ミッシング・リンク

久遠 三輪

第1話 自分の存在を消した《殺人者》

 明石海峡大橋と淡路島が一望できるカフェで、私は独りで空想に耽っていた。

 視界の隅には、舞子墓苑のキリスト教墓地が見えている。

美鈴みすずちゃんはね、私のお姉さんの生まれ変わりだと思うの。お母さんはね、私の前に妊娠したことがあって、流産したの。性別は判らないけど、私は女の子だったと思うの」

 私の記憶は、このセリフと共に、十年前にタイムスリップする。かつて親友であった、磨夜まよの言葉だ。磨夜は、私よりも二歳下だった。

 私は、この十年間、ずっと磨夜の心の闇は何であったのか、解らなかった。哀しくなるので、普段は、考えないようにしていた。だが、時折、心の扉をドンドンと叩く音がする。すると私は、のべつ幕無しに《磨夜の心の闇》について考えに耽るのである。

 磨夜の人生には、何か一つ、欠けているものがあった。私は心の中で、それを《ミッシング・リンク》と呼んでいた。本来なら生物用語で『失われた環』を意味する。従来の意味はさておき、私の心の中で、そう呼ぶには、問題ないだろう。

 私は、今でも記憶を呼び起こせば、磨夜の声や仕種を鮮明に思い出すことができる。それと同時に、磨夜に頼られる重圧に苦しくなり、逃げ出した過去も蘇る。

「私が、あの晩、磨夜からの電話に出ていれば……」

 堂々巡りに入る思考を、もう一人の私が囁く。

「考えても仕方のないことは、考えないほうが良い」

 そう割り切って、日々を過ごし、十年が経った。時折り、心の扉を叩く音に気付き、ノブを回したが、開かなかった。

 始めのうちは、毎日のように、扉を叩く音が聴こえた。時が経つにつれ、一週間に一度となり、一ヶ月に一度となり、やがて年に数回の頻度に落ち着いた。

 ここ数年では、私の心の扉を叩く音は、一月と五月に鳴ることが判って来た。私の心の中の問題なのだが、時期が来ると、脳内の何処かの記憶が呼び覚まされるのだろう。

 私はその度に、「書き留めておくと、扉が開くのではないか?」と思うようになった。今年は、ちょうど十年目の節目だ。文章形態は、どうでも良い。鮮明に思い出すことができるのなら、できる限り詳細に書き残そうと思った。


 十年前。私は、三十三歳だった。

 その年の一月三十日。零時過ぎに、スマホが振動していた。私は早めにベッドに入っていたので、着信を無視した。

 内心では、スマホの電源をオフにしなかったことを悔やんでいた。オフにしていれば、自分の心に嘘を吐かず、後で「知らなかった」で済ませられる。だが、気付いていて無視する場合は、後悔が残る。

 その日の私は、何日も続く睡眠不足が祟って、疲弊していた。起き上る気力も、残っていなかった。

「今日は眠らせて欲しい。ごめんなさい」と、布団の中で呟いた。

 スマホは、一分ほど振動し続けると切れた。だが、十秒後には、また振動した。それが五回ほど続き、やがて静かになった。

 スマホの着信には、見当がついていた。だが、私も疲れている。とにかく眠らせて欲しい。睡眠不足で頭が働かなくても、毎朝六時過ぎには起きて、会社に行かなければいけない。「ごめんなさい」と繰り返しながら、私は眠りに落ちた。

 翌朝、スマホを確認すると、六件の着信履歴があった。五件は零時過ぎで、私の予想通り、磨夜からの着信だった。その後、三時過ぎに、磨夜の母、塔子さんからの着信もあった。深い睡眠状態だったのだろう。三時過ぎの着信には、気付かなかった。

 私は、「またか……」と思いながら、朝の身支度を整え、自宅を出た。会社に着いて、仕事が一段落したら、塔子さんに連絡しようと思った。

 駅に着くと、電車を一本見送り、特急電車の窓際席を陣取った。そして、ぼんやりと車窓からの風景を眺めていた。

 私は当時、実家の両親と一緒に暮らしていた。最寄り駅は私鉄の終着駅なので、朝の通勤は必ず座れた。兵庫県と大阪府の境にある、山に覆われたニュータウンだった。阪神間の市街地と比べると標高が高い。そのため冬は、深夜に雪が降る日も多かった。

 その日も、電車が走り出すと、車窓からの銀世界が美しかった。電車が十分ぐらい走ると阪神間に入り、途端にゴミゴミとした下町の風景に変る。そこには、雪が降った形跡など、なかった。私は、《会社》という現実世界に連れ戻された気がして、毎朝、ガッカリしたものだ。

 さらに十分ぐらい走ると、梅田の高層ビル群が遠目に見え、社内は鮨詰め状態になっていた。幸い、特急電車の座席シートは、新幹線の座席のような配列なので、私の前に、立ち姿の乗客の息が掛かることはない。

 いつもなら、朝の特急電車での四十分間は、読書タイムか、仮眠タイムだ。だが、その日は、スマホの着信が気になり、何もする気になれなかった。

 その日は、晴天だった。だが、遠目の高層ビル群は、空気が汚れているせいか、シルエットがぼんやりとしていた。不快な霧の中に君臨する、呪われた城のようだと思った。

 やがて、特急電車は、梅田駅に到着した。ゴチャゴチャとした地下道、不機嫌そうに足早に歩くサラリーマンの姿。この中に、ストレスを感じている人間はどれぐらい存在するのだろう? 何を目指して生きているのだろう? そして、私も何を目的に、会社勤めを続けているのだろう? と思った。

 梅田界隈は、いつも何処かのエリアが工事中だった。完成するたびに高層ビルが増え、地上はビルの影で暗くなった。まるで、街ゆく人々の心を反映しているかのように。

 東京も大阪も日本の都市部はみな、同じような光景なのだろう、とも思った。

 地上を歩くと、ビル風が冷たい。地下道に潜ると、私は、夜中の着信履歴を思い返し、

「磨夜ちゃんは、わがままだ」

 と、心の中でぼやいていた。昨年の十月末は、三十人目ぐらいの彼氏と別れ、「妊娠した」、「流産した」などと騒いで、睡眠薬を大量に飲んだ。

 磨夜の自殺未遂騒ぎは、恋人と別れ話が持ち上がると繰り返されていた。

 その後は、「仕事に生きる」、「もう恋はしない」と言っていたが、十二月に入ると、早速、新しい恋人ができて、年末は上機嫌であった。

 だが、年が明けると言い争いが起こり、また睡眠薬を大量に飲み、磨夜の母親から夜中に電話がかかって来た。

 磨夜は、一命を取り留めると、今度は「話を聞いて欲しい」と、夜な夜な私のスマホを鳴らすようになった。

 私は、祖母の躁うつ病を、間近で見ていた経験がある。そのため、塔子さんに、家族や周囲の者の健康や精神力が参るので、磨夜は病院に入れたほうがよいと助言した。

 だが、本人に入院する意志はあるのだが、医師の前で完璧に演技をして、ハキハキと受け答えをするので、入院には至らなかった。

 磨夜は、以前からリストカットや睡眠薬の過剰摂取を自慢する癖があった。《悲劇のヒロイン》を演じているようだった。

 こうした患者には「がんばれ」と言ってはいけない。私は、自身の発言に注意を払い、話を聞くだけに留めた。私は、磨夜が自殺未遂を繰り返していると、本当に死んでしまうのではないか、と内心ヒヤヒヤしていた。

 本人は、本気で死ぬつもりはなく、「彼が心配してくれた」、「両親が泣いていて、私を大切にしてくれていると確信できた」などと、話していた。

 私は磨夜を可哀想に思う反面、我儘だとも思っていた。そう思うのなら、磨夜と友人関係を解消すれば良い。でも、できなかった。磨夜の恋愛遍歴には、深い霧の中のように、理由があったのだ。磨夜との会話の中に、時々登場する男性の存在があった。

 始めのうちは、磨夜の心の病から来る、幻影だと思っていた。だが、昨年の妊娠と流産の話を機に、男性の存在は真実味を帯びて来たのだ。

 続きを考えようと思っているうちに、勤務先のオフィスビルの地下出入り口に着いた。高層ビルのエレベーターも電車と同じく鮨詰めで、同僚の顔もチラホラと確認できた。

 エレベーターを出ると、私は夜中の着信も忘れて、日常業務に追われ、オフィスの中へと溶け込んだ。

 その日の昼休みに、塔子さんのスマホを鳴らしたが、出なかった。

「今回も磨夜ちゃんは、睡眠薬を大量に飲んだのかな?」

 と、ぼんやり考えながら、私は午後からの仕事をこなした。

 塔子さんと電話が繋がらなかったせいもあるが、「磨夜ちゃん、無事だよね?」と心の中で問い、「まさかね」と、取り消した。

 塔子さんから連絡が入ったのは、十五時過ぎだった。振動するスマホを片手に、私は給湯室に移動した。自席から給湯室までは、十㍍ほどの距離だ。だが、長く感じた。額からは、汗が滲み出ていた。胸騒ぎという感覚ではないが、異常に緊張していた。

 私が携帯に出ると、塔子さんの声は、涙声だった。塔子さんの涙声は、過去にも何度かあった。今回も「集中治療室にいるの」と、告げるのだろう、と思っていた。

 だが、塔子さんは、磨夜の死を告げた。そして真夜の父親、敏郎さんが失踪した事実も。

 私は、悪い夢でも見ているのだと思いたかった。なんと返して良いのかも分からず、

「何か手伝えることは、ないですか?」

 と、聞いた。こんな時に、通り一遍のセリフしか出てこない自分が腹立たしかった。

「警察が来ていて、立ち入り禁止なの。落ち着いたら電話するわね」

 と、塔子さんが言うと、電話が切れた。

 私は、足の力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。「ショックなことがあると、身体の力が抜ける」と、何かの本で読んだが、本当に脹脛の感覚がなくなり、立っていられなくなった。

――磨夜ちゃんが死んだ? 敏郎さんが失踪した? 警察が来ている?

 身体の力は抜けたが、私の頭の中は、目まぐるしく働いていた。異様に覚醒していたと言ってもいいほどだ。

――敏郎さんは、娘を溺愛していたので、後追い自殺するつもりなのか? それとも、娘の喜怒哀楽に振り回されて、父親が娘に手を掛け、逃走したのか?

 後者は、絶対にありえないと思った。

 零時過ぎに、私のスマホが振動していた。磨夜からだと解っていた。だが、私は前日の睡眠不足が祟って、早めに就寝していた。身体が怠く、どうしても起き上れなかった。私が電話に出ていれば、磨夜は死なずに済んだかもしれない。敏郎さんも、失踪することはなかっただろう。

 敏郎さんは、自殺未遂ではなく、亡骸となった娘を見て、ショックで出奔したのだろうか? 苦しむ娘を見て、楽にしてやりたかっのか?

 私は同じことを、グルグルと考え続けた。

 しばらく給湯室の壁に寄り掛かっていると、珈琲を淹れに来た、他部署の女性社員が現れた。

嵯峨野さがのさん、どうかされましたか? 顔が真っ青ですよ」

 私は、女性社員の声で、我に返った。掌で頬を触ると、冷水の感触があった。冷や汗をかいていて、全身に悪寒が走った。

 しゃがんだ姿勢のまま、なんとか腕を上げて流し台の上部に掌を乗せた。手に力を入れて、ようやく立ち上がった。フラフラとした。

「医務室に行ったほうがいいですよ。それとも、誰か呼んできましょうか?」

 と、女性社員が気遣ってくれる。

「知り合いの者に不幸がありまして。驚いただけです。早退するので、大丈夫ですよ」

 と、私が答えると、

「それはショックですよね」と、女性社員が返してくれた。

 私は、愛想笑いを浮かべた。

 暖房の効いたオフィスビルの中にいるのに、私は、雪山にいるような、凍える寒さを感じた。だが、女性社員の言葉で、じんわりと心が温かくなった。

 女性社員は、心配そうな表情で私を見詰めていた。私は黙礼すると、オフィスに戻った。

 その後、どうやって上司に許可を取り、帰宅したのかは覚えていない。十八時には実家の自室に閉じ籠っていた。

 私は、飼い犬のミニチュアダックスフンドを抱き、

「ねぇマロン、磨夜ちゃんが死んじゃったよ。もう夜中の電話もかかって来ないよ」

 と、語り掛けた。

 犬は、言葉を理解しているのか、私の顔を見上げて、右頬をペロリと舐めてくれた。いつもは、犬の細菌を気にして、すぐにアルコール・ティッシュで消毒するのだが、この日は、犬の優しさに癒された。

 敏郎さんは、生きて見つかるだろうか?

 部屋着に着替えた私は、しばらくボンヤリとしていたが、自室のTVをつけた。十八時四十五分から始まる、地方版の十五分間のニュース番組が始まった。

 女性アナウンサーが、「先ほど入って来たニュースです」と前置きをすると、

「娘の殺害容疑で警察が行方を探していた藤崎敏郎容疑者が、遺体で発見されました」

 というような内容を、読み上げた。正確な一文一句は、覚えていない。

 TV画面には、閑静な住宅街が映っていた。画面の右上に、大阪府箕面市と表示されていたのを、記憶している。

 磨夜の苗字は、藤崎さんだ。そのニュースは、出奔した敏郎さんの最期を告げていた。

 私は、飼い犬に向かって、

「磨夜ちゃんのパパも亡くなったよ。だけど、殺害容疑と言っていたね。あのダンディな敏郎さんが、娘に手を掛ける訳がないよね」

 と、話し掛けた。犬は哀し気な表情で首を傾げ、私の顔を見ていた。

 敏郎さんは、磨夜の遺体の第一発見者だから、疑われているのだ、と思いたかった。

 だが、優しい人だからこそ、《殺害》という行動を採った可能性もある。

 私は、森鴎外の『高瀬舟』を思い出した。

 もし、敏郎さんが、死に切れなかった磨夜の姿を見て、磨夜に「死ぬのを手伝ってほしい」と言われたら、どうするだろう? 助かる見込みはなく、もがき苦しんでいたら、「早く楽にしてあげたい」と、思うかもしれない。それは、娘の殺害になるのだろうか?

 私は、躁うつ病で苦しんだ、晩年の祖母の姿を思った。祖母はよく、「死にたい」と言っていた。実際、果物ナイフを首に当てて、

「美鈴ちゃん、おばあちゃんが手を引くのを、手伝ってちょうだい」

 と、真剣に言い寄られた過去がある。狂言自殺の演出だと願いながら、私は、恐怖で凍り付いた。両親は不在で、家には祖母と私の二人きりだった。

 証人は、誰もいない。私が手を貸しても、貸さなくても、この場で祖母が自死を遂げたら、私は、容疑者になる、と思った。

 どうせ疑われるのなら、手を貸してもいいのではないか? とさえ、思った。幸い、母が外出先から電話を入れるのを習慣化していたので、助かった訳だが。

 私は、磨夜の息の根を止めたのが、敏郎さんだとしても、残酷だとは、思わない。だが、敏郎さんも、磨夜の後を追って、逝ってしまった。

 敏郎さんは、昔を懐かしんで箕面へ行ったのだろうか? 磨夜は幼少のころ、箕面で育ったと言っていた。先ほどのニュース画面の中継は、「大阪府箕面市」と、なっていた。

 塔子さんは、どうしているのだろう? 今ごろ、一人で警察やマスコミ相手に闘っているのだろうか?

 磨夜には、大学生の弟がいたが、横浜在住だ。もう実家へ駆けつけただろうか?

 私はスマホを、ぼんやりと見詰めながら、出口のない迷路に迷い込んでいた。

「今は、塔子さんに連絡しないほうが良い」と判断すると、夕刊を読むため、リビングに移動した。夕刊の社会面を見たが、磨夜と敏郎さんのニュースは、載っていなかった。

 磨夜は、自分の理想や悲壮感のために、自死を選んだのだろうか? だけど、残された者の悲しみは一生、消えることはない。

 磨夜を思う家族や友人がいる限り、《自死》ではない。磨夜は、自分で自分の存在を消した《殺人者》だと、思った。

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