 ん、風が入る気配を感じた。振り返ると黒い喪服を着た女が、ステンドグラスのドアの前に立っている。白の中に浮かび上がる黒衣の女、山道のあの人だ。また、なにかを話している。同じ言葉をゆっくりと、何度も繰り返している。

「……や……め……な……さ……い」

 やめなさいと動いているのか。

「なんのことだ」

 問いかけても反応がない。いや違う、俺の声そのものが出ていない。彼女のように唇だけが動いている。音のない世界なのか……

 何を見ている。彼女の視線の先に目をやるといつ現れたのか、奥の壁に大きな絵画が飾られており、横に真っ黒なドアがある。

 初めて見る絵ではない。絵画の下には作品の題名が記されている。決して来ない時……、そうだ絵画展で見たことがある。確かフランスの画家だ、バルテュスと言ったか。

 バルテュスの絵には少女が描かれた作品が多い。なぜ少女を描き続けるのかについて、それがまだ手つかずで純粋なものだから。と、答えたのが印象深く、記憶に残る。

「決して来ない時」

 椅子に浅く腰掛けて片足を投げ出し、上半身を反り返らせるような不自然なポーズで眠っている少女。奥にいるもうひとりの少女は、大きな窓から遠くを見つめている。窓辺にうっすらと差し込む陽は、絶妙な色彩により、観る角度で朝陽にも夕陽にも想起させる。それは観る者のその時の感情により左右されるのか、俺には、夕陽にみえた。



 ♢ ♢ ♢ ♢ 


《愛知県蒲郡市 県警管轄病院解剖室》


「ドクター、司法解剖中に失礼するよ」

「いいえ構いませんよ。でも、こんなところに。捜査の指揮を執らなくてもよいのですか」

「いやね、先程所轄から愛知県警に捜査権限が移行した。私は指揮権を剥奪されたよ」

「そうだったんですか。あっ警部補、この仏さんは高校生と聞きましたが」

「かわいそうに、三年生だよ」

「はぁ……」

「死因は絞首による窒息死だろ。この手首やら足首やらの鬱血は、縛られてから首を絞められたということなのか?」

「はい。正確には縛られて、強姦された後に、首を絞められて殺されたのでしょうね」

「この顔つきからは想像出来ないな」

「そこなんですよ謎なのは。強姦ならば、膣口や膣壁に損傷があってしかるべきだが、それがない。手首、足首の他に目立った傷は見つからない。抵抗しなかったのか、綺麗なもんですよ」

「しかし、被害者ガイシャからはストーカー被害の届けが出ていたんだよなぁ」

「ストーカーですか」

「誰かに見られているようだとか。証拠不十分で見送られたんだよ」

「計画的な犯行ということですね。確かに性交の跡はあるが、体液が残されていない」


「お忙しいところ失礼します。鑑識からの報告で、被害者のアパートから盗聴器が見つかりました。ストーカーが仕掛けたのだと思われます」

「ああご苦労、直ぐに署に戻る。しかし、主任もちょっと見てくれないか。ガイ者の顔つきだがな」

「……はい、苦しんだ様子がありませんね」

「そうなんだよ。抵抗した跡もない」

「そのようですね」

「なぜ、被害者は自宅を離れて、一人暮らしをしていたんだ?」

「母親が三年前に再婚をしておりまして、多感な時期だけに、被害者は同居を拒否したらしく。高校進学を機に、アパートを借りたと」

「そうだろうな、母親とはいえ女だ。一人暮らしの承諾はするだろうな。君も女性だから、そのへんの感覚は解るだろ」

「まぁ……」

「あぁそれで、犯行現場のアパートからは指紋は出たのか?」

「はい。被害者のものとは別の指紋がありました。特に、ベッドの周辺に密集していました」

「そうか、たぶん犯人のものだろうな」

「その犯人なんですが意外なことに、義理の父親と指紋が一致しております」

「なに! 父親だと」

「はい」

「それで、義理の父親の身柄は確保できたのか」

「いえ、昨夜から家には帰っておりません。逃亡しているのかと思われます。指名手配の方向で県警本部は動いています」


「ではストーカー行為をしていたのは、義理の父親なのか……」


《愛知県警蒲郡署 取調室》


「あの人が、娘に手を出していたことは知っておりました」

「それは、いつ頃からなんでしょうか」

「一年程前からなんとなく、娘の態度が変わって。あなたも、女だから解るでしょ」

「まぁ……」

「あの人……、主人もわたしから遠ざかるようになってしまって、最近では一緒にいても会話もなくて」

「それで、前のご主人に相談したんですね」

「いいえ違います、相談したわけでは。前の主人が、成長した娘に会いたいと言ってきたんです」

「失礼ですが、離婚したのはどれくらい前なんですか」

「娘が五歳の頃ですから十二年くらいになります。前の主人は事業に失敗し、ヤミ金に手を出して、離婚後に自己破産をしました」

「破産してから、前のご主人はどうされていたんでしょうか」

「田舎、実家に帰ってやり直すと」

「どちらですか」

「西伊豆の松崎町です。その後は全く音信不通で、二ヶ月前にひょっこり家に現れて。ここではなんだからと、彼の車の中で話をしました」

「その時に、娘さんとご主人の関係を話されたんですか」

「はい、そうです。相談と言うよりも、会わせて欲しいとしつこいものですから、わたしもつい苛立ってしまって」

「その話を聞いて、前のご主人はどんな様子でしたか」

「無言でした。ただ下を向いて、両手で握り拳をつくって、震えながらドンドンと車のハンドルを叩いていて……わたし、恐くなってしまって」

「アパートの住民の話から、部屋に盗聴器を仕掛けたのはどうも、前のご主人のようです」

「んっ」

「それと、言いにくいお話なんですが。娘さんは殺されたのではないようです」

「えっ、それはどういうことでしょうか」

「事故です。検視の結果、性交の最中に、なんと言うか、行き過ぎた行為によるものだと」

「そ、そんな……」


「主任失礼します、犯人の車が見つかりました」

「ご苦労、で」

「はい、現在蒲郡方面から三河湾スカイラインに向って逃亡中、白バイが追っています」

「承知した、こちらもすぐに向かう。幸田町方面から入り挟み撃ちにする。至急応援車両を回すように」

「了解しました。尚、白バイからの報告ではもう一台、普通車が逃亡車の後ろを追っている模様。警察の車両ではありません」

「色と車種は」

「はい、白いワゴン車だそうです」

「えっ、前の主人と、同じ車だわ」

「……とにかく急げ、国坂峠で挟み撃ちだ!」


 三河湾スカイラインをパトカーが疾走している。 時はまさに落日を迎え、朱色に耀く太陽が、それぞれの万感の思いと共に水平線にその身を浸そうとしていた。

「主任、あれですね。少女殺しの犯人の車は」


 ウォーンウォンウォン……


 サイレンをけたたましく鳴らしながら、パトカーが国坂峠の駐車場に入って行く。

 フロントガラス越しには、犯人が車から慌てて飛び出して行くのが見えた。犯人の車の後ろにはぴたりと白いワゴン車が停まり、その運転手が後を追う。手には出刃包丁が握られていた。

「あの男は……」

「少女の実の父親だ。そこのふたり、止まりなさいっ!」

 女性主任警官は声を張り上げながら走り寄る。

 追っていた男の手が犯人の肩を掴んだ。

「やめなさいっ!」

 逆光を浴びた女性警官の姿を確認した男は一瞬動きが止まったが、直ぐにやいばを掴んだ手を犯人の頭上にかざした。


 ドゴーン ゴーーー


 銃声と共に、栖で微睡み始めた鳥たちが一斉に木々から飛び立つと、辺りは静寂に包まれた。

 すぐさま男の警官が怯んだ犯人の身柄を確保し手錠をかける。撃たれたワゴン車の男はぐったりと地面に横たわっていた。その視線は、真っ直ぐ歩み寄る女性警官に向けられている。

 女性警官がそばに寄り、しゃがみこんで男の顔を確認すると視線は変わらず彼女が来た方向に向けられていた。振り返り、男の見つめる視線の先に目をやると道路標識が立っている。

 逆光の中、目を凝らす。


『県道 525号』とある。

 標識の周りには、季節外れの真っ赤な彼岸花がゆらゆらと西風に揺れていた。


 ♢ ♢ ♢ ♢



 椅子に腰掛け微睡む少女。窓の外を見つめているのはその少女自身ではないのか。


 今、この瞬間、過ぎ去っていく時間は決して後戻りすることは出来ない。

 逢魔が刻、夢の中の少女には窓の外に何が見えたのか、決して来ない時を愁いでいるのか。

 ふと、娘の面影が脳裏をよぎる。なんだか視界がぼやけてきた。俺は、泣いているのか……


 どういう訳だかこのまま、この絵をずっと観ていたくなった。しかし夢を終わらせねばならぬ。

 黒いドア、たぶんこれが最後のステージなのだろう。


 これで、終わりにしよう。



 ドアを開けると朱色の世界が広がり、落日の耀きに目が眩む。思わず膝をついてしまった。


 これは……


 丘には一面の真っ赤な彼岸花。風に揺れる花々の中に娘が眠っている。


 鈍色にびいろの月が、星のない空に浮かんでいる。



 了

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